新作エッセイを募集中!メールにてお送り下さい。掲示板(今日のTimtam)に掲載します。
今日のTimtam最新の目次のページに行く
今日のTimtam月度集計のページに行く
以下2011年までの記事
今日のTimtam(山行記)にある2005年2月から2011年8月までの約200件の記事から、興味深いエッセイ(随筆)を選んで掲載しました。さらに評判の良い記事に★~★★★マークをつけました。
2006年3月~2011年8月 | 2005年2月~2006年2月 |
Aug. 24. 2011 日帰り登山の勧め(M) Jun. 26. 2011 夏山登山(M) Apr. 22, 2011 安達太良山は侮れない!(Its)★ Aug. 18, 2010 赤木沢レポート(Ta) Jul. 20, 2010 マスキ嵐沢:梅雨空の中、西丹沢の沢へ(Its) Jun. 20, 2010 梅雨入り前の小金沢連嶺縦走(Its) May 25, 2010 5月の南会津の空はあくまで青かった (Its) Apr. 07, 2010 つづら岩:マルチピッチの岩登り(Its) Jan. 27, 2010 久しぶりに奥多摩 スノートレッキング(Its) Jan. 27, 2010 雪山登山 南ア/仙丈ヶ岳(Its) Jan. 27, 2010 今季の冬山事始め 北八ヶ岳(Its) Oct. 31, 2009 ひたすらスラブ登攀 西ゼン(Oh) Oct. 19, 2009 横尾本谷右俣~南岳(Ch) Oct. 07, 2009 秋の焼岳(Ch) Aug. 24, 2009 尾瀬・小淵沢 報告(Its) Jul. 21, 2009 ドーパミンの仮説(M)★★ Jul. 20, 2009 濡れた衣服と低体温(Ch)★★★ Jun. 26, 2009 事始め:夢、実現?(Its) May 26, 2009 丹沢三昧(Oh) Apr. 27, 2009 阿弥陀北稜(Hs) Apr. 14, 2009 長いゴーロを抜けるとナメ滝だった(Oh) Feb. 19, 2009 天に星、地に雪、終わり無きラッセルの旅(Mya) Feb. 18, 2009 ちょっと贅沢、温泉泊まり焼岳(Chs) Nov. 24, 2008 釜の沢は静寂をもって明鏡止水の心境(Oh) Nov. 12, 2008 夕暮れの状況判断(Mya) Oct. 04, 2008 核心は鶏冠尾根下降、東のナメ沢(Oh) Sep. 03, 2008 美ヶ原の焼山沢(Ch) Sep. 03, 2008 沢歩き雑感~三題話~(Ta) Aug. 20, 2008 夏の八ヶ岳集中に参加して-河原木場沢-(Ta) Aug. 19, 2008 いざ大同心へ!懲りない登攀(Mya) Jul. 15, 2008 ファイト一発!のカットが永遠続く、東沢下部(Oh) May 12, 2008 雨の日の低山はいい(M) Apr. 29, 2008 理系のための沢登論(1) 4・26竜喰谷遡行(Oh) Feb. 27, 2008 雪崩れビーコンの機能を携帯電話に (M) Feb. 22, 2008 ぼくも保ってみよう!(M)★★ Feb. 19, 2008 月に一度は山に行こう!(M) Nov. 26, 2007 鷹取クライマーに乾杯(M) Nov. 11, 2007 日本ザルの30年(M)★★★ Oct. 31, 2007 秘密の岩場とは・・・(M) Oct. 18, 2007 理科大ワンゲル部の50周年記念宴会(M) Sep. 25, 2007 ロープワーク習得の秘訣(M) Sep. 07, 2007 burning bean valley(Oh) Sep. 04, 2007 S・T・R・E・S・S(M) Aug. 21, 2007 釜の沢 Go west!(On) Aug. 15, 2007 北ア・赤木沢遡行(Ht) Jul. 27, 2007 北鎌尾根縦走 山行報告(Ht) Jul. 13, 2007 「森の土」の道・櫛形山(M) Jun. 20, 2007 金剛組、花王、ナベヤ(M) Jun. 12, 2007 スクールダスト(M) May 22, 2007 片付けは登山技術だ!(M) Mar. 20, 2007 レンタカー登山はいいもんだ(M) Mar. 05, 2007 小岩井サンセットロックと常連さんのいない岩場(M) Feb. 27, 2007 登山技術としての「仲間作り」(M) Feb. 23, 2007 素敵な’もしくは‘いい’苦労(M) Jan. 23, 2007 「青葉の岩場」に行こう!(M) Jan. 04, 2007 行け!男子校ワンゲル部(On) Dec. 07, 2006 三丁目十番地の風景(M)★★★ Nov. 24, 2006 漠然と願っている時にチャンスは向こうから?(M) Nov. 15, 2006 シブかった、おぐら山(Kb) Nov. 10, 2006 小冊子;話し方の練習用(M) Oct. 27, 2006 DNAと教え好き(M)★★★ Oct. 06, 2006 キラリンとひらめくように(M)★★ Oct. 05, 2006 道志の加入道山(Hat) Oct. 04, 2006 八ヶ岳での話し(M) Sep. 19, 2006 パソコン通信の時代を知っていますか?(M) Sep. 05, 2006 沢遊びの時代 (M) Jul.19, 2006 ノーマライゼーションの技術(M) Jul. 13, 2006 源治郎沢のドロ水(M) Jun. 26, 2006 自立型の登山者を目指して(M) Jun. 21, 2006 巻機山山行記録(Ino) Jun. 02, 2006 悪沢のF1とF2とF4が教えてくれたこと(M)★★ May 11, 2006 (後段に症例集追加)野生のエルザ症候群(M)★ Apr. 28, 2006 モミソ沢で沢始め(M) Apr. 19, 2006 土合駅と谷川岳西黒尾根(M) Apr. 13, 2006 レンタルワカンジキの研究記(M)★★ Mar. 24, 2006 大草原の稜線を歩くコース(M) Mar. 15, 2006 タカマタギ山の山スキー教室で鬼が笑う(M) Mar. 13, 2006 六本爪軽アイゼンの可能性(M) Mar. 07, 2006 登山用品店でミエハル君になろう(M)★ Feb. 23, 2006 山靴の詩(M) |
Feb. 21, 2006 軽登山靴を買って山に行こう(M) Feb. 09, 2006 氷壁と登山ブーム(M) Feb. 01, 2006 山岳スノーシューTSL225はスグレモノ(M)★ Jan. 27, 2006 アイスクライミング、チョイカミの勧め(M)★ Jan. 20, 2006 22回目の富士山雪上訓練(M) Jan. 12, 2006 奥秩父クリスマス縦走(M) Jan. 01, 2006 山の本(Nai) Dec. 15, 2005 たぬき山と携帯電話(M) Dec. 12, 2005 22年の時を隔てて(M)★ Dec. 06, 2005 岩登り教室誕生の物語(M) Dec. 02, 2005 ラッキョウの思い出(M) Nov. 30, 2005 近くていい山、滝子山(M) Nov. 25, 2005 箱根の山でヤブコギだい(M) Nov. 22, 2005 街の子さんと雪の山(M) Nov. 11, 2005 岩場への復帰大作戦(M) Nov. 07, 2005 クッキングワールドと鷲津山の岩場(M) Oct. 31, 2005 マイカーVSタクシー(M) Oct. 15, 2005 北岳の話し(M) Oct. 14, 2005 モミソ沢とホームページ(M) Oct. 11, 2005 体育の日三連休と秋りん(M) Oct. 04, 2005 丹沢・早戸大滝から本間の頭(M) Sep. 28, 2005 ヒゲフジさんからの電話(M)★★ Sep. 27, 2005 高尾山森林走遊学大会スタッフ参加の記(M) Sep. 15, 2005 それなり沢ヤのカレーライス(M)★ Sep. 14, 2005 八月の岩登り(M) Sep. 12, 2005 夏に涼しい、日原・岳嶺岩(M) Sep. 09, 2005 レンタルシューズ物語(M) Sep. 06, 2005 静かなロマンチックな山(M) Sep. 05, 2005 3K(サンケイ)(M) Sep. 02, 2005 ブナの根じゃなかった(M)★★★ Aug. 29, 2005 ダカーポかな(M) Aug. 12, 2005 八合目をめざす(M) Aug. 05, 2005 金明水避難小屋で青森の沢の話しを聞きました(M) Jul. 27, 2005 釜ノ沢・東俣遡行(Nd) Jul. 22, 2005 縦走・奥秩父・乾徳山~北奥千丈岳(Nb) Jul. 14, 2005 かくれんぼと山登り(M)★ Jul. 07, 2005 星が降る(M) Jul. 04, 2005 オンエア(M) Jun. 24, 2005 身のこなし(M) Jun. 23, 2005 できることとできないことのバランス(M) Jun. 22, 2005 越沢バットレス(I) Jun. 20, 2005 大切に残された古いパソコンの仕事(M) Jun. 15, 2005 青いビニールの傘(M) Jun. 14, 2005 ガイド登山の取材をしました。(M) Jun. 11, 2005 雨で岩場への個人山行が中止(M) Jun. 08, 2005 また山においでよ!(M) Jun. 07, 2005 台風4号(M) Jun. 01, 2005 広沢寺の岩場(I) May 30, 2005 雨の月曜日(M) May 27, 2005 三つ峠(I) May 23, 2005 残雪の守門岳(M) May 13, 2005 生と死の分岐点(I) May 11, 2005 小川山(I) Apr. 15, 2005 フリークライマーと火事場の馬鹿力(I) Apr. 13, 2005 道具の手入れ(I) Apr. 08, 2005 カロリーメイト(I) Apr. 04, 2005 パ、パソコン通信が!(M) Apr. 01, 2005 桜が咲きました(I) Mar. 30, 2005 土合駅にビバーク(I) Mar. 25, 2005 登山とダイエット(I) Mar. 23, 2005 北八ッ天狗岳に行ってきました(I) Mar. 18, 2005 天狗岳(I) Mar. 16, 2005 エングラムを積め(I) Mar. 15, 2005 ホンネとタテマエ(M) Mar. 14, 2005 北八ヶ岳・八柱山(M) Mar. 11, 2005 日和田山(I) Mar. 10, 2005 ふしぎな瞬間(M) Mar. 09, 2005 只今クリップ練習中(I) Mar. 08, 2005 タカマタギ山顛末記(M) Mar. 04, 2005 今日は雪(I) Mar. 03, 2005 タカマタギ山(M) Mar. 02, 2005 月曜日は眠い(I) Feb. 25, 2005 貴重な体験(I) Feb. 22, 2005 恵比寿の地(M) Feb. 18, 2005 贅沢な遊び(I) Feb. 16, 2005 ATC(I) Feb. 13, 2005 北八ツテント泊(I) Feb. 08, 2005 北八ヶ岳テント山行(M) Feb. 05, 2005 既存の概念にとらわれたくない。(M)★★ Feb. 04, 2005 今日のtimtamをスタート(M) |
August 24.2011 日帰り登山の勧め(M)
「いそがしい日本の一般成人(会社員,派遣社員,主婦,教員,経営者・・・様々ですが筆者のイメージが総称としてサラリーマンなので、以下サラリーマンとさせて下さい)の方が趣味あるいは生活の一部として山登りを続けて行くなかで、豊な日常生活を送るようにする。」のがTimtamと笈(Tim&Q)のコンセプトです。
Tim&Qの講師は現在、現役のサラリーマン(あるいは20年以上サラリーマンであった方)ばかりなので“サラリーマン登山のノウハウ”がわかっているのが強みです。
日本のサラリーマンは盆と正月を除くと長期の休暇が取りにくいです。さらに、最近は土曜に出勤する職場も多くなって来ましたので、年間を通して定常的に山に行きたかったら、丸一日休みを確保出来た時は出来るだけ、日帰りの山に行くという山との向き合い方が有効です。そして、日帰りで行ける山の数は少ない(公共交通機関を利用ならさらに少ない)のでその登り方には工夫が必要になって来ます。
①気に入った同じ山に何度も行く←同じ山(同じコース)に飽きないタイプ向きです。(適期10月~5月)
②岩場ゲレンデに行く←サラリーマン登山者が楽しめるルート(プロテクションの多いテンアンダー)は少ないです。スポーツとして楽しむ、トレーニング、仲間作りの場などとしてはいいですが、山登りの充実感は不足します。(適期10月~5月)
③沢登りに行く←奥多摩に100、丹沢に100、秩父に200、・・・想像を越える沢のルートがあります。(適期4月~10月)
④地図読み山行に行く←地図に登山道表記の無い尾根にコースを設定し、実際に歩きます。そのルート数は沢のそれと同じかそれ以上です。(適期10月~5月)
⑤スノートレッキングに行く←晴天率の高い太平洋側の気候の山がねらい目です。(適期12月~3月)
*①~⑤を合わせ考えると、「夏は沢登り」「冬は地図読み山行(兼:スノートレキング、チョイト岩登りプラスも可)」をターゲットに山に行っていると、次から次へと行きたい山が涌いてきて、楽しいこと請け合いです。
June 26. 2011 夏山登山(M)
夏山縦走と沢登りは世界に誇る日本のお家芸とも言える登山形態です。
森の中を行かない夏山(以下:夏山)の大敵は雨です。雨+トラブルでのビバークは雪山でのそれ以上にやっかいかも知れないです。行動中に雨具を着ていても、発汗で体の中はずいぶん湿っています。ツエルトやテントをはたくのは雪(乾いている)でなくて雨、足元は水が流れています。冬より暖かい分、同じ湿度でも含んでいる水の量が違います。それらの水で体が湿り、大量に体温が奪われます。そして、せっかく乾いた衣類に着替えてもツエルトやテントの中で、再びそれを濡らしてしまう可能性は大です。
夏山だからこそ衣類を工夫して下さい。炎天下の行動は綿のTシャツでかまいませんが、他は綿が混紡された衣類はNGです。使わなくても防寒具(セーター)は必携です。2000m(高さは緯度により違います)を越えるような場所でのテント泊の場合は夏用の薄手シラフでなくてスリーシーズンか軽めのオールシーズンシラフにしましょう。新品のゴアテックス雨具(テント泊の場合はゴアテックスシラフカバーも)を持って行きましょう。夏山だけ使って、そうでない山に行く時は古い雨具に戻します。新しい雨具はそれが必要な山にのみ使うというやり方です。
衣類が濡れたままで一晩過ごさなければならない状態になっても、ガタガタと震えなくてすむような材質と適量の衣類を持っていることは夏山登山の危機管理に必要です。
April 22, 2011 安達太良山は侮れない!(I島)
2011年3月5日・6日
5日の9時50分に二本松の駅集合。東北道を二本松インターまで行き、そこで高速を降りて駅に向かった。1時間ほど早めについて、駅前のセブンイレブンで講師のM浦車を発見し、隣に横づける。N嶋女史も一緒。駅の方に歩いて行くと小林氏を認めた。一本早い電車にて到着とのこと、近況を話し合う。しばらくして、I井氏、T里女史、Y井氏が合流して7人で2台の車にて安達太良スキー場に向かった。天気は晴れ。スキー場はそこそこの風が吹いていたが、駐車場は満車状態であった。整理員の指示に従って駐車し、出発の準備を整え、スキー場に向かう。道標に従っていくと、やがてスキー場から離れて山道へ。数十分も登ると勢至平に入っていく。本当に広い雪の原野が広がっている。のんびりとしたハイキングの様相である。勢至平で進路が西に方向が変わる辺りから、湯川の谷を歩く格好になる。右が谷方向で少々細い踏み後があるものの、歩きにくい。出発の折には晴れていた天気も、曇りで風も出てきた。谷が狭まってくると大きく左に曲がり、小屋が目に飛び込んでくる。今夜の宿泊施設である「くろがね小屋」である。2時前に到着したが、さっそく宴会モードに。日本酒、バーボン、ウーロンハイ、ビールなどを頂き、適当に温泉に浸かり、カレーの夕食を頂き、8時には就床した。宴会は長く、楽しく、・・・でした。
翌日は6時20分には朝食、7時50分にはすべてを整え、山頂に向け出発した。天気は快晴に近かった。しかし、行程の半分を過ぎた辺りで次第に雲が出てきて、風も強く、視界も幾分とも悪くなってきた。頬に当たる小雪の粒も痛い。一緒の宿泊だった茨城山岳会の人たち20名ほどが先導してくれる格好であったので、山頂直下まで問題なく進めた。頂上は風が強く、視界がまったくきかなくなっていたので、数分で降りて、帰途についた。
当初、下山はゴンドラ山頂駅を目指す予定であったが、視界がますます悪くなったので、M浦代表とY井講師で話し合い、往路を帰ることになった。茨城勢はゴンドラコースを行ったとみえ、進路方向には誰もいない。M浦代表を先頭にとにかく一路、くろがね小屋を目指す。歩き始めてからしばらくは視界が悪く、しかも強風が吹くなかでの移動である。こういう状況が道を失わせる原因になると直感した。しかし、数十メートルおきに立ててある竹製の目印を探して、進んでいった。小屋に近くなると人工物の一部(鎖はコンクリートの木に似せた柱など)が少し顔を出していて安堵する。小屋が見えたときには、本当に緊張が解けた。しばらく休んでいると、茨城勢も姿を見せた。きっとゴンドラコースに行って、引き返してきたのだろう。手がかりが少なければ、そちらのルートは危険ルートだ。小屋からの帰路の途中では、これから上がってくるパーティにもちらほら出会った。明日はさらに天候が崩れる予報である。彼らの安全を祈るのみである。
スキー場の駐車場に着く頃には幾分とも晴れ間も見えていた。数百メートルの違いが絶対的な違いなのだと思った。電車で帰る皆さんを二本松の駅まで送り、労をねぎらい再会を思って分かれた。帰りの高速はまだ2時台ですいていた。東北の名山、侮れず。そして楽し。
追記:この一週間後に東北大震災が起きた。11日の大惨事を誰が予想できただろうか。自然の猛威の前には人間の築き上げたものが、むなしくも消えていく。いや、消えていくどころではない。人間の経済的繁栄を支える、英知を絞った科学技術の最先端のはずのものですら、むしろ制御不能の災禍をもたらすことを、私達は思い知った。自然災害はどれほどそれに備えようとしても、対応できないことがある(今回の地震と津波)。それは自然が途方もないエネルギーを持っているからである。しかし、人間がつくりあげたものは、油断さえなければ、それへの対応はできるものだと思っていた。そんなに人間は愚かしくはないと。しかし、そうではなかった(原子力発電所)。人間は自分で作ったものですら、コントロールできないのだ。だからもう作らないという発想はないであろう。しかし、自分たちの欲望から享受したがために(暑い日の冷たい風邪、寒空でも暖かい空気・・・、スイッチ一つでの快適な生活。素早い空間の移動・・・)、エネルギーを生み出すテクノロジーから復讐にあうというような構図がそこにはあった。物理的な快楽を追求することに慣れすぎた私達の姿が、なぜかそこにぽつんと見えたのは私だけではないだろう。これからのエネルギー問題を真剣に考える機会が必ず訪れよう。そのとき、私達はどのような決心をしたらよいのだろうか。そして、その決心はこれからの私達の生活に大きな変化をもたらすはずである。エネルギー問題は直接私達の生活に左右する大きな、そして経済的繁栄を左右する大問題だからだ。
これから日本人はどのように生きていこうとするのだろうか。私が子どもの頃にはエアコンもなければ、携帯電話もなかった。もちろん、コンビニも。コンピュータも。今日、新しく開発された様々な製品に囲まれて、日々当たり前の生活をしていても、エネルギーの供給が止まってしまえば、私達は何もできない。そうなると却って、昔の生活の方がまだ豊かだったのではないかと思われる。薪でお風呂を沸かし、炭でお湯を沸かす。そして炬燵で暖まる。原子力がなくても最低限度の電力エネルギーで生きてきた。人類よ、おまえは一体どこに向かおうとしているのか?とついつい問いたくなってしまう。もちろん、その答えは与えられるものではなく、探し続けなくてはならないもののはずである。その覚悟をするべき時なのかもしれない。
August 18, 2010 赤木沢レポート(たけぞう)
2010年8月7日~9日
電鉄富山駅で急行能登組と前泊組が合流し有峰口へ。さらに予約したジャンボタクシーで折立へ向かう。マイカーの路肩駐車が昨年同様多い。
太郎兵衛平で笠ヶ岳・雲ノ平から来たTさんと合流。薬師沢で釣ったという岩魚をムニエルにしていただく。薬師峠キャンプ場にて室堂から薬師岳を越えてきたKさんとも合流。太郎平小屋は満杯でふとん1組に2人が寝る状況。テント組がうらやましい。翌日は太郎平小屋出発を4時半に早めた。
薬師沢小屋に6時20分到着。45分入渓。黒部川本流の水量は少なく、へつり1回のあと休憩。渡渉1回、赤木沢出合い手前のゴルジュ前を渡渉し、高巻き道へ。T・Aの2名はゴルジュ突破。いつもどおり出合いのナイアガラの滝で記念撮影。
8時40分出発。ウマ沢を分けた先の4段の滝は泳ぐ釜のある滝を高巻き後、ザイルをひいて胸までつかる滝を登る。途中1回休憩。大滝上で2回目の休憩。右俣を分けた次の二俣は左へ。ナメ滝が続く。水を汲んだ後の二俣は右へ。雪田がでてきて11時半終了。赤木岳をトラバースする岩場でIさんが足をひねるが空身で歩いてもらう。太郎兵衛平には15時半帰着。ごくろうさまでした。
3日目、予約したタクシーで亀谷温泉白樺ハイツへ。バスで帰るH・Aさんと別れ、電車組を富山駅改札口で見送りし解散となった。私は5回目の赤木沢であるが、条件もよくメンバーの足並みもそろい今回がいちばん楽であった。
July 20, 2010 マスキ嵐沢:梅雨空の中、西丹沢の沢へ
M浦車とタクシーで新松田駅から大滝橋まで、今回の参加者7名が移動。大滝橋からは林道をどんドン詰めていく。30分ほども歩いたでしょうか、入渓地点に到着。入渓地点は標識があるので間違いにくい。天気予報では雨は午後からになりそう。早速、沢支度に。
I島は普段使用している沢靴のフェルト交換のために、履く靴が無くなり、新調したためにどうもはき慣れない。違和感を覚えつつも皆についていく。B馬さんとW邉さんは、沢デビュー。最初の滝でI島スリップし、N村さんに支えてもらって、ドブンに居たらず。その後は慎重に進む。快適に男子7名が行進。途中で2人のパーティーと数名のパーティーに先行してもらうも、その後は入渓者には遭遇せず。静かな沢歩きとなりました。
印象としては、難しさの無い、比較的行程の短い沢でした。岩の色の性質のためでしょうか、幾分とも白っぽい印象からか明るい沢に見えました。水も適量で、歩きやすい沢でした。鳥たちのささやかな合唱もあり、短い時間でしたが、沢、堪能です。最後の枯れ滝を登ると目の前に稜線が見え、それを詰めて一般道に出ました。
W邉さんとI島は中川温泉につかり、新町田の学生さんの多い中華屋さんで食事して帰りました。W邉さんとは親しく楽しい話ができて、とても有意義でした。この年(もう少しで50台ともさよなら)になっても、楽しい人と出会えることに感謝。
2010年7月11日 参加者:M浦、N村、B場(川崎)、S水、W邉、A柳、(敬称略)、I島
June 20, 2010 梅雨入り前の小金沢連嶺縦走
2010年6月12日と13日の2日間を使って、初狩駅から歩き出して、滝子山→大谷ヶ丸→ハマイバ丸→大蔵高丸→湯ノ沢峠(避難小屋宿泊)→白谷丸→黒岳→川胡桃沢ノ頭→牛奥ノ雁ヶ腹摺山→小金沢山→石丸峠→上日川峠、と縦走してきました。
初日
最初、I講師より小金沢連嶺と聞いたときには、それってどこよ?という感じでしたが、昭文社5万分の一の「大菩薩嶺」を見ると、んん、なんと立派な背骨が地図を広げたど真ん中に、南北に長く展開されているではありませんか。うーん、行ってみたい。もう、気持ちは抑えられません。きっとたくさんの会員が参加するのだろうな、ナイトハイクも入っているし、ビバークだし、キット、キット楽しいに違いないと期待に胸をふくらませておりました。当初の予定では、初狩駅を午後12時半過ぎに出発でした。
しかし、山行の日が近づくとI講師からの連絡で、参加者は私一人(ウッソー!)であることを知りました。そして二人なので、宿泊地でゆっくりする計画に変更し、出発を少し早めようというのです。宿泊地でゆっくりという甘い言葉にすぐさま同意しました。
12日(土)当日は、梅雨入りも近そうなのですが、しかしよく晴れて暑い中を午前9時半過ぎに初狩の駅を歩き出しました。国道20号を左折して、少し歩いて最初の信号を右折し、直進して高速の下をくぐり、部落を過ぎて山道に入っていきます。途中で散歩中のご高齢の婦人に出会い、軽く挨拶。ワラビとタケノコを持っていましたね。散歩がてらにちょっとした総菜の具の収集だそうです。熊が出るのでご注意をと言われ、慌てて鈴を出していざ出陣。暑い照り返しの中を少々歩くと沢沿いの山道を登ります。
沢道を離れてしばし登ると檜平です。山ツツジが満開で、朱色の花が鮮やかな緑とコントラストをなして、楽しませてくれます。こういう自然の、光の芸術があるから、やはり山は止められません。暑い中、汗だくで歩いてもやはり気持が良いのです。男坂を選んで急登をこなすと滝子山です。ツインピークスらしくて、手前の三角点よりも奥にあるピークが、標識付きの山頂でした。山頂に近くなるとツツジ以外にも、ムラサキ色の花をつけた五葉ツツジが朱色のツツジに負けじと咲き誇っていました。こういう風景が疲れを癒してくれます。頂上からは鎮西ヶ池に降りて、さらに大谷ヶ丸に向かいます。静かな山歩きが続きます。ここからは下がったり、登ったりの繰り返しです。ですが、風景は味わいがありあます。大谷ヶ丸から下ると天下石と呼ばれる奇石に出会いました。ここからさらに北に進むとハマイバ丸です。今までの比較的大きな木々に囲まれた歩きから、草原のような景色に変化しました。景色が明るくなり、霧が出てきては居るのですが、視界が開けると開放的な気持ちになります。
ハマイバ丸から大蔵高丸までは、草原のような趣の山容が続き、ロープで道が仕切られて、道以外の草原には入らないように注意書きがつけられていました。高山植物を保護しているようです。可憐な小さな花も咲き始めていましたが、これから梅雨になり、さらに花々の楽しめる季節になるのでしょうね。I講師とそういう時期にも尋ねたいですな?と話し合いながら、先に進みました。このころには塩分もだいぶ使い果たし、講師から塩の錠剤をいただき、しばし元気も復活です。
午後6時40分あたりに湯ノ沢峠の避難小屋に到着。小屋の後ろには大きな駐車場があって(あれれ)、興ざめでした。しかし、気持ちを取り直して小屋に入ると、なんとレディーばかりが6人ほど、すでに寝具などを床に敷いてご就寝の準備完了。一人が飛び起きて、お泊まりですか?と問うので、ハイ、と元気よく返事しました。すると床から出てきて、私たち用の場所を開けてくれて、寝具まで運んでくれました。その後は水場に行ったのですが、わからずに小屋に帰ると、親切にもレディーの一人がわざわざ水場まで案内してくれました(実は、水場所までは行っていたのですが、水の出口がわからなかったのです)。親切なレディーに感謝です。本当、もう少しお若ければ(失礼!)・・・。
私たち二人は食事のために、小屋の後ろの駐車場で銀マットを敷いて、食事をしました。持参した豆腐で麻婆豆腐です。豪華でしょう?空には満天の星です。明日は崩れ気味との天気予報ですが、今は素晴らしい晴れの夜です。I講師とこのまま星空の下で寝たら気持ちいいね、ここで寝てしまおうかなどと話しながらお酒も進みました。テントまで持参して、なかなかの強行軍で、相当の疲労でした。9時前には小屋に戻って、爆睡。
2日目
翌朝はレディーたちの朝支度で目が覚めましたが、床の中で寝たふり。6時前に起床して朝食です。トマトとキューイがデザートという豪華版。食事を済ませ、水を汲んでいざ出発。まだ夜露に濡れたままの笹に覆われた登山道を登っていく。霧が出てきて、なにやら幻想的な風景が展開される。白谷丸頂上に近づくとまたムラサキの五葉ツツジ(?)があちらこちらに群生していました。白谷丸の山容が見えてくると、これまたきれいな庭園のような景色が開けます。なんという演出。しかし、この山を下って川胡桃沢ノ頭に向かう道には全く異なる風景が待っていまいした。こちらは広葉樹の樹林帯、そしてその後は針葉樹というように、変化しました。そして、樹木には鹿の食べた後でしょうか、樹皮が無くなって痛々しい、木々が数多く立っていました。鹿を責める前に、まず私たち人間を責めなくては・・などと柄にもない想念にとらわれながら、歩みました。
川胡桃ノ頭は開けた山頂でした。この頂に着く頃になると天気も回復し、晴れ間も現れたのですが、すぐ曇るようになりました。左下には大菩薩湖も見えています。牛奥ノ雁ヶ腹摺山を過ぎて、小金沢山に向かうところには笹原が展開していました。笹藪の景色が続くようになるともう石丸峠も近くなります。
峠からはそのまま西に上日川峠を目指しました。2時半のバスで甲斐大和の駅に出たかったためです。峠から大菩薩湖を見やると、西の湖畔に沢山湿気を含んだ雲がわき上がっているように見えます。典型的な梅雨の雲ですね。笹の道を下りながら、長かったけれど楽しんだ、沢山の景色を反芻しながら2日間の旅程を終えました。バスの時間までだいぶあったのでロッジ長兵衛で生ビールとワインをいただきました。
今回は南から北へ向かうコースで、行き交う人々も疎らな、静かな尾根歩きとなりました。秀麗富岳12景の山が多いのですが、天候のために富士山は一度もその姿を現してくれませんでした。そういう山行もまた楽し。I講師の計画した、相変わらずのタフな(そして中身の沢山詰まった)山行に乾杯です。 記:I島
May 25, 2010 5月の南会津の空はあくまで青かった
会津駒編(1日目)
Timtam企画のゴールデンウイーク合宿に参加しました。私は1日の夕方から参加の予定でしたが、途中の林道で迷い、結局集合場所の檜枝岐村の予定地には午後7時近くの到着となりました。1日集合の方々はすでに夕食を済ませ、軽く一杯やっておりましたな?。目の前には川が流れ、沢の音も大きく最初は少々気になりましたが、一杯やりだしところにはそれも気にならなくなりました。気温はまだまだ寒く、マイナスにはならないものの、数度程度だったと思います。星が、木々の枝の間に降るように輝き、夜半には月も出てきました。テントの中で目覚めると、薄明るいのでもう朝かと思いました。時計を見るとまだ2時。月明かりで明るいのです。起床時間の4時にはまだまだでした。
今回私(I島)はソロテント持参なので、一人で朝ご飯。お湯を沸かし、適当に朝食を用意して、いよいよ会津駒の登山道に、車4台に全員が分乗して出かけました。民宿杉野屋さんの手前が登山道の入り口になっていますが、少々進むと進入禁止の鉄柵が置いてありましたが、それを退けてどんどん進みました。周りの人たち(クロスカントリースキーの人たちが多かったように思いますが)の白い目をよそに、遠慮無く階段のある登山口まで進み、その入り口の前の広場に車を駐車しました。身支度を整え、いざ出陣。
階段を進んで登山道に入ってもまだ雪はありませんでしたが、10分も歩くとまばらな雪が出迎えてくれました。そこからは少し歩いただけで雪だらけ。高度を稼いでいくと、青い空に、雪の白とのコントラストが楽しい交響曲を奏でているようです。木々にはまだ若葉も出ていませんが、太陽からの光は強く、今が5月であることを知らされます。1,650m辺りのなだらかな斜面からは、ゆったりした優しいカーブを描く、小屋辺りのスカイラインや、頂上付近のスカイラインが認められました。小屋に着くと、たくさんの登山者が休憩をとっていました。私たちは少々休んですぐに頂上に向かいました。360°の、上州、栃木、南会津の山々の大パノラマを満喫し、下山しました。
下山して、登山口の階段でI島は、階段のさんに左手を置いたときにバランスを失ってしまいました。転ぶのを避けるために、それを握ったところ、すべって左手の親指の付け根から肉球の方に4センチほどの棘を刺してしまいました。ドクターSが、N島さんのとげ抜き(こんなところにとげ抜きがあるなんて!)で抜いてくれました。その傷はナースのI井さんがしっかり処置し、さらに痛み止め、化膿止めを飲んで、宿泊地に戻りました。まあ、いつになってもドジなIts(I島)でした。けがをしたのに、温泉に入りたいとのわがままで再び消毒などをしてもらい、さんざん甘えてしまいました。参加者(M浦、N島、Y井、I井、S石、M下、K米、H崎、I藤、S田、I島:以上、敬称略)。
燧ヶ岳編(2日目)
5月3日は御池から燧ヶ岳山頂を目指します。今日は昨日にも増して、ますます青い空。檜枝岐の村を抜けて、御池まで車で移動します。御池の駐車場にはスキー目当ての強者たちが、様々に準備を進めています。私たちは駐車場の西端から燧ヶ岳の山頂を目指します。午前6時前には出発です。
コース的には御池田代の東端から南に向かって登り始めます。広沢田代に向けての北側斜面の登りです。雪が多く、本当にこれが自然のダムなのだということを実感させられます。まだまだ雪は深い。雪質は重くしっかりとしていて、深く埋まるようなことも(あまり)ありませんでした。順調に高度を稼いでいきます。
広沢田代に出ると、その広さが心を和ませます。さらに歩を進めると熊沢田代への登りです。こちらの登りは木々もだいぶ疎らになってきます。一度登り挙げると、熊沢田代は眼下に見えてきて、田代までは少々の下りになります。熊沢田代からは山頂である俎嵓(まないたぐら)は周囲の山々の景色を楽しみながら登れます。頂上付近には多くの人が休んでいました。こちらで絶景を堪能して、すぐ隣の柴安嵓へ。一度鞍部に降りて、急な登りが待っています。鞍部でアイゼンを装着して頂上へ。
こちらも絶景です。尾瀬ヶ原から至仏山が手に取るように見えます。尾瀬ヶ原に流れる川が一条の青い筋となって、雪原を走っています。そして、360°の山脈の大パノラマと、爆裂火口のコントラスト。至福の瞬間。そのときです。誰からとなく、空に虹がかかっているというのです。見ると、太陽の下に部分的にではありますが、U字型の虹が・・・。すると誰からともなく、太陽の周りにも完全な大きな虹がかかっているというのです。確かに。絶景に加えて、この自然現象。うーん。その後の調べでは、「暈」というらしいことがわかりました。
さ、そろそろ下山の時間です。明日は大嵐山。ですが、その前に、楽しい夕餉があったことは言うまでもありません。参加者(M浦、N島、Y井、I井、S石、M下、K米、H崎、I藤、S田、H田、I島:以上、敬称略)。
大嵐山編(3日目)
最終日は車で1時間ほどの移動があるので、5時前には出発です。昨日からの参加はM輪さん、S村さんです。湯ノ花温泉について、登山道を車で行けるところまで行きました。車止めからは沢伝いに登山道を進みます。数回の徒渉をこなして、沢筋に残っている雪の上を快適に登っていきます。今日は幾分とも曇りがちな天気。しかし気温はそこそこに高そうで、沢からの風が冷たく心地よい。沢を登り詰めていくと左方向にそれらしいルートと稜線が見えてくる。そろそろ雪とも分かれて、獣道のような急坂を登っていく。稜線に出ると、また雪がついている。雪庇のような形になったところを静かに歩いて、さらに頂上を目指す。稜線に出ると、視界が開けて東の方向に霞がかかった山々が眺められる。もう春の山々だ。
しばらく辛抱して登ると山頂に出た。山頂には手作りの可愛らしい大嵐山の標識が木にかけられていた。360°のパノラマ。小さいながらも雪山を楽しめた。静かな山頂を満喫して下山し、一路東京を目指した。午前中に東北道に乗れたためか、大した渋滞にも遭わずに済みました。参加者(M浦、N島、Y井、S石、I藤、M輪、S田、H田、S村、I島:以上、敬称略)。
いやあ、春の雪山三連発。なんとも心豊かになる、贅沢な山旅でした。5月の連休にこれほどの晴天が続くなどと予想だにしていなかったので、幸運でした。忘れ得ぬ山行というのがあるとしたら、こういう山行もそのうちの一つかもしれませぬ。
April 07, 2010 つづら岩:マルチピッチの岩登り
2010年4月3日に奥多摩・つづら岩でマルチピッチのクライミングの練習をしてきました。 午前中は薄曇り、午後には晴れてだいぶ暖かくはなりましたが、まだまだ寒さも残るクライミングでした。つづら岩は、武蔵五日市からバスで千足まで行って、そこから登ります。大岳山へのルートの途中にある岩場です。車だと県道からしばらく林道を車止めまで進むことができるのですが、バスだとバス停から車止めまで歩かなくてはならないので、アプローチの時間が増えます。車止めからつづら岩までのルートは1時間と少々ですが、結構急斜面の登りが続きます。途中、綾滝や天狗滝があって、目の保養になります。
つづら岩に到着したのが11時頃だったのですが、まずは岩の右方向の道に進むと小さな岩場がありあます。せいぜい20mにも満たないような岩場ですが、そこでまずトップロープクライミングで2本ほどこなし、ウオーミングアップ。
12時過ぎには本番ルートを狙おうとしたのですが、他の比較的大人数のパーティーが2パーティーほど入っていて使えず。そこで、N島さん、I藤さんは左のオケラルート(N島さんがリード)、 M浦講師、K子さん、I島がつり上げルート(たぶん。たぶんというのは、この後に登る本番ルートより少々難しかった印象なので。M浦講師も一般ルートの方が易しいとおっしゃっていた。ただ左ルートかもしれません。初体験の岩場なのでルートの同定をしっかりできませんでした。機会があれば正確に同定しておきます)をM浦講師のリードで登りました。やはり長いルートというのは、それだけで緊張します。ただ、少々我慢してとりついていると、手がかりが左右上下に比較的多く存在する岩だな、という印象を持ちました。小さな手がかりを利用するように工夫しながら登りましたが、体の使い方、特に手足の移動の良い学習の機会になったと思います。途中、テラスでピッチを切って、確保してもらって登攀し、K子氏が先に、その後私が登りました。セコンドピッチはテラスからはもう10mも登ったでしょうか、そこが到達点でした。到達点からの南方の眺めは抜群でした。懸垂下降で下降し、一休みしました。そうこうしているうちに、一般ルートが使用できるようになり、ここでは私たちの組はM講師がリード、女子組はN島さんがリードで(M講師の後をN島さんが続くという形で)登攀を開始しました。 途中のトラバースも楽しく、ピッチを切った後にはリードのまねごとで登攀しました。今回はいずれの登攀もテンションを求めることもなく、自分なりに充実した嬉しい山行でした。岩場までのアプローチの長さも、本番への実質的な練習と思えば、それなりの意義も見いだせると思いました。参加した皆さん、楽しいクライミングをありがとうございました。
実は、1月の3日、5日と日和田で登攀訓練をしたのですが、その折は比較的調子よく、ステミングフェイスをクリアし、バルジもロープの力を少々借りながらも登攀できました。しかし、3月の末まで日和田に足を運べずにいて、3月末の日和田にようやく出席できたものの(このときは男岩の南面をリードで数本登りました)、バルジもクリアできず、がっかりしていました。この日は、とにかくロープワークの基礎学習で、それができたのでよかったのですが、悔いは残りました。M浦講師に、2ヶ月の空白は大きい(練習していなければ、登れない要因になるということです)と示唆され、納得した次第です。ですが、このときに登って一週間後のつづら岩でしたので、この時の日和田の登攀訓練に参加したことがよかったのだと思います。
岩登りは、私たちの体(そして心)の状態を正直に表すものなのだな、と納得しました。I島・記
January 27, 2010 久しぶりに奥多摩 風と雲の山旅/スノートレッキング
2010年1月17日 奥多摩清八新道から御前山に行ってきました。
新宿発のホリデー快速で奥多摩駅に9時16分に着き、少々待ってバスで奥多摩湖まで行きました。晴れです。とても気持ちのよい青空が広がっています。幾分とも水の少ない小河内ダムを通って対岸にわたり、通行止めのゲートの横から湖沿いの林道に入ります。道なりに進んで、湖が奥まって終わるところにかかる小さな橋を渡り、方向を北にとってさらに進むと、尾根に取り付く道があります。
雪が溶けてさらに凍って、滑り易い箇所がありました。このシーズンに行かれる方はご注意を。そこを今度は南に向けて登ります。地図では急斜面を登ることになっていますが、緩やかに斜面をトラバース気味に登って行くと、644mの頂きに出ました。それからは尾根歩きですが、防火帯のように切り開かれた尾根に着いた雪の上を歩きます。
今回はH崎さんが先頭で歩きます。風もなく、日向は結構暖かく、上着を脱ぎました。807mのピークを過ぎると結構な急登になり、つらい!と思うころには水窪山の頂上でした。
ここでしばしの休憩を取り(地図で位置の確認)、小河内峠を越えて1200mのピークへ。ここを過ぎてソーヤの丸デッコの前に急な登りがありました。足場が悪いので用心しながらの歩きです。でも、このデッコに立つと、なんと眺めの良い事でしょう。今までの辛さが吹き飛ぶ、景観です。富士山から三つ峠、御正体も見えました。さらに西に眼を移せば、三頭山、さらには大菩薩嶺、雲取山、七ツ石、・・・と、はっきりその所在が確認できました。
奥多摩の山々は3年前に随分頑張って登っていただけに、感慨深く、「もう少し齢を重ねたらこういう山行も良いかな」などと自らに言い聞かせました。その後は愡岳山に向かいさらに御前山へ。帰りは愡岳山に戻り、サス沢山方向に1128mを目指して下山です。この尾根歩きもなかなか急な坂があり、楽しい下りでした。
今回は単独行の二人に会っただけで、本当に静かな尾根歩きになりました。帰りは奥多摩駅の角のスーパーに入って、澤ノ井の特別純米を求め、それを電車で飲みながら静かに帰りました。I上さん、S水さん、H崎さん、楽しい山行をありがとうございました。そうそう、軽アイゼンを持参したのですが、結局は使用しませんでした。(
I 記)
January 27, 2010 雪山登山 南アルプス/仙丈ヶ岳登山
2009年12月29日30日31日と南アルプスの仙丈ヶ岳に登りました。メンバーは10名で、テント泊が7名、小屋泊が3名でした。
29日は朝6時半に茅野駅前に集合。7時少々前にM浦車、T島車、I島車に分乗して一路、戸台に向けて出発。高遠を経由して、1時間少々で戸台の河原の駐車場に到着しました。すでに多くの車が駐車しており、山登りの装備を身につけ出発の準備をしている人達も結構いました。私達のパーティーも早速身支度を整えて、出発の準備をし、本日の幕営地である河原を目指しました。出発時は幾分とも曇っていたのですが、河原を出発するころには晴天になり、なんだか浮き浮きして期待の持てる山行の予感がしました。
この河原歩きは八丁坂の取り付きまで続く比較的長いものです。途中で鋸岳へのルートの起点になる角兵衛沢を通り過ぎます。河原にはうっすら雪が積もり、駒ヶ岳や仙丈ヶ岳に向かういくつかのパーティーとも出会いました。八丁坂は導入部に急坂があるものの、その後は比較的なだらかな緩斜面の歩きが続き、大平山荘に至ります。林道に出てまた山道に入ると、数分で再び林道に出て、林道を少々歩いて長衛荘に至ります。小屋泊まりの今夜の宿です。テント隊はもう少し歩いて北沢長衛小屋のテン場が宿泊場所です。テン場に着くとすでに幾張りものテント花が咲いていました。早速雪を固めてサイトの準備をし、荷物を入れて夕飯の準備をしました。明朝は6時30分に長衛小屋前集合なので、美味しい日本酒を少々頂き、就床。今日は結局アイゼン無しで歩き通しましたが問題はありませんでした。
翌朝は長衛荘前から出発して雪の積もった夏道を大滝の頭、子仙丈ヶ岳、仙丈ヶ岳と歩みを進めました。朝から曇りでしたが、比較的見晴らしは良く、全員が比較的歩調を合わせて頂上を目指せました。最初のうちは晴れていたのですが、次第に曇り空に。森林限界を越えると、北岳や鳳凰三山もよく見えました。北岳と富士山も一緒に見えたのですが、I島がカメラをテントに忘れたためにお示しできず、残念です。ちなみにここの写真はK林さんの撮影したものです。頂上までもう少しというところで大分雲行きも怪しくなりましたが、頂上を踏む事はできました。風も強く荒れそうなので、早く下山ということで、頂上には数分の滞在で下山しました。
下山途中、子仙丈ヶ岳を過ぎた急坂で単独の男性が倒れ込みました。様子を訊くと気持ち悪く歩けないということで、我が会のドクターが様子を見て、救助しました。高山病と低体温症の症状が出ていたようですが、どうにか下山しました。ソロは怖いですね。あのまま誰も気づかずに通り過ぎていたらと思うと、ゾッとします。
その日は戸台まで帰る予定でしたが、どう考えても夜間にあの河原を歩くのは遠慮したいということで、もう一泊して朝戻る事になりました。森林限界を出てからの壮大な風景を楽しみながら、雪の尾根歩きの醍醐味を幾分とも味わうことができたのは幸運でした。翌日の駒ヶ岳体は天気が荒れるということで結局、一緒に下山しました。I島車は仙流荘で一風呂浴びて、茅野で年越し蕎麦を食して帰京しました。(
I記)
January 27, 2010 今季の冬山事始め <北八ヶ岳冬山トレッキング>
2009年、年の瀬も押し迫った12月26日、27日の2日間、北八ヶ岳雪上トレッキングに行って来ました。
茅野駅集合でした。私は新宿8時発の特急スーパーあずさで、茅野に向かいました。茅野駅からは、下車後少々待て、渋の湯方面バスが出ました。Timtamの山行としては大所帯でしょうか、15名の参加でした。茅野駅前には登山客が多く、臨時便が出たために、私達一行は座って目的地まで行けました。
渋の湯で本格的な雪山スタイルを決めて、いざ今夜の宿泊地である白駒池の畔の青苔荘を目指します。渋温泉から山道に入ると早速雪深い森林に入ります。先週降った雪でしょうか、なかなかの景色です。森林をしばらく進むと賽の河原に出ました。ここは大きな石がゴロゴロ。賽の河原が終わると、再び林の中に入りました(雪が多いですね。木々に沢山の雪が積もっています。ここを入ってもう少し登れば、高見石です。
天候はまずまずで、曇り時々晴れという具合です。風も幾分は吹きましたが、林の中は静寂そのものでした。高見石では、小屋横の岩に登り、眺めを楽しみました。遠く、浅間の姿もちらほら。南方向には立派な中山の姿が美しい。高見石を出ると下りに入って、白駒池です。
一行はテント泊と小屋泊に別れました。お互い、夜は楽しかったようです(小屋泊はなにかとあったようですが・・・)。翌朝早くに小屋前に集合し、白駒池をわたって(全面氷結で、歩いてわたれました。麦草峠に向かいました。澄み切った青い空と雪の白のコントラストを楽しみながら、池をわたりました。そこからは大石峠、茶臼山、縞枯山と歩みを進めました。茶臼山は展望も良く、南アルプス、中央アルプス、御岳山、北アルプスの一部まで望む事ができました。
縞枯山からは一気に下り、山荘の手前に出ます。後はロープウエイの山頂駅までの平らな道を進みます。山行はここまでで、駅で解散となりました。私達は駅の売店の入った休憩所で軽く乾杯。この2日間を顧みて、天候に恵まれた癒される山行に出会えたことを感謝しました。これも日頃の行いが良いせいかも。来年もまた来てみたいと思わせるような、印象深い山行になりました。(
I 記)
December 14, 2009 ボッカ訓練/丹沢・大倉尾根 山行報告
早朝、電車の中から眺めた青空が、出発時には急速に曇り空に変わり、出発後1時間もせぬうちに、かなりの雨が降りだしました。今日の荷重は、2L入りペットボトルとそれを補完する河原の石。全員が久しぶりのボッカゆえ、30kgの無理強いはせず、重さは各自の自主裁量に任せて、目標時間もマイペースを尊重することとしました。
1回目の休憩は、分岐の再合流点である雑事場の平。休んでいると体が冷えて寒いため、休憩時間をちょっと短縮してすぐ出発。間もなく始まるモミジの回廊のも葉はすっかり落ちて、落ち葉が雨に濡れています。
2回目の休憩は駒止茶屋。激しく降りだした雨の中を、地面に座り込んで、震えながらお握りをかじりました。ここから約30分、堀山の家を過ぎた辺りから花立までは、いつに変わらぬ苦しい急登続きです。喘ぎ喘ぎ一歩一歩登ります。
やっとのことで着いた花立は、今日は雨と霧で視界はゼロ、今日は強風も加わって、寒うておちおち休んでもおれず。体の疲れは限界に近く、ここで荷を下ろして帰りたくなる。「ペットボトルの中の水を引き取る」という小屋番の甘いささやきを心を鬼にして振り払い、嫌がる体に鞭打って、尊仏山荘までの最終ラウンドに向かいます。ほんまに、ここからが結構長いんや。
約40分間の歯をくいしばっての苦闘ののち、階段の上部に小屋の影が見えてきたらやっとゴールです。やっと着いたぞ頂上に!鹿の夫婦は休みかな?暖かい尊仏山荘の内と外でザックの中の荷物を空にし、熱いコーヒーを飲んで生きる意欲を取り戻し、午後2時ちょうどに下山にかかります。濡れた岩場でのスリップに神経を使いつつ、やがて、日の暮れかかる午後4時30分、全員無事に大倉に帰着しました。
今日の雨で、予定していた大倉での鍋宴会は中止しましたが、面々は、びしょびしょになった衣服をものともせず、駅前の焼肉屋に大反省会を催すべく向かったのでありました。
ざんざん降りの雨と風の中、びしょぬれになり寒さに震え乍ら歩き通した今回の経験は、きっと、今冬の山行と次回のボッカに生きることでしょう。「雨もまた好し、情緒あふれる山行であった」とのたまう某風流山人もおりました。「Mけのある私にはこの被虐感は堪りません」とのたまう某変人もおりました。
なお、各選手の記録は次の通りです。
Mさん12.5kg(4時間0分)、YUさん17.0kg(4時間0分)、Y君 22kg4時間10分、YI君28.6kg(4時間0分)、I君28.0kg(4時間10分)注:K君は負傷中のため伴走参加。
October 31, 2009 ひたすらスラブ登攀 西ゼン
2009/10/24 魚野川仙ノ倉沢 西ゼン (曇り)
林道ゲート前6:30→入渓7:20→東ゼン西ゼン出合8:20→最後の二俣9:50→平標山11:30→林道ゲート前14:30
今回は壮大なスケールのスラブ滝を登ってみようと、上信越の沢、西ゼンをKAI氏とともに遡行してきました。
早朝、車で川沿いの林道ゲート前に着くと、別パーティも西ゼン遡行の準備をしている。今日は晴れ予報なので、遡行者も多いのだろう。こちらも入渓点までの地図を確認し、行動を開始。左岸の林道歩きに始まり、途中でつり橋を渡って右岸の登山道を進む。入渓点は樹林帯の中を二つの川が流れているが、遡行すればすぐ上流で合流し、川幅が広がり一気に視界が開ける。はるか遠くに平標山と目指す西ゼンが見え、周囲は燃えるような紅葉が広がっている。紅葉最盛期を迎えていたようだ。このすばらしい景色の中を、粛々と川の中を歩き、東西ゼン出合いに着く。
出合いに構えるビックなスラブ滝から、この先に控える第一第二スラブ帯のスケールに期待が膨らむ。遡行図の天然ウォータースライダーが楽しめるとある滝も、晩秋の時期にどっぷり川に浸かる物好きもいないだろうとほくそ笑みながら、6mほどの滝を登っていき、乾いた岩から水線上に足を置いた瞬間だ、ツルっと足を滑らせ、カニの甲羅のようにつるつるな岩に、なすすべもなく一気に滑り落ちて釜にどっぷりと浸かる!うわぁ冷た~!思わぬ西ゼンの洗礼をうけてしまった・・。通常水線中央はコケが少ないものだが、ここはスラブ滝で極端に水量が少ないから、水際と同じくコケが発生しやすいのかな。水線上は注意しながら特に問題なく第一スラブにたどり着く。見上げると山頂付近からほぼ一枚岩で構成されたようなスラブに一筋の水流が見事な滝を形成しており、その壮大な滝に圧倒される。途中樹林はなく、ここまで明瞭に麓から山頂までの沢筋を目視できる沢も珍しい。
第一スラブ帯もはルートを誤らなければ特に難しいところはないが、いかんせん高度感があり、滑落すれば一気に下まで転がり落ちるなぁ・・という妙な恐怖感がある。第一スラブ帯と第二スラブ帯の間にはいくつか滝があるが、基本的に直登可能で、巻き道もある。
一箇所右壁の踏み跡から高巻いたところ、どんどん沢筋から離れていくので、やむを得ず残置スリングのある木から懸垂下降したが、ルートの取り方によってはロープを使うまでもなさそうだ。
第二スラブ帯は、第一スラブ帯より傾斜が増すとあるが、右岸はバンドが多数はしっており、さして難しくはない。ふと振り返ると滝は遥か下まで続き、紅葉が谷川岳山域全域に広がりその眺望は壮観だ。第二スラブ帯も無事に突破して、いよいよ源頭部の二俣(1:1)にたどり着く。
遡行図によれば、ここから右俣を進み、背丈を越える熊笹の猛烈な藪漕ぎを強いられるとあるのだが、いくつかの少ない記録では、左俣は仙ノ倉山と平標山のコル付近まで沢筋が続き、藪漕ぎはほとんど無いらしい。計画通り今回は左俣を選ぶ。左俣の先にもいくつか二俣はあるが、コンパスと地形図を見ながらルートを選ぶ。すぐにある二俣も左に進み、最後の二俣はもうコルが見えているので、左右どちらを選んでも問題はなさそうだ。(我々は左俣が藪に覆われていたので右俣を選んだのだが、地形図としては左俣のほうがコルの最低部にたどり着きそうだった。左俣コースも知りたいところです)
ちょろちょろと流れる源頭部のこの水の一滴は、新潟の穀倉地帯を潤す魚沼川支流の最初の一滴だ。魚沼産コシヒカリもこの水で育つんだなぁ・・と感慨に耽りながら、賞味する。源頭の水というのはどうして、こうも甘くておいしいのか。ここで水を補給して歩き出せば、伏流となって水の音は地中に潜り、ついには枯れ沢となって音が消える。だがすぐ先の稜線は遮るものの無い風のパラダイスだ。水の音の世界が、風の音の世界に切り替わる瞬間、不思議な感覚だなと沢登りではいつも感じる。枯れ沢を抜けると熊笹はもう膝くらいの高さにあって、さして苦労することもなくコルにたどり着いた。コルで沢装備を解除していると、尾根上には途切れることなくハイカーの姿が見られる。
コルから膝栗毛に鞭打って平標山山頂までもう一息。山頂は360度の素晴らしい眺望。山頂には西ゼンの別パーティも休んでおり、右俣の藪漕ぎが相当つらかったそうだ。果たしてどのくらいきついのだろう。尾根を下る道すがら、西ゼンを見下ろし、改めてそのスケールの大きさに驚く。急峻な尾根を一気に下り、朝の川沿いの登山道から駐車場へ戻ったのでした。噂に違わぬ壮大なスラブ滝に、上信越の沢のスケールの大きさを実感する沢登りでした。 文:K郎
October 19, 2009 横尾本谷右俣~南岳
10月10日からの三連休を利用して、横尾本谷右俣から南岳、氷河公園へと周遊してきました。紅葉にはちょっと遅かったですが、好天に恵まれ『槍・穂高最後の楽園』といわれるカールを満喫してきました。
同行者は、横浜時代の職場の仲間のAKさん。以前は、横浜の社会人山岳会に所属し、20キロのザックを担いでテント縦走をしたり、雪山・沢登りもこなしていた強者です。最近は仕事が忙しく、山に行く頻度もぐんと下がってしまったものの、CW-Xとアミノバイタルを武器に見事に復活しました。日本酒についても大変詳しく、私の利き酒の師匠のようなひとです。近々、Timtamにも入会するそうですので、よろしくお願いします。
初日は横尾山荘が満室で徳沢ロッジ泊でした。朝4時起きで出発。モルゲンロードの前穂・明神岳を見ながら、横尾、本谷橋へと進みました。途中、本谷橋手前から横尾谷を通して、南岳がドーンと立派に見えました。本谷橋からはいよいよバリエーションルート。涸沢出合いまでは左岸を行きましたが、岩に阻まれて登る巻き道がかなり険しい。ハッキリとした踏み跡はあるし残置ロープも垂れているのですが、それでもなかなか大変でした。さらに進むと、本谷の二俣。我々の他に2パーティーがいましたが、いずれも左俣からキレットへと向かって行きました。
二俣を過ぎると川幅も狭くなり水量も減ってきます。あとになって考えれば、この辺りで沢靴に履き替えた方がずっと快適に早く進めたと思います。(我々はF1を越えたところで靴を替えたので、無駄な高巻きをしてしまいました)明るく開けた沢をつめていくと、最後にF2が見えてきます。青空を背景に真っ白い水が落ちている様は、まさに『天空から落ちる滝』でした。
そして、小さなF2を越えると、いきなり目の前に本谷カールが広がります。『黄金平』と呼ばれるその風景は、何度もネットの写真で見ていましたが、やはり本物は別格です。三連休にも関わらず、この圏谷にいるのは我々だけ。
大休止をとり、その後、横尾尾根の天狗のコルに向けて登ります。本谷橋からカール末端までが約4時間半。カール末端から天狗のコルで一般道と合流するまでに2時間弱かかりました。その後は、尾根を南岳まで登り南岳小屋泊。翌日は氷河公園(天狗原)経由で上高地に下山しました。(南岳小屋は自炊スペースが大変狭く、担ぎ上げた食材を生かせなかったのが心残りです)(2009.10.10-12)
投稿者:shoujohanne
October 07, 2009 秋の焼岳
「個人山行」転じて、個人の山行として行ってきました。10月4日、朝発日帰り。
中の湯温泉の上の旧国道沿いの登山口から、標高2000m付近のりんどう平を経て、北峰山頂へ。
樹林帯の中をのんびり1時間半ほど登ると、いきなり視界がひらけて、正面に焼岳の双耳峰が現れました。(実は北峰は後ろに隠れて見えていませんが)クマザサの緑とナナカマドの赤、ダケカンバの黄色のコントラストが見事です。空は、雲ひとつない秋晴れ。りんどう平から焼岳山頂までは1時間半くらいのコースタイムですが、立ち止まって景色を眺めたり写真を撮ったりしながらで、2時間ちょとかけて登りました。
頂上は、多少風があるものの、のんびりお茶をするのに最高のコンディション。というわけで、かなりの混雑。1時間近く寛いだあとに、焼岳小屋経由で上高地に下山しました。
下りは焼岳小屋までが1時間。 小屋から上高地の登山口までが1時間15分でした。途中、20-30人位の団体さん2パーティーとのすれ違いがあり、ちょっとうんざり。それでも2時には上高地に下山しました。
帝国ホテルまで歩き、そこでタクシーを呼び中の湯まで。帝国ホテルでは玄関先にボーイさんが出ていて、みすぼらしい格好でやばいかなぁと思ったのですが、なんと、向こうから声をかけてきてくれて、おまけにタクシーまで手配してくれました。汚い格好にもかかわらず、帝国ホテルの玄関先で、ボーイさんにタクシーのドアを開けてもらっての乗車。
中の湯の上の登山口までは3500円で、ちょうど沢渡まで出るのと同じ料金でした(一人だと割高ですが)。 車を回収したあと、中の湯でお風呂を頂いて帰りました。(投稿者:どくとる・てぃっぷる)
August 24, 2009 尾瀬・小淵沢 報告
尾瀬 小渕沢遡行
2009年7月11日(土)曇り後晴れ、そして曇り。
7月11日。尾瀬の小渕沢を遡行しました。前日の新宿発の夜行バス組と自家用車組に分かれての集合でした。4時半に大清水のバス停前を出発。奥鬼怒林道を西に進みました。50分ほどで小渕沢林道の分岐に。そこから20分ほど林道を登り、沢と交差するところから入渓しました。天気の方は曇っていたのですが、一週間前は雨の予報であったので、これは可、としなくてはなりません(この曇りは晴れ男君であるO笠原さんとI島の晴れ男ブリが発揮されたためであるというのが、O笠原説です)。幸い遡行途中で晴れ間もあり、本当に素敵な山行になりました。
沢の印象としては、本当に楽しめる沢でした。コンパクトなサイズの滝が多く、それなりに気を入れて登る滝もあり、それらの滝の間に、滝であることを意識させないような癒し系のものも適当に存在し、飽きさせない沢だなという印象です。まるきりの初心者の方には相応のサポートが必要でしょうが、そういう人も楽しめるという印象でした。ちょっとしたクライミングの基本を学んだ方なら、本当に堪能できるでしょう。ただ結構水量が多かったので、幾分とも難易度の上がった遡行であったとは思いますが、それがまた遡行の充実感を増してくれました。
こちらの山行に参加した者のうち、私達のグループはT内講師計画の翌日の個人山行に参加するために、その晩は、大清水小屋に宿泊しました。翌日の早朝から大薙沢左俣を遡行し、右俣を下るという、これまた贅沢な沢を堪能する計画です(T内講師、K林氏、O笠原氏、ノマドから参加のO田氏は朝に合流でした)。こちらの報告はまた後ほど。(投稿者:I島)
July 02, 2009 ドーパミンの仮説
When we fall in love!( 恋に落ちたとき)・・・、パートナーに会ったり、手紙を交わしたり、声を聞いたりしただけで、脳の中心部からドーパミンという神経伝達物質が多量に分泌される。ドーパミンの多量分泌にはパートナーの全てを許し・認め・癒やされ・逢いたくなる…といった効果(恋してる状態)をもたらす。
人類は、ヒトという種がサルからチンパンジーと分かれて登場した時代からずっと長く、男女のカップル(両親)で協力して子育てをしなければならなかった。子供は一人で育てられないほど未熟(直立したヒトは骨盤の中央部分の産道を大きく出来なくて、赤ちゃんは他の哺乳類よりずっと小くないとそこを通れない)で産まれるからだ。
数百万年の間、人類の子供は三年で親の手があまりかからないほどに育った(現在は三年よりかかるが)。それで、カップル(男女)は四年ほど経過すると、次の子を生み育てるステージに移行した。生きるにきびしい時代だったから、次の子を生み育てるパートナーは前の子のそれと同じでない場合の方が多かったのだろう。
パートナーの欠損に長くクヨクヨしていては子供が残せない。だから、パートナーに対するドーパミンは四年で減少する。それは、進化の過程で得た合理性である。
恋いに落ちて、めでたく結婚したんだけれど、性格の不一致なんていう理由で離婚に至る場合がある。二十一世紀の現在の統計では、離婚率は結婚から四年目が一番高い。それは、くしくも、上記ドーパミン四年目の減少と一致している。
四年をすぎたカップルが恋に落ちた状態を長く続けようと思うならば、意図的にお互いを尊重しあい、意図的に協力し、意図的に何かを作りあげて行くなど・・・工夫しなければならない。そうでなければ、ドーパミンの出る量は単独で生きるための必要量までの減少してしまうことになる。
山登りの場合はどうだろう。なぜか山にあこがれ、登り始めて、もっと安全に、もっとたくさん、もっと素敵な山を求めて、山岳会に入るor山仲間を作るor登山教室で学ぶorクライミングジムのコミュニティに入るor単独行で行くなどしながら、序助に取り組んで行く。一年ほどで体力と技術がついてくると、のめりこみ、憑かれたように行くようになる。
でも多くの場合、三年目でペースダウン、おいしい山を選んで行くようになる。
四年目はもっとペースダウン、よっぽどおいしい山しか行かなくなり、体力と技術が落ちてきて、おいしい山がおいしく感じなくなって、そして山から遠ざかる。それは、ちょうど上記の恋人に対するドーパミン四年目の減少と一致している。だから、山登り三年目からは山(or山の仲間)を意図的に尊重し、意図的に協力し、意図的に何かを作りあげて行くなど・・・工夫をしなければならない。(J記)
「山恋い」 Timtamの歌集より
1、同じ思いにあこがれて 胸にいだいて行く道は
希望の道ぞ山男 いざ共々に進まなん
2、人皆花に酔うころは 残雪恋し山に来て
涙を流す山男 雪解の水に春を知る
3、故郷の山低けれど 夏はアルプス岩は呼ぶ
岩に寄すれば山男 無我を悟るはこの頃ぞ
4、深山の紅葉初時雨(みやまのもみじはつしぐれ)
テントぬらして暮れて行く
心なき身の山男 淋しさ知るはこの頃ぞ
July 20, 2009 濡れた衣服と低体温
大雪山系での遭難事故。現場での判断や行動について、私ごときがとやかく言うべきではないと思う。ただ、改めて、濡れた衣服と低体温について考えさせられた。
『水は空気に比べ24倍の熱伝導がある』と何かの本に書かれていた。つまり、水は温度の高い方から低い方へ空気の24倍の速度で熱を奪っていくということだ。
『ダウンが暖かい』・『サウナでやけどをしない』・『濡れた軍手で熱いコッヘルを持つとやけどをする』のも、これと似た原理。
『ゴアテックスは水蒸気は透し水は透さない』とはいえ、外側が雨水で湿度100%に近ければ、体から出た汗の水蒸気は外部に出て行かず、内側の衣服を濡らす。雨の中を長時間歩いたことがあれば、外から濡れたのか汗が溜まったのか分からないが、とにかくびしょびしょになった経験があるはずだ。
今回の大雪は、気温が10℃以下、風速は20メートル以上だったそうだ。それだけで体感温度はマイナス10℃以下になる。そこまで過酷な状況でなくても、衣服が濡れていて気温が少し低ければ、かなり体力を消耗する。
先日の松木渓谷の2日目。少し暑く感じるくらいの状態で、雨の中、標高差のあまりないコースを半日歩いた。その時は何も感じなかったが、家に帰ってみたら普段の山行に比べずっと疲れているのにびっくりした。きっと身体が一所懸命に熱産生をしていたのだろう。
北アルプスのある山小屋のご主人は、春山の時期、『登山口で雨、上で雪』の時は登山道を閉鎖して客に登らないように注意すると言っていた。一番危険なコンディションだからだ。
海外遠征経験も豊富な強者の髭おじさんは、厳冬期の北鎌登攀で川に落ち、這い上がったとたんに服が全部凍ったが、そのまま登ったという逸話をもつ。しかしそれは、瞬時に水が凍ってくれたおかげで、内側の空気の層と外側の暴風層が出来たのではないかと推察する。
『一枚の乾いた替えの服』、これがあるかないかで避難小屋やテントに逃げ込んだ後が変わる。(文:どくとる・てぃぷる)
June 26, 2009 事始め:夢、実現?
昨年(2008年)10月に入会したI島です。50歳も後半を迎えてからなぜか山に魅せられて、Timtamに入ってしまいました。入会のきっかけは、個人的には山を登ってはいたのですが、エアリアの赤線ばかりを歩く事に幾分とも疑問を持つようになり、もう一味ちがった山登りができるのではないか、そういう意味でも登山の基本技術をしっかり身につけたいと思い、身につく登山の会もしくは教室を探していたためです。探すといってもネットサーフィンをする程度だったのですが、数多ある趣味の会や山岳会や教室の中で、とても気になったのがTimtamでした。この会のホームページの充実と、会の名前が気にかかりました。前者に関しては、ホームページの内容がしっかりしていてしかも商業向けでないということは、きっと運営者がその道のエキスパートで、しかも損得を考えていない!きっと情熱をもって事(山)に当たっているという判断が働きました。名前に関してはロマンを感じました。Time travels by mountaineering(山に登って時を旅する)。うーん、時を旅するなどとロマンに満ちた殺し文句を会の名前にするなんて、なんとも甘美でこころをくすぐる命名ではありませんか。こんな名前をつけるのは誰だろう、きっとただ者ではない!という直観が働きました。
そこで2008年9月の机上講習におそるおそる恵比寿まで出かけて行きました(参加費無料というのが嬉しいやら怖いやら、でした。というのはただより怖いものはない、というのが我が家に伝わる家訓だったからです)。恵比寿の会場を覗くと、すでに多くの方が来場していました。中には常連!というような顔をされている方もいるのですが、こちらは小さくなって後の席を占めました。
熱心に話を展開されるM浦講師の姿に、ここでも会の魅力を感じました。M浦講師は会の代表。一般的に、どのような会でも会の代表というのはとても重要な位置を占めます。その人物を中心に(そしてその人物に魅せられて)重要なポジションを占める人たちが集まるからです。そしてさらにその重要なポジションに着いている人たちに魅せられて・・・人が集まるという具合です。これは後になって山行を重ねて知る事になるのですが、Timtamのメンバーは知り合うと本当に気が置けない方ばかりです。これは一つには山を真剣に楽しみたいと思う人たちの特性なのかもしれません。そして、この会を代表する方々の人柄が会員になった人たちを惹きつけたのでしょうね。
机上講座を終えた帰り道に思う事は、もう、こうなったら入会するしかない!でした。自分の年齢や知識、技術を考えるとやっていけるのかなとの一抹の不安も覚えましたが、「なるようになる!」とばかりに、入会してしまいました。基礎的な技術を身につけたいというのは確かな欲求なのですが、実は(告白すると)いくぶんともミーハー的なところでやってみたいことがありました。それは、ヘルメットを被ってロープを出して、えいやーと岩登り。なんだか怪しい金属道具をチャラチャラ音立てて、岩壁を登って行く、そうです、あれです、あれ。ロッククライミング。
無理を承知に鷹取での救助訓練の練習に参加させていただきました(11月8日)。M浦講師からは、直々、事前にクライミングジムで基本の手ほどきを受け、三浦半島に出かけて、訓練に参加しました。現地でさっそく壁に取り付いたものの、あらら、登れない。しかし、懸垂下降を習ったり、ロープワークの基礎を実習したり、気分はもうすっかり一端の山屋です(素人の浅はかさで,その後、奥の深さを思い知る事になります。トホホ)。この訓練では、先輩にいろいろ教えてもらえたのですが、多すぎて整理できずに失礼しました。なにせすべてが初体験、低いながらも頂きから見える浦賀の海の景色や、ロープに吊る下がり一人でそのロープを登れた事など、感激消えやらずに帰りの電車に乗ったのを覚えています。現場から下山して、追浜駅に向かって町中を怪しげなザックを背負って駅に向かって歩いていると、町の人も怪訝な表情で一瞥を投げかけてきました。何だか怪しい一行ですが、幾分とも誇らしい感情(カッコいいでしょう、僕ら)が沸いたのも事実です。
その次の参加は、11月22日の丹沢の沢でした。水無川本谷を沖ノ源次郎までの遡行でした。これは本当に楽しかったですね。ほとんど連れってもらった、という山行でした(当たり前です!)が、滝の水に打たれたり、谷に注ぐ初冬の穏やかな木漏れ日を浴びたり、Timtamの多くの先輩(皆さん年齢は私よりも若いのですが、山に関しては大先輩です)に会えたりと、山の新しい楽しみを経験できた貴重な一日となりました。
その後は御正体山のスノートレッキングに参加しました(12月14日)。これはこれでまた異なったテイストの山行でした。朝、雨。富士急行都留駅からタクシーで鹿留方面に向かったのですが、途中で林道が行き止まりでそこから歩いて登山口まで。少し登り始めると、雨はミゾレに変わりました。そして少し高さを稼いで行くとなんと雪ではありませんか。頂上に着いたときの外気温はマイナス8度。手が冷たいわけです。はーはーぜーぜーと息を切らせ、私の遅い足取りにも先輩の宮Xさんが最後尾についてくれて、あせらなくても大丈夫と励ましてくれたのは、救いでした。そういえば、頂上では宮Xさんのカップヌードルのスープを少々頂いてすっかり元気になりました。下山は道坂トンネンルの入り口で、そこからタクシーで谷村町駅まで帰りました。雪の山、それも水墨画のような白と黒の濃淡が混じり合う静かな、あくまで静かな、雪の舞う幽玄の世界に遊びました。帰りの電車でおいしいハラモワインのワンカップで一杯やりながら、時空を旅した記憶を反復しながら、眠りに入りました(この山行の写真はホームページのTimtam写真帳のスノートレッキングのアルバム)を参照してください)。
その後もTimtamの企画にはしっかり参加したいと思っていたのですが、年を越す前後に体調を崩して2ヶ月ほど山行を押さえざるを得ませんでした。ただ3月からは体調も戻り、比較的積極的に山行に参加しました。そして、今度は・・・不治の病に罹ってしまいました。ああ、それ以来、私の山登り病は益々治癒不可能になり、症状は悪化の一途を辿っています。暇さえあれば、本屋(もちろん地図と山のコーナーです!)、山道具屋にでかけ、またTimtamの山の企画に魅了され、どれに参加するか悩み(興味深い山行がダブったときの選択のつらさ)、個人的に行く山を探すために山の地図を広げては一人山を夢想する・・・。ああ、駄目だ、駄目だ。仕事、仕事、と一人悶々とする日々を過ごすようになりました。しかし、病、治まる所を知らず。最近では、洋書のクライミングの本などまでまとめて購入する始末。さらに具体的な山行では、各講師の方の提案する山行の地形図を広げて山行のシミュレーション。山への熱き心、留まる所を知らず、です。あー、暇が欲しい!
May 26, 2009 丹沢三昧
5/23勘七の沢遡行→源次郎沢下降
5/24セドノ沢右俣遡行→セドノ沢左俣下降(雨天によりセドノ沢左俣遡行→書策新道下降に変更)
メンバー 5/23 M氏 K郎 5/24 KA氏 K郎
丹沢の沢は比較的短い沢が多いので、遡行と下降を組み合わせ、表丹沢を中心に沢登りに行ってきました。
大倉バス停から一時間半ほど歩き、勘七沢の出合いに着く。今日は晴れているせいか、入溪点には我々のほかに二組ほど遡行者が見られた。勘七の沢で最も難しいとされるF1 5mは確かに出だしの数歩は難しいが、落ちたところで釜にドボンするだけで、釜も十分深いので怪我をすることは無い。今日は源次郎の下降が控えているので、ロープを出すかどうかは時間とも相談しながら決めるため、F1はロープ無し。その後も深い釜をへつったり、水流を直登したりと続々と現れる滝を嬉々として越えていく。
沢は遡行者にわんこそばのように繰り出す様々な滝のどこをどう登り、どう巻くか瞬時に判断していくのがおもしろい。途中の連続する堰堤は一つ一つ越えたが、左岸にいくつかまとめて巻ける小径を発見した。ただ全てを巻けるかまでは確認できず。核心のF5大滝15mを越えてからは徐々に水流は減り、最後は花立山荘を目指して枯れた沢筋を忠実に詰め、山荘の裏側にでる。
山荘の前は多くの登山客で賑わっていた。ここでザックをおろし、地図を差し替え、源次郎下降準備に入る。一応靴もスパッツも全部脱いで蛭チェックをしておく。次は源次郎沢の下降だが、小屋から登山道を少し登ると右側に明瞭な小尾根が東に延びているので、地形図から源次郎沢下降の取り付きはこの尾根からに間違いないと判断。足元の踏み後もそれを裏付ける。下降を始めると草つきがガレに変わり、周囲も徐々にではあるが沢筋の地形をなしてくる。落石に注意しながら順調に下降を続け、大滝10mで懸垂の支点を作り、滝を降りると・・・明日合流予定のKA氏とばったり遭遇!なんでもKA氏のパーティは予定より早く終了したため、パーティ解散後、我々が下降している源次郎を遡行してきたそうだ。その後行動を共にして、無事に源次郎沢下降した。結局ロープを使ったのは、大滝での懸垂下降だけだった。この日でM氏とは別れ、私とKA氏は大倉バス停付近にテント泊する。夜9時頃ふと目を覚ますと、ザーザーと雨が降っている。とりあえず明日は中止の見込みが高くなったので、明朝から合流予定のHO氏に、沢中止の連絡をしておく。
翌朝は小雨になったため、水流をみて最終的に中止にするか判断しようということで戸沢に行ってみると、まぁ少し増水したかなという程度なので、セドノ沢を左俣に切り替え、雨で岩盤がもろくなっていると思われるガレ沢のツメを中止し、沢の上部を横切る書策新道までと決めて、遡行を開始。こちらも勘七同様、様々な表情をもった滝が現れ、非常に楽しい。核心の13mの大滝は、左壁に残置が見えるが、ルートが読めるのは右壁なのでこちらを登っていく。雨で濡れ、黒光りするコケのった岩の突起は明らかに滑りそうだ。慎重に足を置いて登っていく。
その後の8mの滝はKA氏によるリードで突破。大滝よりは低いが、こっちは垂壁なので高度感があるし、丹沢の石質はがっちり握りこむとボロっと取れてしまいそうで、これまたやっかいだ。ホールドを一つずつ確認しながら登る。この滝を越えて少し進むと、書策新道が横切っており、なんだかあっさりと終了してしまった。最後まで詰めたい気持ちもあるが、昨日の遡行からも、丹沢の地質は奥多摩や奥秩父よりガレが崩壊しやすいと判断、これでよかったのだと納得させる。
新道はところどころ視界が開ける。今日は雨時々曇りといった天気で、麓に見える雨雲がぷかぷかと浮かんでいる。50分ほどで戸沢に到着。ここで再び蛭チェックすると・・沢靴を登る蛭を発見!今回、丹沢の蛭除けに持ってきた自家製飽和食塩水スプレーを吹きかけると、あっという間に剥がれ落ちて、のた打ち回っている。思いのほか効果があったので、これから蛭が増える時期はこれをズボンやスパッツに吹きかけていこう。
雄大な渓谷美の奥秩父や、苔むした緑豊かな奥多摩の沢も好きだが、登攀要素の強い滝をガンガン登っていく楽しさは丹沢ならでは。今回中止となったセドノ沢右俣も含め、再び丹沢の沢を登ってみようと思うのでした。
今回、丹沢で最も驚いたのは、支流の出合いや滝に、名称プレートが設置されていることでした。西沢渓谷のように、プレートどころか舗装道まで整備する沢もあれば、ハーケンとかを定期的に抜いて、なるべく自然の状態を維持する沢もある。誰でも気軽にその渓谷美を楽しめるという点では前者だし、自分だって沢を始めた頃は、残置にどれだけ頼ったことか。しかし沢の景観という点では後者が正しいと思うし、優美な滝にハーケンがベタ打ちされ、スリングが垂れ下がり、この滝は○○です、とか書いてあるのはけっして感じがよいものではない。山域や沢によって、適用されるルールは変わってくるだろうが、個人的には山に残す物は個人・パーティレベルで登る範囲内で、必要最低限の残置にすべきではないだろうかと思った。
<事後報告>
不幸にもKA氏は家に着いてから両足首に食らいついた蛭を発見。私は大倉での夕食時に左手の甲をアブに喰われ、手がゴム手袋のように腫れてしまい、しばらくグーができなくなりました。(K郎)
April 27, 2009 阿弥陀北稜
リーダー:MS、サブリーダー:HS、MW、TN
4日、
身支度を整え10時過ぎに美濃戸口を出発。いつものように美濃戸山荘までの道のりが長いことをぼやき、ツルツルに凍った南沢沿いの登山道に悪態をつき、行者平に14時頃に到着。テントを張り終わるのを待っていたかのように降りはじめた細め雪は寝袋に入ってもまだ降り続いていた。テントは他に二張り。
5日、
3時半起床。テントのジッパーから頭だけ出す。星が出ていた。5時半、あたりはすっかり明るい。フライに積もった雪を払いのけ出発する。栂林を抜けると目前に中岳沢が開ける。直ぐに右側の斜面を登り尾根上の樹林帯を新雪を掻き分けて進む。林が切れてなくなると角度を増した斜面ではときに腰まで埋まるラッセルを要求された。トップを交代しながら高度を稼ぎ、ジャンクションピークを右に巻いて下部岩峰の取り付きに着いたのは8時半頃だっただろうか。行者平では小屋周りを除雪するショベルカーのエンジン音が響いていた。昨日は小屋番の青年にしっかりとテント代を徴収されたのだ(雪の中お疲れ様)。おかげでカップ酒にもありつけた。
グーパーじゃんけんでHSとTN 、MYとMWでザイルを結んだ。下部岩峰はペツルのハンガーボルトに導かれるように登る。中間で斜面がアイスになっている箇所がありピッケルを効果的に使うと楽だ。上部岩壁はあっという間に終わり短く細いリッジを西側に落ちないように気をつけて進むと登攀は終了。阿弥陀の頂上を10時頃に踏み20分ばかり晴れ渡った景色を楽しんだ後、登路をそのまま下降した。
他に2パーティ。北西稜にも1パーティあり。
・上部岩峰のセカンドのビレーはスノーバーとデットマンがあると安心。
・上部岩峰終了点付近では南側に張り出した雪屁を踏み抜かない注意が必要。
・中岳沢の登降は西側の稜線上を行くのが無難。
・雪山バリエーションの幾つかの要素(ジャンクションピークを直登するか左右のいずれかを巻くかを含め)がコンパクトにまとまっており判断力が養われる。
:天候が良くなかった前回に比べると、風も穏やかで暖かく視界も100%あり心理的に余裕があった分楽に登れた。ただ、気温が高かい日が何日か続いた後の前日のまとまった降雪で雪崩については気を使いました。(HS記)
April 14, 2009 長いゴーロを抜けるとナメ滝だった
個人山行:4/11 北秋川流域 神戸川クドレ沢左俣東沢 快晴
神戸入口835・・・クドレ沢出合912・・・入渓点920-935・・・630m二俣1005・・・
中岩沢出合1050-1100・・・徳兵衛滝巻き終わり1130・・・右沢分岐1150・・・
1035m1230-1240・・・稜線1305-1330・・・鋸山1410-1420・・・
天聖神社1500-1510・・・登計林道1540・・・奥多摩駅1600
沢シーズン到来まで待ちきれなくて3月くらいから、ひっそりと沢登りを初めていたのですが、今回TK講師とともに、北秋川流域 神戸川クドレ沢左俣東沢を遡行してきました。
武蔵五日市駅から小岩行きのバスに40分ほど揺られ、神戸入口に到着。ここからさらにクドレ沢出合いを目指し林道を40分ほど歩くと、沢が林道を横切るのでここが出合いとわかる。入渓点は非常に貧相で、遡行記録にあるゴルジュ帯のナメ滝や25mの大滝などホントにあるのだろうかと疑問を抱くほど水流は少なく、沢幅も狭い。とにかく二俣まで進むのだが、ゴーロが続き薮も多く、なんでこんな沢を企画してしまったのだろうと自責の念にかられてきたころだ。岩壁が左右に見え始め、正面に第一関門の7mの滝が見えてきて、内心やっと手ごたえのある滝がでてきたとほっとする。
水流左から直登すると、ゴルジュ帯のなかにナメ滝やトイ状の滝が一直線上に続き、最奥に核心の25mの大滝が見える。 出合いからは想像もできない素晴らしい光景だ。今までの苦労が報われたと感じながら滝をガシガシ越えていく。通常は巻くらしい6mのクの字滝も、清水を浴びながら登ったほうが楽しそうなので、チムニー状のこの滝をつっぱりでトライ。滝壺に落ちたりしながら突破。
ついに25mの大滝前に立つ。壮観な眺めだ。直登は不可能な垂直の滝なので右岸から流入する支流中岩沢に少し入ってから、左壁の岩稜から巻いていくルートを選ぶ。(ちょうど写真2の左あたり)落ちたらただでは済まないので、ここでロープを出す。1ピッチ目のリードは私だが、蝉になったりもしながら、木の根っこの多いルートを見つけて登る。根っこがよいホールドとなっており、さほど難しくはないが下を見るとけっこうな高度だ。2ピッチ目はTK講師。引き続き岩稜に絡みついた根っこを掴みながら登っていく。核心の滝を越えてもまだ高さ数メートルのナメ滝は続き、水流沿いを突破していくのが面白い。
西沢と東沢の分岐まで来たので、今回は東沢出合いの滝を巻きに入る。こちらはうってかわって土交じりの急斜で非常に足場が悪い。木の根っこにバイルを引っ掛けながら、あまり大きく巻かないよう目指す東沢のほうへズリズリとトラバースしていく。
東沢に入ってもしばらくナメ滝を登り、沢の水量からそろそろ源頭部とわかるが、このあたりはものすごい量の落ち葉が堆積しており、深いところでは膝まである。沢の出合いは無機質な植林杉だったが、高度が上がるにつれ、いつしか広葉樹が広がっていたのだ。春の残雪のように積もった落ち葉を踏み抜きながら歩き、無駄に体力を消耗する。涸滝を越えるのも堆積した落ち葉のせいで、浮石かどうかぱっと見よくわからず、ガバホールドをつかむと、あっさり剥れ落ちることがあるから非常にやっかいだ。ふと後ろを振り向くと、樹木の隙間から新緑の山々が見える。季節はもう初夏といった感じでなんとも清清しい。その後ようやく稜線が見えてきた。最後のツメは、薮は無いが、乾いた土が舞う急斜が続き、顔中土だらけになりながら、ゼイゼイ登っていく。
やっとたどり着いた稜線の縦走路には、たくさんのハイカーが見られた。ここで沢装備を解除し、ほっと一息して鼻をかむと・・おぉ鼻水がミロのようになっている!一休み後奥多摩駅に向かって下山を開始し、16時に着いた。
つい先日までフリースを着用して行った奥多摩の山々も、もう夏に向かっています。滝の飛沫をかぶりながら、体も早く冬から夏モードに切り替えていかないと、と感じる山行でした。もちろん急な冷え込みへの備えが必要なのは言うまでもありませんが。今回の沢は、途中まで地味という点で篤志家(とくしか。山の業界ではこの表現をよく見掛けるので使ってみる)向けの沢と言えると思いますが、核心部のナメ滝群と25mの大滝(権兵衛の滝)は一見の価値があります。 文:K郎 タイムログ:TK講師
February 19, 2009 天に星、地に雪、終わり無きラッセルの旅
天気図を眺めて1週間、出発の前日は春一番が吹き荒れた。それでも翌朝の回復を見込み7:00発の「あずさ」に乗車した。車窓からは、雲の切れ間に太陽がのぞき、大きな虹が孤を描いていた。茅野駅からタクシーに乗りピラタスに到着すると、辺りは霧に覆われていた。そのままロープウェーに乗車すると、坪庭付近は10m以上の風があり、1m先も見えない状況であった。それでも装備を分担し準備をしている間に少し天気が回復してるように見えたので、スノーボーダー達と別れ、北横岳へ歩き始めると、もの凄いスピードで霧と雲がかき消され、一気に青空が広がった。まるで灰色の空を、誰かが何かで拭ってくれたような青空で、心地よかった。この日は小田原で26度を超え各地で記録更新の異常気象、すぐにヤッケを脱ぎ、たっぷりと日焼け止めクリームを塗り再び歩き始めた。
北横岳頂上に到着すると、すぐに進行ルートを確認した。4日前に別の7人組パーティーが歩いたらしい亀甲池ルートには、若干のトレースが残っていたが、我々が進むべき大岳経由ルートは全くトレースが無かった。しかし天候も回復したので当初の計画通りに進むべく、今シーズン初となるワカンをセットした。そして、ここからが「本番!」と、地形図とGPSを駆使し大岳を目指すものの、予想以上の大穴が進行を妨げた。何度もズボズボと大穴に落ちながら、北横岳ヒュッテご主人の「亀甲池ルートはトレースがあり比較的条件が良いが、大岳ルートは歩き難いよ」というアドバイスが頭に浮かんだ。それでもラッセルを重ねルートを修正しながらなんとか夏ルートを捉えると、緊張感で忘れていた休息を取りながら、前方にそびえる大岳へと歩み寄ることができた。
大岳山頂は360度のパノラマが広がっていた。今朝、歩いてきた北横岳ヒュッテが意外と近くに見え、苦労して歩いた割りにはあまり進んでいないのだなぁ・・・と思えた。白煙を上げる浅間山を横目に風の強い大岳を足早に降り、デポしていたザックを再び背負うと、次なる目的地である双子池へと急いだ。
晴天は続き、前日の雨もあってか雪が柔らかく、時折腰まではまる落とし穴に体力を奪われながらの前進が続いた。振り返れば、この様な状況下で先を急ぐことに集中した余りに、この後のルート判断が鈍ったのかもしれなかった。結局、天狗の路地でコースを外すこととなり、薄っすらとあったトレースは完全に消え、夕暮れが近づくにつれて『ビバーク』という文字が浮かんできた。方向は間違っておらず双子池には確実に近づいていたが、コースからは外れており、次に進むべきルートを見失い、気が付くと彷徨っていた。緊迫した空気の中で、前進すべきか、戻るべきか、ビバーク地点を探すべきか、3つの考えが平行に脳裏に並び、コンパスとGPSの情報も錯綜し始めた頃、樹林帯の中にテントが立てられる丁度良いスペースを見つけた。暗闇迫る17時半、ビバークを決断。とにかく天候が良く、気温が高いことに救われた。これが例年通りの2月だったらと考えると・・・。急いで整地しテントの設営が終わる頃にヘッドライトに光が入った。夕食の準備をしながら翌日の計画を話しあった。Miさんが用意してくれた美味しいビーフシチューを一気に平らげると、やっと少しリラックスした。そして慣れないラッセルと精神的な疲労、高い気温も手伝い、皆一斉に眠り落ちていった。
翌朝テントから見上げる空には、星が輝いていた。少し前向きな気持ちで、前夜にGPSで再確認した天狗の路地へ登り返した。そして前日の反省を元に慎重にコースを見定め、少し怪しいところは偵察に行きルートを確認しながら前進した。長い下り坂を抜け双子池に達すると『ようやく今日のスタート地点に着いた』という気持ちで、少しばかり安心できた。
双子池から双子山へは、スキー板と思われるトレースと赤テープを忠実に追いかけ、概ねコースタイムで抜けることが出来た。双子山頂上には雪が無かった。そして、すぐ先の大河原峠にはピストンで双子山や蓼科山を登る先客がおり『トレースはあるだろう』と思い、ここでワカンを外す判断をした。が、雪が無かったのは頂上付近だけで、結局大河原峠までを坪足でズボズボと歩く羽目になり無駄な体力浪費となってしまった。
大河原峠で再びワカンをセットし、蓼科ヒュッテまでのダラダラとした緩い上り坂は終始ラッセルとなった。それでもコースタイムを少し越えるくらいの時間で着けると思っていたが、実際は、そんなに甘くなく、1人10分程のラッセルを3-4回繰り返し、ただ、ひたすら一行三昧に登り、結局1時間ちょっとのコースタイムが3時間もかかってしまった。午後になると2日間のラッセル疲労も限界に近づき歩行も鈍った。そして予想以上の暑さに対して水の確保も乏しかった。天候は良かったが、蓼科山を目の前に『これ以上の無理は出来ない』と判断した。そして残りわずかとなった行動食と水を身体に取り込み、沈み行く夕陽をバックに下山した。
今回の山行は、途中エスケープとなってしまったが、雪深い山でのラッセルを十分に堪能した。ルートファインディングなど、反省点は多かったものの『これぞ、真剣勝負!』と思える学びが非常に多く、考え深い充実した山行となった。頼りない部分をサポートしてくれた心強いメンバーに感謝。『来年も行こう!』というメンバーからのお声がけは、新たな出発への誓いとなった。
・メンバー
Hさん、Sさん、Miさん、Mノブ(記)
・ルートタイム
2月14日
ビラタスロープウェー上(10:35)~北横岳ヒュッテ(11:20)~北横岳(12:00)~大岳(14:50)~BP:双子池手前樹林帯2,085m付近(17:30)
2月15日
BP(7:00)~双子池(8:50)~双子山(10:00)~10:55(大河原峠)~蓼科ヒュッテ(14:30)~白樺牧場(16:00)
February 18, 2009 ちょっと贅沢、温泉泊りの焼岳(どくとる・てぃっぷる)
先週末、ちょっと贅沢をして中ノ湯に前日入りして、焼岳に登ってきた。
3時過ぎには宿に到着し、ロビーの窓越しに白い穂高を眺めながら、湯上がりのビールを楽しむ。ちなみに、露天風呂からも同じように穂高が見えるが、隣に座ったカップルの話を聞いていると、女湯は塀に囲まれており、山は見えないらしい。宿では、持って行ったクライミングの本を読んだり、打とうと思って打てないでいたメールを作ったり。家に居てははなかなか出来ない、のんびりとした時間を過ごして寛いだ。
翌朝、前夜のうちに作ってもらったおにぎりを部屋で食べて出発。ここ数日、異常に気温が高かったのが気になるが、雪の状態を見てりんどう平から引き返してもいいかと考えた。宿の人が、「ここが登山口です。直登して下さい。」と指さす先は雪の原。よく見るとうっすらとトレースがある。表面はまだ氷っており雪もまぁまぁしまっているので、まずはアイゼンでスタート。しかし、30分も歩かないうちに、最中状の雪にもぐり始めたので、仕方なくアイゼンの上にワカンをつける。
このあたりでは珍しいというブナ林を抜け、明るい林の中を登っていく。スキーとスノボーの3人組と抜きつ抜かれつになるが、当然相手のトレースは全く役に立たない。と、左足のワカンのストラップが切れてしまった。
「どうせまたアイゼンを使うだろう」と横着をして、アイゼンの上にワカンを付けたのに加え、アイスクライミングのために鋭く研いだばかりの爪があだになったようだ。いざとなれば、スリングを使って修理可能と判断。幸い標高も上がって、雪もまた締まってきていた。
時間がもったいないので、片足ワカン・片足ツボ足で前進。と、なんと、りんどう平直前で右足のストラップも切れた。
「もう知らないッ!」と、ツボ足でりんどう平に到着。
急に視界が開け、目の前に焼岳が姿を現した。雪はやはり少なめのようだ。
「どーしようかなぁ」ここでのんびりお茶でも飲んで引き返すか。もう少し前進するか。
先ほどのパーティーとは別に、中ノ湯(卜伝の湯)ルートで登ってきたパーティーが二組先行している。ただ、いずれもスキー隊。気温も少しずつ上がり、雪が重くなってきた。とりあえずは、もう少し見晴らしがきくところまでと、目の前の小ピークまで進む。夏道は、南峰と北峰の間の谷から噴煙の立ち上る鞍部へと登るが、この状態で谷筋に入るのはあまりに恐い。おまけに、その谷をスキーで滑降している命知らずがいる!先行するパーティーの後ろを次のピークまで進むと、そのまま南峰までつづく尾根に乗った。そのまま、山に惹かれるように、「あのピークまで」「あの岩まで」と。高度が上がるにつれ、周囲の山が見渡せるようになる。景色をみながら、しばし息をととのえる。なにも音がしない。
そして、南峰頂上直下。たどり着いた頂上には、10人近くのスキーヤーがいた。北峰と噴煙越しに、穂高・槍まで綺麗に見えている。そして、360°雲ひとつない絶景。
風もほとんどなく、快適な春山のような山頂だったが、この後の下りが大変。ザラメになった急傾斜を、2点支持で慎重に下降。りんどう平にたどり着いたら、ツボ足だとボコボコもぐるので、しかたなくワカンを修理して装着。それでも樹林帯を下るうちにズポズポはまる。膝までもぐっただけでも、ワカンが雪を噛んでしまい脱出するのにはピッケルで雪を掘り返さないといけない。あぁ、やっぱりもう一時間早く出れば良かった。結局、登り4時間半。下り3時間半。重い雪と戦い続けました。(下山の30分はワカンの修理、15分は雪からの脱出タイム)
November 24, 2008 釜の沢は静寂をもって我々を明鏡止水の心境にした
個人山行:釜の沢東俣 2008年11月23~24日
今年の草鞋納めは、釜の沢東俣にM氏とともに行ってきました。釜の沢について、その素晴らしさを今更ここで一登山者が語るまでもなく、その風光明媚な景色は多くの遡行者を引き付けて止みません。今回は冬の気配漂う釜の沢を、冷涼な空気を味わいながら、のんびりと遡行しようと行ってきたのですが、実際にはズボンの裾は凍り、ネオプレンソックスの保温効果が限界近くに達し、あまつさえ結氷した急坂の源頭部を恐る恐るトラバースするという、のんびりとは程遠い遡行になったのでした。
7時に三富PAを出発。気温は0℃付近で、都内から快適に車で来た身にこの寒さはこたえる。ただ月曜の段階で、小屋番から「雪は無いけど寒いよ」との情報を得ていたので、予測の範囲。東沢の出合いで沢装備を整え、いざ入渓。今日は水流は非常に少なく、渡渉は膝下で済むのでグレードは一見低そうだが、河岸や水面に見える浮石は全て氷でコーティングされており、よくよく見てから足を乗せないとツルっといってしまう。乙女のナメ沢は表面が凍り始め、もう少し気温が下がればアイスクライミングができそうだ。夏に訪れた東のナメ沢も今は周囲の木々は葉を落とし、哀感が漂う。夏にM氏が落っことした防水カメラを探すも見当たらなかった。今頃落ち葉の下に埋もれているか、釜の底で静かに防水パッキンが劣化して浸水するときを待っているのだろう。さらに進むと、西のナメ沢はもう近いうちにアイスクライミングが出来そうだ。
そして魚止めの滝に到着。わずかな陽だまりのなかで、テルモスとセットで持ってきたカップラーメンをM氏が食べる。僕は閉店セールの半額弁当だが、凍るほど冷たくなっている。暖かそうに麺をすするM氏が羨ましい。それにしてもこの時が止まってしまったような閑寂さはなんだ。夏は常に木々の葉音が聞こえ、鳥は鳴き、鬱陶しいほどの虫が飛んでいるのに、今日は川の流れる音だけが辛うじて時が止まっていないことを証明しているかのようだ。晴れて真っ青な空以外の景色はまるでセピア調となっている。これが初冬の沢というものだろうか。適当に食事を済ませ、魚止めの滝を越えると、いよいよこの沢でもっとも優美な滝、千畳のナメ滝を遡行する。ここはいつ歩いても心が洗われる。ただここも岸周辺は凍っており、ちょっと気を許すと転びそうになるから注意を要する。両門の滝までとにかく氷の乗った石と河岸に注意しながら進んでいる中、M氏がズボンの裾を見てみると・・・おぉ!ズボンの裾が凍っている!この沢の寒さがよくわかる。広河原はもともと水流が少ないため、伏流となるところが多かった。この辺でようやく日が高くなり、服を乾かしながら進む。いよいよ水師沢との出合いに到着、源頭部へのツメ開始だ。
今回は河岸が凍っていて、多少時間がかかるのは織り込み済みだった。しかもその最たるは東沢本流と千畳のナメで、源頭部のツメは凍っていたとしても、岸を巻き気味に進めばなんとかなるだろうと思っていたため、もう核心は越えたと思っていたのは甘い考えだった。
広河原までは沢がほぼ南を向いているため、日の光が差し込みやすいのだが、水師沢から甲武信小屋までは西を向いているため、正午付近でもまだ日は入ってこない。そのため、ここから小屋まではかなり結氷し、しかも予想以上に川幅いっぱいに氷が広がっている。標高差350mの氷の沢を右岸・左岸とトラバースしながら登らなくてはならない。M氏が撤退のての字が浮かんできたと、言っている・・・。撤退モード25%か、確かに・・でもここが初めての沢なら撤退もありえるが、この先のルートは頭に入っているし、これから時間が経つにつれて日は差し込んでくる。そして水量も減る方向であれば、ここはとりあえず登ってみるべきということで、慎重に登っていくこととした。氷の表層から、氷山の一角のように石が見えるので、その石だけを踏みながら高度を上げていくが、一歩足を置く場所を間違えれば、滑落は免れない。氷の上に足を置くときも重力の向きと垂直抗力の向きが常に等しくなるよう気をつける。遡行時間はすでに5時間に達し、疲労で集中力が落ちてきているが、足を置く場所だけは間違えてはならない。岸を少し登ってはトラバースという動きを繰り返しながら、なんとか木賊沢の出合いまでたどり着いた。
木賊沢は源頭部としてはもっとも明瞭は沢なだけに、沢幅が広い。ここをトラバースするにはよくよくコースを選ばなくてはならないが、もっとも沢筋が狭まったところ見つけ、トラバース成功。ここで滑落すれば百メートルは一気に落ちるだろう。樹林を少し登ると、遠くにこの沢のゴール地点であるポンプ小屋が見える。ぜいぜい言いながら、やっとこポンプ小屋に到着。夏ならここで笛吹川の最初の一滴を飲むのだが、今日は小学生くらいの大きさの氷柱が出来上がっている。妙な好奇心からこの氷柱を壊したくなったが、木でひっぱたいても全く歯が立たない。結局M氏の回し蹴り3~4発目でやっと破壊。
13:45にようやく今日の宿泊場である甲武信小屋に到着。小屋番に、木曜くらいから一気に冷え込んでさ、沢が凍ったからK郎君たち大丈夫かなぁなんて思ってたんだよ、とあっさり言われる。その情報も後追いで欲しかった・・・・。予想より時間が余ったので、近くの斜面で自己脱出を中心にザイルワークの勉強会。M氏からはガルーダヒッチやイタリアンヒッチなどの手ほどきを受ける。知識として知っているのと、実践を通して学ぶとでは全然違う。まだ救助訓練に参加できていない僕には大変勉強となるものだった。しかしこの寒空のなか、山頂付近の野外でロープを引き回していると、一般ハイカーから哀憐の眼差しを向けらる・・・
夜は小屋のオーナーとその他山岳会の常連と宴会。私たちの青山一丁目山岳会という名前は驚きをもって迎えられた。小屋での荷物整理中、M氏がツェルトとして持ってきたのが実はザックカバーだというリスキーなギャグには笑わせてもらいました。翌日は、快晴のなか雁坂峠までの稜線を爽快に歩きながら三富まで下山。特に日の出風景と富士山が素晴らしい。
今回は天気が良く、水量が少ないため体温が冷えなかったのと、結氷の沢が水師沢出合いまでだったことが成功の要因と思う。木賊沢のトラバースはザイルを使うくらいの慎重さがあっても良かったと思う。あと一週間入渓が遅ければ、沢装備のほかにアイスクライミングの装備が必要となっただろう。初冬の沢がどんなものか身を持って体感することができたのは大きな収穫だった。そして哀感漂うこの沢の風景は、静寂をもって我々の心を明鏡止水たる心境にしてくれたのでした。 文:K郎
November 12, 2008 夕暮れの状況判断
11月2日、S講師が担当する戸隠P1尾根を主峰とする縦走山行に参加した。
P1尾根から見下ろす紅葉は、真っ赤に染まり美しかった。一方で、ピークが近づくにつれて若干の雪もあり、思わぬシーズン初のスノートレックが楽しめた。そんな状況もあってか、コースタイムをオーバーし下山時刻がすっかり暗闇となる19時半を超えた。遅延の要因(美しい紅葉に目を奪われた。昼休みが長かった。雪を想定せず靴の選択を間違えた。。。etc)は色々と考えられるので今後に役立てるとして、状況判断によってはさらに遅れるなどの可能性もあった。
時刻が夕暮れ近くとなり、残りの行程を考えると少しずつ不安な気持が広がった。そんな空気を察してか、S講師が「どのような行動を取るのが良いか」ということについてメンバーに考えを確認した。結果的には、パーティをS講師率いる男性チームと、M講師率いる女性チームに別けて、男性チームが1.5倍程のペースで進み、ルート工作が必要であれば、後続するパーティのために済ませて置くことで、時間を短縮できるというS講師の判断により、暗くなる前に下山核心部を抜けることが出来た。
このような状況、かつ体力が落ちている中においては、先を急ぐ余り黙々とピッチを上げて気合で乗り切るという判断になりがちなのかもしれない。しかし今回のように、メンバーの構成やコンディション(怪我人の有無)、天候、この先のルート状況などを計算に入れることで、より幅広い状況判断ができるのだと実感した。
戸隠は深くて魅力ある山、熊は少し怖いけど、課題となった蕎麦もあわせて是非もう一度チャレンジしたい。 Mノブ
October 04, 2008 核心は鶏冠尾根下降にあり。東のナメ沢 2008年9月27日
東沢7:00-東のナメ沢出合い8:35-大滝上11:00-鶏冠山13:30-鶏冠谷出合い16:00
奥秩父の深山幽谷たる鶏冠山の奇観は、その名の如く鶏の鶏冠のような岩稜帯が続く急峻な尾根で成り、奥秩父でも一際目立つ存在です。そしてこの尾根を沿って流れる東沢には、いくつもの見事なスラブ滝から支流が流れ込み、その中でもスケールにおいて出色なのが東のナメ沢の大滝です。鶏冠山山頂直下まで突き上げるかのようなこの滝を見上げると高さ300m、幅は50mあろうかと思われる壮大なスラブ滝で、見た者を圧倒させます。今回この大滝へKB氏、M氏とともに行ってきました。300mといえば東京タワーとほぼ同じ高さで、滝は一面蟹の甲羅のようなスラブ滝。純然たる岩登りとも沢登りとも違うこの山行は登攀あり、沢あり、岩稜帯のバリエーションルートありと多彩なものでしたが、核心は滝の登攀ではなく、夕暮れのリミットと戦う尾根の下降にあったのでした。
東沢を順調に遡行し、乙女の滝を越え、しばらく歩くと前方に巨大な一枚岩の滝が見えてくる。この沢核心の300mの大滝だ。おぉ―デカイ!というのが素直な感想。ただ、いつ発生したのかは不明だが、出合い周辺と滝の右岸に大崩落が発生しており、出合い周辺は瓦礫で埋まり見るも無残な状況。近年乱発する豪雨の影響か。
出合いにたどり着き、ここで登攀準備。KA氏と僕はアクアステルスラバー仕様の沢靴で、M氏はクライミングシューズに履き替える。
1段目は左岸をフリーで登りきると、滝の全容が見えてくる。幅50mはあろう巨大なすり鉢上のスラブ滝の中央に、わずか数メートル幅の清流が岩をなめるように流れる不思議な光景だ。
二段目は右岸をテラスまで登り、ここからロープを出す。ファーストは僕。とりあえず定石とおり右岸を35mほど登って1ピッチ。よく岩を探すとボルトが残っている。
つづいて2ピッチはM氏が登る。この辺から高度感がでてくるが、斜面はまだ寝ており、恐怖感は少ない。M氏が無事登り、KA氏がユマールで登っている途中、上からM氏が、あ!っと叫ぶ。ふと見るとカメラがバウンドしながらきれいな放物線を描き、一気に1段目まで落ちていく。この滝は樹林などが全く無いので、かわいそうなカメラの最後を見届けることがでる。
3ピッチは僕が登る。このまま右岸樹林寄りを登ろうとするも、手がかりが全く無い。ほぼ垂直でカニの甲羅のような岩に両手を置き、いざ登ろうとするとジワっと手に汗がでてくる。これは無理だ、他のルートを探そうと水流側のルートを探してみると、クラック沿いになんとか登れそう。とりあえず全員水流側にトラバースし、4ピッチ目はKA氏にリードチェンジ。ハーケンが連打されているものの、クラック沿いに巧みに登っていき、右岸樹林帯の木にピッチをきる。ビレイ中、ふと出合いをみると数名のギャラリーがいる。
5ピッチ目は僕がリード。今度はナメ岩をトラバース。静荷重で、足裏に均一に荷重をかけそっと登ると数m先に残置が見える。近づくと、ハーケンが置いてあるだけ!なんかの拍子に抜けたのだろうか。その場で打ち込み支点を作る。やっとのことでトラバースに成功し、ピッチを切ると、もうザイルが不要と思われるところにでる。あれ?登り切ったのかな?地図で確認するも、崩落のせいで遡行図とだいぶ状況が変わっているようだ。あまり遡行図が当てにならない。とりあえず、登れるところまでのぼってみると、沢が二俣に分かれている。どうやら、大滝を登りきってその先の滝も登ってしまったようだ。
ネットの情報でも、際どいムーブが必要な感じだったが最後はなんだかあっけなく終わってしまった。
とにかくこの大滝を登りきったのだ、みんなで喜びを分かち合い、大休止をとる。ここでM氏は沢靴に履き替え、鶏冠尾根に向かって沢を詰める。ところが大滝以降の沢は倒木がうるさく、沢が荒れている。とくに感動することもなく黙々と登ると、沢は伏流となりついには枯れ沢となった。沢を忠実に詰めたのち、右岸の尾根にとりつき、強靭な石楠花を掻き分け、木の根に掴まりながら登っていく。薮こぎだが、踏み跡は比較的はっきりしている。ほぼ地形図の読みとおり尾根道にでるが、ちょっと北へ登れば鶏冠山山頂なので、ここまで来たし山頂くらい踏んでいこうということで、山頂で休憩。本来ならここで沢装備を解除したいのだが、鶏冠尾根は懸垂下降箇所があり、まだ解除はできないのである。
第三岩稜付近で20mの懸垂下降。支点の木がグラグラだったので、M氏のアングルと僕のスリングをここに寄与することにした。あとは尾根をひたすら下るだけと思ったが、この尾根は鶏冠山の異名のとおりアップダウンが激しく、なかなか標高が下らない。また鶏冠山は一応バリエーションルートではあり、一般登山道ほど道は整備されていない。なんとか夕暮れ前には下山したいところだ。だが焦る心を笑うかのように、岩を下ったと所に大岩が立ちはだかり、ナイフエッジのような急峻な尾根を歩かされる。
ようやく樹林帯に入るも、土砂崩れで木々がなぎ倒され赤テープが散乱している箇所もあり、ルートを外れる。すぐに戻れたがこのエリアは注意を要する。時計は16時に近づき、黄昏が近づきつつあるが、ここは赤テープを探しながら慎重に行きたいところ。
さらに下ると、右から東沢が、左から鶏冠谷の水流が聞こえてくる。やっと終わりがみえてきて、ほどなく鶏冠谷の出合いにたどりついた。
今回のルートは日帰りルートながらもたくさんの山登りのエッセンスがつまった充実した沢登りとなりました。 タイムログ M氏。 文K郎。
September 03, 2008 美ヶ原の焼山沢
8月2日に美ヶ原の焼山沢に行ってきました。登山口は、上田から車で1時間程度ですので、頑張れば日帰りも出来ます。また、登山口近くに幕営出来そうな場所もありました。涼しげな沢沿いの登山道で、ゆっくり美ヶ原まで突き上げて、3時間半くらいです。今回は同じコースを歩いて下ったので、合計で6時間くらいの行動時間。頂上に車か自転車をデポしておけば、下山の歩きはなくなります。
苔むした登山道沿いに、立派な滝があったり、ひかり苔が生えていたり。真夏の暑い時期にもかかわらず、涼しく登ることが出来ました。にも関わらず、ほとんど他の登山客はおらず、「山に浸みる」にはお奨めです。(文=どくとる・てぃっぷる)
September 03, 2008 沢歩き雑感~三題話~
① マイブーム
ここ3年間,わらじ納めは鈴鹿の愛知川流域と決めてマイブームであったが,今年になって,帝釈山脈の沢に移っている。白山書房から同名の本が出ている。
奥鬼怒のコザ池沢(2回)・オロオソロシの滝,片品川流域四郎沢・小淵沢・センノ沢,湯西川流域竹沢と遡行した。これまでにも,奥鬼怒の赤岩沢・魚沢,尾瀬の実川硫黄沢,片品川北岐沢・大薙沢と行っているが,共通しているのはナメのきれいな沢,20数年前の遡行図とほぼ変わらない状態で維持されているということである。機会があれば講習会で紹介したいところばかりだ。丹沢も毎年講習会が実施されているが,崩壊があったり,蛭が拡散していたりとマイナスイメージが強い。
ここしばらく帝釈山脈の沢のマイブームが続く。
② 源流行
日本における登山スタイルとして,沢から登頂するということにこだわってみたい。深田百名山の登頂を源流行という形でやり直している。
今年は,松木渓谷から皇海山,弥山川から大峰山(八経ヶ岳)を登った。過去には,杉田川から安達太良山,米子沢から巻機山,狩小屋沢から至仏山,マチガ沢から谷川岳,金山沢から両神山,釜ノ沢・真ノ沢から甲武信ヶ岳,黄蓮谷から甲斐駒ケ岳,シレイ沢から鳳凰山(観音岳)等がある。沢登りは必ずしも山頂を踏まないので,雲取山などは大雲取谷,荒沢谷,青岩谷をやったが,登頂していない。クワウンナイ川も行ったがトムラウシ山はカット。
御神楽沢から会津駒ケ岳,大白水谷から白山,…,あとどれだけ実践できるだろうか。
③ 沢のつめの明暗
かつて,所属する山岳会メンバーが丹沢の勘七ノ沢でビバークさわぎを起こした。おしゃべりに夢中で,途中で沢をまちがえたという。これは論外だが,昨日の湯西川竹沢でつめの明暗が出た。
竹沢は1312m峰につきあげるが,予定では南東の稜線に出て,すぐ反対側の赤下沢を下り送電線巡視路に出会ったらその道を下山するつもりだった。ところが南西の稜線に出たので,1312m峰を踏んで持丸沢を下降することになった。地図には破線記号があるので,道形が残っている下りに適した沢だと思っていたのが大間違い。源頭からして崩壊しているガレ沢であった。下降開始が15時45分で,もとの薮の稜線には戻れない。ままよとそのまま下降した。捨て縄による懸垂下降を交え事無きを得たが,林道終点に辿り着いたのは日没寸前であった。
たかがつめとは侮れない。(文=たけぞう)
August 20, 2008 夏の八ヶ岳集中に参加して-河原木場沢-
16日,
美濃戸口を5時半すぎにMくんと出発。8時に赤岳鉱泉のtimtamテントに到着。腹ごしらえをして中山尾根に向かう。取付点へ向かう途中から先行する代表らの声が聞こえる。
10時10分,Mくんリードで登攀開始。
12時40分,7Pで終了。
地蔵尾根を下り,行者小屋で1000円の生ビール・おでんセットを食べるところで赤岳から降りてきたKくんパーティと遭遇。後を追い掛けるようにしてテントに戻る。
17日,
大同心稜基部で南稜をやるMくん・Kくんパーティと別れ,横岳へ出て,Sさん・Hさんと別れ,硫黄岳頂上で代表らと別れ,ひとり夏沢峠へ向かう。
峠手前のガレに沿う土留めされた登山道は,何年か前の冬,つまずいた際に表層雪崩を起こしたところだ。夏沢峠からは幅広いスノーシューに適した道をオーレン小屋を経由して夏沢鉱泉に下る。鳴岩川本流は青苔の美しい渓谷美を見せている。
11時半前に鉱泉に到着。今日は4時半に行動を開始しているので,付近の散策もせず,鉱泉につかり,ビ-ル・ウィスキーを飲みゆっくりする。夏沢鉱泉は2食付き8550円だが,料理もよく,個室で,茅野までの無料送迎をしてくれるので,おすすめ。明日も14時に茅野まで車を出すという。渋の湯への縦走計画を周遊に変更する。天狗岳通過は12時がタイムリミットだが,荷物が軽くなるのでなんとかなるだろう。
18日,
6時の朝食をかっこみ,
6時15分,出発。林道を足早に下り,河原木場沢の遊歩道入口に6時50分,到着。醤油ダル(流星の滝,三ノ滝)まで遊歩道というより登山道があるが,ナメ滝手前で入渓。一ノ滝は,左から梯子を登って巻く。その上は洞窟のあるゴルジュ内にナメ滝が続く不思議な光景。二ノ滝は右の歩道に這い上がり巻く。ゴルジュが高さを増してくると歩道は右岸を登って行く。
8時,醤油ダルの展望台に到着。ここから,滝壷へは,梯子がある。もし,ゴルジュ内を遡行すると,醤油ダルの手前の10m滝がてこずりそう。岩盤が赤いので醤油ダルというのだろうが,線上に落ちる姿は流星の滝といってもよい。巻き道は左岸だが,洞窟手前の踏み跡らしきところを行くと赤テープを発見。醤油ダルの落ち口付近の高さまで登り,トラバースすると,はっきりとした踏み跡に出て,醤油ダルの上のナメ滝の先に降りた。巻きに30分要した。
この先も明るいゴルジュ内にナメが続き,快適。2070m付近から倒木帯となり,右に枝沢を分ける6m滝を倒木を利用して左から巻くと2段10mの滝となる。下段は登れそうだが,右から2つとも巻く。滝上はまたナメとなる。左にスラブ帯を見て,2250m付近で沢は天狗岳西尾根の崩壊壁に向かうが,右の草原状の中の窪を行く。すぐ二俣になるが,右は天狗岳の南西稜に向かうので,左に入る。水は涸れ,ガレ場登りとなるが,お花畑の中で歩きにくくはない。ときおり,けもの道を拾いながら行く。稜線が近づき,岩場を巻く形でひょっこり登山道に出た。
右へ1分で第二展望台に到着,11時10分。ここから150mの登りで,西天狗。東天狗到着は11時55分で,ぎりぎり,セーフ。根石岳のカールに3人組パーティを発見。シロナギ沢を来たのだろうか。稜線に上がるにはハイマツ帯を通過するのでたいへんそうだ。み冠山からは夏沢峠を経由しないオーレン小屋への道をかけ下り,夏沢鉱泉に13時20分,到着。風呂に入って,ビールを飲む時間はある。
送迎車は茅野発15時21分の高尾行き普通列車にうまく接続し,最後に1つ残っていた高原野菜のカツ弁当もゲットし,18キップで帰京することができた。 (たけぞう)
August 19, 2008 いざ大同心へ!懲りない登攀
八ヶ岳合宿の最終日となる日曜日に向けて、朝3時の起床に目覚しをセットし眠りについた。前日の夜行列車による寝不足と、赤岳鉱泉テント場到着直後に中山尾根に取り付いた疲れも手伝ってか、眠りは深かった。それでも、時折聞こえる雨の音に目を覚ましては、明日の大同心南稜への気持ちが高ぶった。
朝4時40分、天候曇り。霧で覆われたテント場を出発した。途中、木漏れ日ならぬ木漏れ雨が頭を湿らせた。取付までは急登が続き、ガチャとザイルが身に重く、天候の悪さも手伝ってか、歩行を鈍らせた。そして、登攀中止の雰囲気が漂った。
取付き到着後、M講師パーティが、大同心稜へと足を向ける一方で、取付点のリングボルトの前から離れることが出来なかった。1歩、2歩と壁を登り、グリップやフリクションの具合を確認した。雨は上がっていた。このまま帰る判断は出来ず、それから約30分後(7時前頃)には、パートナーKB氏とザイルを解き、登攀を開始した。
時々吹く冷たい風と、湿った岩が手のひらの体温を奪ったが、ガバは十分にあり、順調にピッチ(1~3ピッチ:リードM→KB→M)を重ねた。3ピッチ目の終了点で岩壁が一度終わり、バンドを挟んだ目の前に、霧の中に薄っすらとそびえ立つ、高さ約40mのドームが確認できた。ドームの取付点までKB氏をビレーする間、ガスの流れが一瞬切れると、垂直の岩壁が現れた。KB氏の姿が小さく思える程の絶壁に息を呑んだ。
8時、風が少し強まった。アブミをハーネスにセットし岩壁に取り付くものの、これまでのピッチとは明らかにグレードが異なっていた。約30mを登った付近の、軽いハングをアブミを使って乗り越えようとするが、アブミ経験の乏しさからか、次の一手に進めず、どうにも動けない時間が、ただ過ぎた。ついに腕がパンパンになり、アブミに乗せた足までも、力が入らなくなった。完全にザイルにぶら下がる状態に陥ると、体重を預けている頼りなさげなハーケンが、一段と頼りなく見えた。眼下には、どこまでも続く絶壁が広がった。この状態になると手足の疲労や悔しさよりも、支点が破壊して落ちるのではないかなどの思いがよぎり怖かった。カラビナ2つを残置にすることに決め、ビレイするKB氏に降りる旨を伝え、ロワーダウンとなった。完全に敗退だった。完敗だった。。乾杯もお預けだった。。。
が、。。。。。
9時、風は相変わらずであったが、少しだけ雲が薄くなり、明くなった感があった。時間にまだ余裕があることを確認すると、今度はKB氏がハーネスにアブミをセットし登攀を開始した。KB氏も同じポイントでしばらく停滞するものの、持ち前のセンスと粘り強さで乗り越えた。しかし残すところの約10mも、スムーズにはいかず、時々下を見る表情が何かを訴えているようだった。確実に体力が奪われている様子だった。
10時が過ぎ、風がさらに強まった。KB氏は休みながらではあったが、少しずつアブミによるステップを重ねた。風が強い時は休み、風が止んだ瞬間を狙い登る、そんなタイミングにも思えた。そして、ついにKB氏の姿が岩壁から消えるとビレー解除の声が響いた。
「良し」と思ったと同時に、一度敗退した壁に再び登ると思うと、セカンドでさえ自信がなかった。とにかくゴボウでも何でもいいから行かなければと決意し、登り終えたばかりでクタクタであろうKB氏にテンションを連呼しながらの登攀となった。むしろ脱出だった。。
11時過ぎ、ようやくKB氏のビレー姿が目に映ると、安堵感から思わず涙が出そうになる程に嬉しかった。岩壁の頂上には、半径5m程の丸い円状のスペー
スが広がり、とても不思議な空間が広がっていた。思い出したかのような空腹に行動食を流し込みながら、完登の喜びをKB氏と分かち合った。そして、早
々に装備を片付け、遠くの方でこちらを眺めるカモシカを横目に下山道へ向かった。
今回の登攀においては、コースタイム約2時間のところ約4時間半(内、最終ピッチ約3時間)を要してしまった。このグレードに対する全体的な経験不足もあるが、特に最終ピッチで利用したアブミの知識不足と技術力の未熟さが大きな要因なのは明らかと言えた。前日の中山尾根を順調に終えた油断から、決して好条件とは言えない天候で決行したのにも関わらず途中敗退し、その危機を並々成らぬ力を発揮し助けてくれたKB氏には感謝が尽きなかった。
また、大幅な下山遅延により、赤岳鉱泉テント場にて救助体制を編成し待機して下さったM講師をはじめとするSGさん、KMさん、TNさんには大変な心配をかけてしまった。反省点も多い山行となったが、今回の登攀を通し新たな可能性や課題を確認できたことは大きな収穫であった。
山の楽しさ、厳しさ、難しさ、そしてTimtamの暖かさを感じる素晴らしい合宿であった。
また、来年も懲りずにお願いします! Mノブ
July 15, 2008 ファイト一発!!のカットが永遠続く、東沢本流下部
7/12 晴れ
東沢といえば、釜の沢の千畳のナメ滝や両門の滝などがあまりに有名ですが、一方で常に巻かれる運命にある不遇の流域、それが東沢本流下部です。
このエリアの登山道を歩くと、遥か下のゴルジュ帯から常にゴーゴーと流れる爆流の音が聞こえ、沢を始めたころ、このゴルジュは到底人が入り込む領域ではないと思っていました。その中でホラの貝のゴルジュ入り口だけは、唯一河原に立つことができ、切り立った両岸の岩の隙間から、わずかにその奥を覗くことができます。そこはコバルトブルーの深い釜の奥から脈々と水が吐き出される、大変神秘的な場所で、神の領域とも思えるのでした。
その釜の先にはどんな世界があるのだろうという想像だけは膨らませながら、徐々に沢の経験をつみ、沢を始めて数年、やっと挑戦するだけの自信が身につきました。奥秩父エリアでは数少ない3級グレードの沢でありますが、今回、抜群のロープさばきと登攀技術を併せ持つM氏とともに挑戦してきたのでした。
9:15鶏冠谷出合いの手前で、アプローチシューズなどはデポし、登攀器具一式だけをもってスタート。共同装備は50mザイル(後に40mで事足りるとわかる)。個人装備はハーケン3~4、スリング長短各3~4、カラビナ4~5、ヌンチャク1、その他通常登攀具一式。核心部のナメ滝はアブミ架け替えによるトラバースが定石のようだが、フリーで越えたとの記述もある。とりあえず今回はアブミ無し。(実際にはM氏が1組だけ持っていたのですが、誤ってデポしてしまったのです・・・涙)
鶏冠谷の出合いを越えると、いつもならここから巻き道である登山道に入っていくが、今回はそのまま東沢を進み、この後予測される困難を慮り身が引き締まる。
最初は深い釜に垂直に落ちる高さ5mのCS滝。右壁は崖で、左壁はツルツルの岩に苔がのっている。ホラの貝のゴルジュが核心であり、それ以外はとにかく泳げばいいんでしょ、と高をくくっていただけに早くもルートが読めない滝にぶち当たり、いきなり負けモードに入る。ルートとしてまず考え付いたのは、ツルツル岩をショルダーで登ること。試してみたものの、その先もまだ有効なホールドは無く断念。3人くらいで中国雑技団の如くこれをやれば行けるでしょう。次に滝の左側のクラック沿いを登るルートだが、1mほど泳ぐ必要があり果たして泳いだ後あのクラックに這い上がれるだろうか?という心配と途中で蝉になったら滝の釜にダイブする以外に脱出する方法はなく躊躇する。最後の手段として、ちょうどこの日は滝に流木が掛かっており、これを登れば突破はできそうだ。しかし流木は滝の飛沫で濡れているため、立つことはできず、木に抱きつきながら尺取虫のようにウンショウンショと登り、腕がパンク寸前
でなんとか突破。出だしからこれでは先が思いやられる・・
下で待つM氏はさっきのツルツル岩へロープを落とし、ごぼうで上る。(その後ネットでの情報を調べると、どうも二番の方法が一般的なようで、実際に取り付くと思いのほかガバがあるとのことです)
この日は後続パーティがいたが、こちらは諦めて登山道を使って高まいていた。その後は淵を泳いで滝に取り付くようなルートが続く。今日は晴れたとはいえ7月上旬で時間はまだ10時前であり、川の寒さに体がブルブルと震えてくる。
清兵衛沢手間の淵では、左岸のクラックを登ると残置があり、引っ張ってみるとあっという間に抜けてしまった・・・。ただ、ここを降りる以外に方法は無いので新たにハーケンを打ち込み、完全に効いてはいないが、全体重を預けなければ降りられそうな支点を作り、懸垂で降りる。ここが前半部で一番怖かったところだ。
その後はさしたる苦労もなく、ホラの貝のゴルジュ入り口に到着。ついにこの中へ入る日がきた。中はどんな世界が広がっているのだろうか?不安と期待を胸に抱き、いざ逝かん!まずはM氏が泳いでみるが途中で押し戻され、自分も同じ結果に。それにしても登攀器具フル装備の状態で泳ぐことがこうも大変とは・・・腰にカナヅチ他を巻いて、ザック背負って、ヘルメットかぶって流れに逆らって泳ぐのだから苦労するわけだ。
そこで空身になりロープだけ腰に巻きつけて再び挑戦。今度は淵を突破し岸に這い上がるが、ここはつるつるのナメで、2回ほど川に滑り落ちて流され、やっとのことで安全地帯へたどり着いた。腰に結んだロープを解き、ザック二つを引っ張り上げ、最後にM氏を引っ張る。川をロープで引っ張られて遡行するこの状況はなんとも楽しい光景だ。
いよいよ核心部ナメ滝である。怒涛の勢いで流れる滝の右側にほぼ垂直の黒光りするツルツルの岩があり、ここをトラバースするなど到底人間業ではないと思える。
しかしここを突破するために来たんじゃないかと自分に言い聞かせ、リードを開始する。少し先にハーケンが見えるが手前は全く無く、いろいろ探しているうちに、あっという間に滑り落ち、擦り傷多数。泣けてきた。
再トライではまず手前にリスにハーケンを打ち込み、A0で次のホールドへ手を伸ばそうとするが、数メートル下はゴーゴーと音を立てながら白く泡立った滝の釜が見え、さっきまでの淵の泳ぎで体はぶるぶると震えており、今の滑落での恐怖心から完全に腰が引けてしまっている。
これでは突破できるものもできなくなる!と改めて自分に言い聞かせ深呼吸した後、慎重に次の一手をつかみにいく。ランニングをとってほっと一息したのもつかの間、ここまではまだ足を置けるようなスタンスがあったが、次はほぼ垂直の岩にソールのフリクションだけで立ちこまなくてはならない。意を決して次の一手を取りに足を置いてみる・・・おぉ?意外に滑らない。これが連邦の新兵器か、と言わんばかりにアクアステルスラバーの威力を改めて実感した。ここの数歩がホントの核心であり、あとは豊富なガバを拾えば落ち口に着地でき、ついにこのゴルジュ最大の核心を突破した。
続いてM氏がランニングを回収しながら来るが、今回の場合トラバースだけにセカンドでも滑ればそれなりに滑落することは免れない。M氏も今回新たに新調したアクアステルスラバーと慎重なムーブで無事突破。
ちなみに後続パーティはこの滝で諦め撤収していた。僕らの登攀中の様子をパシャパシャと撮っており、あとで登ってきたらメアド交換でもして写真欲しいなぁと思っていただけに非常に残念。
核心も過ぎ後は楽勝と思いきや、目の前は深く長い淵があり、その先には狭いゴルジュの回廊が長さにして7mほどの急流となっている。傾斜はきつくないがCS滝もあり、白く泡立って底の見ないこの急流はルートが読めない。そしてさらにその先は川が右に曲がっておりどんな様子か全く予想がつかない。う~んこれ以上ないくらい最悪の状況だ。核心って実はこっちなんじゃないか?両岸はほぼ垂直の絶壁で巻くなど不可能と思える。相変わらず体はブルブル震えており、核心も越えたことだし、撤退か?という発想も浮かんでくるが、ここまできて撤退は悔しい。やるだけはやってみようということで、まずはM氏が泳ぎを開始した。淵は泳げたものの急流に押し戻されてきた。やはり一筋縄では行け無そうだ。
再び空身でロープを腰に巻き、スリング数本だけもって泳ぐ。途中までは左岸に張り出したゴルジュを隠れ蓑にすれば流れは緩いので簡単に進める。問題はここからで、なんとか這い上がれそうな岩は右岸にあるため、全力で急流をトラバースしなければならない。
意を決し(こればっか)、ここを突破して、アヒルのように足をバタつかせながら、急斜のツルツル岩を這い上がると、リングボルトを発見!スリングだけでも持ってきてよかった~。ハーネスもカラビナも無いが、適当にセルフをとり、再び荷物を引っ張り上げるが、ここでアクシデントが発生。引っ張りあげた後、水をたっぷり含んだザックの水を抜こうとザックをひっくり返したらハンマーを川の中に落っことしてしまった!水深は2m近くあり回収は不可能と思ったが、水面からハンマーが見える。とりあえずM氏もこちらに引っ張り、ザックを確保してもらっている間に、潜ってハンマー回収。コンタクトレンズなので、ある程度めぼしをつけて目をつぶって潜ったが、この手の沢はゴーグル必須だなと感じた。
次はこの狭い回廊の突破だが、白く水は泡だっており、川底がどの程度深いか全く見当がつかない。なまじ飛び込んでもこの水流では、足が付かなければ一気にさっきの淵まで押し戻されるだろう。だが数メートル先のCS滝の石影は、水流が渦巻いており、流れが若干緩くなっているので、対岸からジャンプして滝の懐にうまく飛び込み、流される前に岩にかじり付きながら這い上がれれば突破できそうだ。またしても意を決して(何回目だ?)ダイブ。思いのほか川は浅く、胸くらいの深さだ。石はまん丸で掴めないから、滝の直撃をうけながら、両手でCSの隙間をつっぱり這い上がるしかない。やっとのことでこの先のルートが見え、一息つけそうな河原があることがわかる。続いてM氏が川に飛び込む。しかしM氏がここで足を滑らせて急流に流された。自分もセルフビレーをとれる状況ではなかったので、ロープに引っ張られて一緒に川に落ち、せっかく這い上がったCS滝から落とされそうになったが幸い二人とも川底に足がつき、無事立ち上がることができた。このエリアは水深が浅いのとCS滝の石直下は流れが緩い点が弱点のようだ。
二人とも河原まで這い上がり、リングボルトに通したロープを回収しようとしたところでまたしてもアクシデント。回収中にロープがキンクしてしまった・・・この回廊を戻ることを考えると愕然としてくる。ロープをここに残し、ゴールを踏んだ後回収しようという話もでたが、この先の状況もわからないし、懸垂下降もあるかもしれないということで、意を決して(4回目だ)キンクをほどきにリングボルトまで戻る・・再び激しい水流を浴びせられるが、先ほどよりは簡単にたどり着き、無事ロープを回収した。
この河原で一息つくも、この時点で14時。先には深い釜のある滝が続く・・・このまま日が落ちたらどうしようという不安もよぎりだすが、とにかく進むしか道は無いのだ。
深い釜の滝は左岸から巻き気味にクラックを登り、これ以上進めないところで対岸に渡る。水面まで高さにして2m、対岸までも幅2mといったところ。ただ直下の釜は深いので、対岸ぎりぎり手前に飛び込み、流される前に岩場にしがみ付けばなんとかなりそうだ。
こんな高さからの川のダイブなんて小学生以来だろうか、おりゃ!と叫び川にダイブ。3歳からやっていた水泳が水への恐怖心を和らげてくれる。
ここまでくると恐怖心を超えて、ちょっと楽しいと思えるようになってきた。M氏も同様にダイブし、その後は対岸へジャンプしたり、懸垂下降をしながら突破すると、14:30頃、川幅は広がって浅くなり、眼前が開け、日の光が差し込んできた。ほどなく左岸より高巻いていた登山道が合流し、このエリアの終了点であることがわかる。
ここまで無事遡行できた喜びをM氏と分かち合い、なんともいえない充実感に満たされながら、今まで緊張して一口も食べられなかった食料をもりもりと食べる。
ついに数年来の夢だったこのゴルジュ帯を突破したのでした。自分の中で神の領域と思っていたこのゴルジュも、水量などの気象条件が合えばいつでもいける領域となりました。今はとにかく無事突破したという安堵感に満たされ、次はいつ来ようなどとは考えられないが、いつかまたこのゴルジュにきて今度はのんびりと川と戯れ、谷深いゴルジュの景色を楽しみながら遡行してみたいと思うのでした。K郎
May 12, 2008 雨の日の低山はいい
五月十一日は午前中雨、午後曇り予報の日曜日だった。道がぬかるんだりしてない、藪が濃くないなどの条件をあわせて考えて、
小川町駅~仙元山(298m)~267mピーク~252mピーク(このピークにも仙元山の標識有)~物見山(286m)~嵐山渓谷~大平山~武蔵嵐山駅 というコースを選び、岩登りクラシックルート大好き隊六人(男4、女2)で歩いてきた。
前夜からのシトシト降る雨にうたれ、木々も下草もよみがえって葉を広げているようにみえた。色は淡くて柔らかいのだけれど稟とした力のある緑色に感じられるのだ。
北風が入り涼しくなって、雨具を着て、フードでなくて帽子をかぶって歩けば蒸し暑くなく、さわやかで快適、快適、もう一つ快適!
すれちがう人影もなく、ただ、自分達の足音が聞こえる。折りにふれて、メンバーの誰かがなんかみつけたらしい喚声があがる。
十一時に雨は上がった。太陽の光は雲にフィルタリングされてやさしくなっていた。その光がたくさんの葉っぱたちに当たり、反射して、ガソリンスタンドにある自動洗車機の水がみたいに前後左右上下から降りそそぐようで・・・やさしい緑のシャワーをあびてる・・・そんな感じがした。
嵐山渓谷に着き、玉川温泉に一時間。
雨の日の低山はいいみたい!(J記)
April 29, 2008 コラム 理系のための沢登論(1) 4・26竜喰谷遡行
今日は今シーズン初の沢ということで、T氏とK氏とともに奥秩父の竜喰谷に行ってきました。ネーミングとは裏腹に滑滝や直登できる滝が多く、薮こぎも不要で初沢にはもってこいの沢です。
7:30入渓。石楠花橋手前15mほどの地点に明瞭なふみ跡があります。天気は霧雨で濃厚な霧が立ち込めており、河原に降り立つと晴天では見られない生きいきとした苔が我々を出迎えます。甲武信小屋の主が奥秩父は梅雨の時期が一番良いと言っていたのを思い出します。
しかし気温は9℃と低く、前夜からの雨と、ここ数日の悪天で一ノ瀬川は怒涛の勢いで流れていました。渡渉ポイントを見つけ、なんとか渡渉し竜喰谷へ入っていきます。
竜喰谷の洗礼は5m滝です。4月の沢の飛沫は大変冷たく、T氏いわくやはり前回より水量が多いとのこと。しかし傾斜は緩いので直登は可能で、その後も下駄小屋の滝まで適度な滑滝、小滝が続きます。
毎度沢で最初にやることは小滝や滑を歩きながら、石や岩の形や色、苔の色からその沢の滑りやすい石、滑る苔を見つけておき、頭の中でこれらの滑る組み合わせのマトリックスを構築しておくことです。これが核心の滝を突破するときの、足の置き場の重要なデータベースとなります。Timtamで沢は経験と言われるのは、このデータベースは行った本人でなければ構築できず、また場数を踏まなければ拡張できないから、と勝手に思ったりしています。当然ながら、ただ「連れて行かれる」関係の沢登りだと、いつまでも構築できないのは自明の理ですね。
しかしどんなに滑りやすいヌルヌルの苔の岩でも、常に重力と垂直抗力の向きが縦に一直線上になっていれば滑ることは無いわけです。ところがある角度θを持った滝の、極端に摩擦係数μが低い岩の上で本人が滑らないのはmg・sinθ=μN(垂直抗力:N=mg・cosθ 体重:m)が釣り合っているときであり、θが大きいほど、μが小さいほど滑ってしまい、本人の体重はまったく関係ないことがわかります。しかし滝の角度θは山の神でもなければ変えられないわけですから、滑りたくなければμを大きくする。つまりなるべく足裏面全体で岩に吸い付き、つま先やかかとなど足裏の一部に体重を集中させないことです。これが動的な荷重のかけ方だと、人間は必ずつま先やかかとから着地しようとするから難しく、静加重・静移動である必要があります(ここから一歩踏み出す、または着地する際に滑るかどうかは、さらに加速度aとモーメントの釣り合いを考慮するから、これはまた次回)。timtamで静荷重・静移動を繰り返し教えるのも、理由はここにあると、またしても勝手に思うのです(違ったらごめんなさい)。ロッククライミングにおいて、つま先だけで岩のほんの小さい突起に足が置けるのは、ドライな岩と高性能なクライミングシューズに拠るところが大きいと思うのです。沢でそんなことをしたら、即ドボンでしょう。沢とロッククライミングは似ているようで、まったく対照的な面もあるという好例かと思います。
こんな持論を整理しているうちに、下駄小屋の滝12mに着きました。左側から簡単に登れそうですが、落ち口は水流が激しく、右岸も切り立っておりルートが読めません。ただT氏いわく途中で藪に巻けるというので、逃げ道があるなら安心です。早速ロープを出してリード開始。下部はホールドもしっかりしておりサクサク上り、途中の枝にランニングをとって、さてどうやって落ち口を突破しよう・・・。左岸に傾斜の緩い滑になった箇所があるから対岸に渡れれば終わったも同然ですが、またげるほど滝は狭くない。激流のどこかに一歩足をおかなくはならなそうです。さてどこだろう・・落ち口は水量が多く泡立っており川底が見えない。でも激流は常に岩を洗い、苔は無いはずだし、先ほどのデータベースによれば、まずこの岩は滑らない。あとは足が流されない浅いところに足を置けばいいはずだ。3点確保で軽く右足を置いてみる・・。お!足首くらの浅いところ発見!ようやく対岸に渡り、滝を突破。セルフビレイをとって、セカンドがT氏、最後にK氏が登ってきて全員無事巻くことなく直登終了。T氏は核心に残置があるのを知っており、より簡単に突破してきました。というわけで、この滝は言うほど難しくないです。Ⅲ級程度。
その後8mの階段滝と核心の10mの曲がり滝。曲がり滝は途中まで左岸を登れば簡単そうだが、やはり最後落ち口で苦労しそうです。先ほどの滝同様に落ち口で対岸に渡ればいけそうだが、今日は壊れたマーライオンかのように水流が滝の前面に噴出しており、体が吹っ飛ばされそうです。しかも霧雨と滝の飛沫で左岸の岩も濡れ濡れで、飛沫を常に浴びながら登ることになるでしょう。さすがにあの壊れたマーライオンには少々怖気づき、右岸から巻くこととなりました。ガイドでは8mの階段滝まで戻って巻くとあるが、中間点の右岸にもしっかりとしたまき道があります。尾根越えの大高巻きと、曲がり滝の横を通る小巻きがあり、小巻きは滝を越えてからの足場が悪く、切り立った崖になっていたので、懸垂下降で10mほど降りることとなりました。
この滝がいわゆる本日のメインディッシュであり、次はサラダ、デザートというところですが、これがデザートか!?というほど際どい滝もあり、ロープを出す局面もありました。(T氏は、はなっから巻いていた・・)
そんな楽しい滝も過ぎ、支流との分岐を過ぎていくと、さすがの水量も減ってきて雪渓も見え始め、ゴールの大常木林道が近くなったことを感じさせます。それにしても川のせせらぎのなか、周囲の霧と新緑に包まれたこの雰囲気はなんとも神秘的です。
いよいよ最後の分岐を過ぎて大常木林道の丸太橋にたどり着き、12:30遡行終了。詰めの薮が無いのはなんともうれしいです。
下山は地図に載っていない大常木林道を15分ほど歩くと、ムジナの巣への道と、二の瀬に至る林道の分岐点が現れます。今回は左を選び二の瀬へ向かいます。90分ほど歩き、二の瀬の舗装道にでました。
ロープを積極的に使ったので遡行時間はかかったけど、ロープワークの手さばきを学ぶ良い機会でした。今シーズンのexerciseⅠといったところですね。 記:K郎
February 27, 2008 雪崩れビーコンの機能を携帯電話に
十年以上前の三月初旬の土曜日のことだ。夕方まであった仕事(ぼくの職場はまだ週休二日になっていなかった)を片づけて帰路についた。家から五分の所にある酒屋の前で車を止めて、ワンカップ大関を二本とピーナツの混ざってない柿の種を買い家に戻った。それで、七時半ごろからの夕飯までチビチビと飲んでいたその時。だんだんお酒で身体がポカポカしてきたその時。玄関の電話がけたたましく鳴った。谷川岳の天神尾根上をスキー場から1時間ほど行って小ピークを一つ越えた所に掘った雪洞の中からの電話だった。
まだIモードのメールなんかなくて。ドコモのムーバーかとPHS(ピッチ)が激しくシェア争いをしてる頃だった。
「まさか、携帯電話がつながるとは・・・。」思わず声を出していた。入り口が小さくてそのの前にはブロックが積んであるのでほぼ電波の出口のないと思われる雪洞の中だから、たぶん電波は雪を通りぬけて飛ん出たのだろう。
電話の向こうで話し声や大きな笑いが聞こえる。十一人も中にいて宴たけなわで盛り上がっていて。なんか話しがまとまって、先輩のK氏が調子に乗って電話をかけて来たのだ。
「アレー!カカッチャタヨ・・・、アー、ナンデコネーノカッテ、ナニー、シゴトダッー、イマカラコイヨー!」とか言って上機嫌だ。五人以上が電話でしゃべってようやく切れた。まだまだ携帯電話が珍しい時代だったみたいだ。
時を経て今週末、タカマタギ山の雪洞泊山行に参加するつもりだ。八人ほどの参加者がいるので。たぶん何人かは雪洞の中から電話でなくてメールをするだろう、そのメールはもしかすると写真付だ。携帯電話は十年で人の暮らし方を変えてしまっているようだ。
アイデアがある。携帯電話に雪崩ビーコンの機能をつけるというものだ。もし僕が最初に考えたんだったら実用新案特許ものだ。携帯電話を失くしたり置き忘れてもビーコンの機能で探すことが出来るから便利、だからきっと売れると思う。ほとんどの人が携帯を持ってて、それで数度は自分の携帯をビーコン捜索をした経験を持つだろうから雪崩れに埋まった人の救助率は抜群に上がるだろう。(J記)
February 22, 2008 ぼくも保ってみよう!
武蔵野線とつくばエクスプレス線の南流山駅から草加流山街道を東に徒歩10分(地図はTimtamのホームページの岩登りの写真の1番目の記事にある)の所にガンバクライミングジム(以後:ガンバ)という現存する中では日本で一番古い屋内人口壁(高差8m)がある。
毎週水曜日の午後2時ごろにその人はガンバにやって来る。曜日は決まっているのだが、やって来る時間は1時の時もあれば4時の時もある。水曜日は仕事が休みの日で家事を済ませてから来るから時間は不規則になるんだそうだ。ちょっと小柄で、ムキムキではない程度に筋肉ついて、痩せて見えない程度に痩せていて、チョッピリかっこいいクライマー体型の年配の女性だ。
ジムに到着すると、奥にいるジムのオーナ夫人(ママさん)に声をかける。着替えて、準備運動をして、ストレッチを済ませるたころジャストタイミングでママさんが出てくる。ママさんにビレーをしてもらい、壁を登ってロワーダウンで降りる。ママさんと五分くらい世間話をしながら息をととのえる。また壁を登って降りるをくりかえす。
始めに垂直の壁を四本、次にやや緩い前傾壁を腕がパンクするまでたぶん六本くらい登る。それが二時間半くらい続く。登るルートはガムテープの色なんかで示された既製のものではなくて自分の身長に合わせて自分で作ったもののようだ。毎回同じように見えるが、実は微妙にルートが違う。壁の途中で即興でホールドを決めて変えている。全てがロープを引くリードクライミングだ。
腕がパンクしたら20分ぐらい世間話しのインターバルをとって壁のトラバースに入る、四メートルの高さにあるクイックドロースリング(ヌンチャク)にロープをクリップしながら右へ右へと移動する。もちろん左へ左へと移動する日もあるが右移動を見る事の方が多い。四メートルの高さだけれどママさんにビレーしてもらっている。その人はボルダーリングはしない、つまり壁を飛び降りることはしないのだ。「飛び降りると衝撃で骨とか関節とかを痛めるので飛び降りることはしないようにしている。」とのことだ。トラバースすること十六メートル、そこから130度のかぶった壁を上に四メートル登って終了点でクリップ、ロワーダウンして終了する。それは十六回以上もクリップするロングルートだ。そのロングルートのメニューが終わったら、その人は帰る、かなりさっさと帰る。
その人は以上のような登り方を、先週も、その前の週も、その前も、ずっとずっと、ガンバクライミングジムが三星(みつぼし)ウォールと言う名前だった時代からなんと20年以上も続けて来ているのだ。そして、今週も来週もさ来週もこれからもずっと続けるだろう。
ぼくの場合は昔傷めた頸椎のズレを流山総合病院(患者を長く待たない方針に徹しているのがいい)治療してもらった帰りにガンバに寄ることが多くて、それがたまたま水曜日の夕方だった時なのだから、三ヶ月とか半年とかに一度くらいしかその人には遭遇しない。だから、最近になってようやくその人の登り方に気がついた。というか、薄々わかってたことがつながって確信できた。
「うまくなろうとしているんじゃない・・・」
「保っているんだ!」
「続けているんだ!」
「ああ!そうだったのか・・・」その時、彼女の二十年間ガンバでの様子が見えていた。
「ぼくも、保ってみよう。」
「それなら出来るかも知れない!」 (文:流山のタマ)
February 19, 2008 月に一度は山に行こう!
日本では月に五十時間以上残業する人が二三割いるそうです。統計に現われている数字だけでそうなんですから、届けてられてないサービス残業なんかを含めたらもっともっと長時間なはずです。そう、日本は先進国の中でもっとも労働時間の長い国なんです。
40年ほど前まではコンビニはありませんでした。フリーザー付冷蔵庫や電子レンジもありませんから、夜遅くなっての食事はみそ汁でごはんを煮た「おじや」あたりが定番でした。食事のことだけ考えても長時間の残業が出来にくかったのです。でも、だんだんと便利?になってきて今は違います。日本人に脈々と流れる滅私奉公、一生懸命、一所懸命、・・・という精神が大きな潮流となって追い打ちをかけます。放っておけば長時間労働はさらにエスカレートするでしょう。深夜や正月元旦に営業をするスーパーなどの店舗が続々と登場しているのがその証拠です。
長時間労働が行きすぎれば、疲れが溜まり、体力、気力、免疫力が落ちてしまいます。家事やレクレーションに当てる時間が減って行きます。結果としてミスが生まれアイデアも出なくなり病気も発生します。日本は先進国の中で最も単位時間あたりの労働効率の低い国でもあります。
社員が滅私奉公してるのに業績が伸びないことに気がついて労働時間を減らす企業も出始めてはいますが、この状態はまだまだ続くと予想出来ます。
少子化が問題になっています。それを解決するために産休や育休の充実、育休後の職場復帰をしやすくする、保育園の整備、育児手当の増額とかが叫ばれてはいます。でも、父親に子育てにかかわる時間がないのが大きなの原因であることに気がついている人は少ないのです。産休育休があり、母親になれば定時やその前の時間で仕事を終えられる企業は増えています。しかし、それで喜んではいられません。母親は保育園にあずけた子供と夕方に帰宅します。それからから深夜に父親が戻って来るまで数時間待って、帰ってもボロボロに疲れていてすぐに寝られてしまって、けっきょく家にいる間はずっと、一人だけの子育てと仕事の両立が、毎日毎日続くのです。彼女は二番目の子供を持ちたいとは思わないのです。
行きすぎた長時間労働の風潮はなくさねばなりません。
いそがしく仕事をする現代の職業人達に月に一度の山登りを勧めようと思います。休みの日は寝坊して、ゆっくり身体を休めるのに使って下さい。でも、一ヶ月に一度だけ、早起きして山に行きましょう。そのために仕事の段取りをしましょう。それが出来ない場合は、半日でもいい、二時間でもいいからなんとしても一ヶ月に一度、山に行きましょう。街じゃなくて山です。身体と心がリフレッシュされるから、その方がぜったいに「いい仕事」が出来るのです。体調が良くなり生活習慣病なんかも防げて健康になります。
月の一度の山登りは今から準備すれば、近々にはスタート出来ます。Let’s start! (J記)
November 26, 2007 鷹取クライマーに乾杯
36年前の6月のこと、僕は大学の四年生でした。
夜の8時ごろに後輩の田君から電話がかかって来ました。
田:「今度の夏合宿に毛勝に行きます。ザイル持って行きたいんです。」
僕:「フーン!」
田:「それで、ザイルを買いたいんです。」
僕:「部室に古い12ミリがあったじゃないか?」
田:「あれは撚りザイルでもう古すぎます。」
僕:「それじゃあ、部費でザイル買えばいい。」
田:「ザイルは部じゃなくて個人で持った方がどう使ったかがわかるから、個人で買いたいんです。」
僕:「フーン!」
田:「お金がないので、僕と岸とJさんの3人で買って、毛勝に行った後は3人で交代でそれを使いたいんです。」
四年生部員は後輩にはとても優しいのです。僕はすぐにOKの結論を出してしまいました。地下鉄千代田線を作る工事のアルバイト収入があったばかりのゆとりがそうさせたのかも知れません。
僕:「・・・わかった、その話しに乗ろうじゃないか!」
田:「それでザイル買いに行きたいのでいっしょに行って下さい。」
僕:「・・・来週の水曜ならOKだよ!」
話しがまとまって、僕と田と岸の3人は鶴見のIBSにザイルを買いに行きました。店員に9ミリ一本じゃ本番に使えないと言われて、エーデルリットの11ミリの40メートルザイルを買いました(今思えば、様々な諸条件に合っていたのは8ミリ30メートルの補助ロープと考えられます)。そしてその週の日曜日に鷹取山にザイルの使い方研究に三人そろって出かけて行くことになりました。先輩で横須賀山岳会に入っている原さんに
「教えて下さい!」と頼んでみたら、わりとあっさり、午後だけですが、来てもらえることになりました。原さんとは午後1時に石仏の前で待ち合わせです。
僕の部つまりワンゲル部は夏は縦走登山(含ヤブコギ)で冬は山スキー(ツアースキー)がメインの活動でした。岩登り、沢登り、2000メートル以上の雪山登山をやってはいけないというルールは無かったのですが、OBになってからやるというような暗黙の了解みたいなものがありました。上記のエーデルリットのザイルは2万円以上しました。ジュラルミンのカラビナが千円以上、ハーケンは6百円以上です。クライミング用品は現在の値段と大差がないのです。学生食堂で定食が60円、うどんが30円で食べられた時代です。ハーケンを2つ買うお金は学生の一ヶ月分の昼飯代に相当しました。僕らの部が岩登りとか2000メートル,以上の雪山登山をやらなかったのはお金がなかったからだと思います。
さて、その日曜日、僕ら3人は湘南電車に乗って東逗子駅で下車、地図を見ながら鷹取山に向かいました。私鉄の京浜急行線より国鉄(今のJR)で行く方が安かったのです。鷹取山に到着したら、たくさんの人が岩を登っていました。社会人山岳会の全盛の時代です。20代から30代のバリバリのクライマーたちがほぼ全ての岩場に取り付いていました。当時から岩にはハーケンを打った跡の穴がいっぱいあいていました。リードする人はその穴にハーケンを思い切り打ち込んで支点とし、アブミをかけて人口登攀で登ります。セカンドも人口登攀で登り、トップの打ち込んだハーケンを左右にたたいて抜いて行きます。鷹取山の岩はやわらかい砂岩なので、人口登攀で登られるたびに穴が大きくなって行きます。僕達はまさに、その「穴を大きくする」渦中を見たのでした。
バリバリクライマー達の人口登攀をしばらく見学した後で、歩いて登れる岩の上(たぶん石仏エリアとコの字エリアの間にある岩)に出て、そこで肩がらみの懸垂下降の練習をしました。午後1時になって原先輩が合流、リードアンドフォローのロープワークを教えていただき、3級の岩場を登りました。たぶんそこはコの字エリアに行くためのアプローチになってる緩い斜面とコの字エリアの西側にあるちょっと暗い場所の緩い斜面です。コの字エリアにも行きました。夏だというのに、十二本爪アイゼンを使って練習をしている人がいました。トラバース練習(現在のボルダリングに近いこと)をしている蜘蛛みたいな人もいました。みんなクレッターシューズと呼ばれる登山靴で登っていました。僕らは縦走用の登山靴で登りました。ハーケン打ち&ハーケン抜きも体験しました。思い切りたたきこむとハーケンが効くことがわかりました。
大学四年が終わって、僕は就職しました。自分の性に合っていない職種だったようでけっこう苦労しました。山登りや岩登りに出かけて行く余裕は10年ほどありませんでした。エーデルリッドのザイルは田君と岸君がしばらく交代で使い、その後、部に寄付されて、10年ほどで廃棄されたようです。
そして、時は経ちました。鷹取山はハーケンを打った後に残った穴をホールドにして登るフリークライミングの場に変りました。
2007年11月25日の日曜日にTimtamの救助訓練ということで鷹取山に行って来ました。幸い、風もなくて朝から暖かい一日でした。訓練場所は午前中は「コの字エリア」にて自己脱出、仮固定各種、懸垂下降各種、宙づりからの救助の訓練を行い、午後はコの字エリア入り口手前の「樹木の広場」で、人の背負い方、ザイルの結び目通過、負傷者の吊り上げ各種、ツエルト担架の作成、を行う予定でしたが、樹木の広場が救助訓練してるみたい登山者でいっぱだったので、出来るだけコの字エリアで内容を消化することにしました。午後2時を過ぎて樹木の広場に移動、ザイルの結び目通過、負傷者の吊り上げ各種の班別練習のみを行いました。ツエルト担架の練習は時間切れで省略しました。
樹木の広場にいたのは二つの山岳会の人達だったとわかりました。合わせて40人ほどいました。その半数ぐらいを占めるのは年配(70歳代かな)の方で、かなりの実力の持ち主とお見受けしました。その年配の方々の中には、その昔、鷹取山の岩にハーケンを打ち込んで登っていたバリバリクライマーが何人も混ざっているだろうと推理出来ます。往年のバリバリクライマーと、それに並行して鷹取山に在る、Timtamの若きクライマー達に乾杯。(J記)
November 11, 2007 日本ザルの30年
30年と少しだけ前のことだ、オープンリールのテープレコーダーからカセットテープラジカセに変ろうとしていた時代、VHSとかβマックスといったビデオ機械がまだ出来ていなかった時代、・・・のことだ。ぼくは「日本ザル」という学校教育用に作られた映画を数クラスの中学生達に見せたことがあった。学校の教室に暗幕を張って暗くして、白黒でなくてカラーの教育映画を見るなんてことが目新しかったせいか?あるいは映画の内容が面白かったのか?彼等が50分もの映写時間を飽きずに過ごしていた(見ていた?)記憶がある。
瀬戸内海に浮かぶ「幸島」という所に野生の日本ザルが住んでいた。京都大学の霊長類研究所はその幸島の日本ザルの餌付けに成功して、その生態を詳しく観察することが出来た。映画「日本ザル」はその観察の撮影記録を編集したものだった。
@「イモ」と名付けられた母ザルと死んでしまった子ザルの話し
@「イモ」がまだ若い子ザルだった時に蒔かれたイモを海の水で味をつけて食べることを発見し、彼女が大人になるころに群れ全体に若者ザル文化として定着した話し
@イモより若いサルは海に入るけれど年配のサルは海には入らない話し
@ボスザル「カミナリ」とサブリーダーの「アカキン」と「○○○(名前は忘れ、たぶんヒヨシマル)」が群れを守り、群れを狙うヒトリザルとの攻防の話し
@ヒトリザルの攻撃でノイローゼになる「アカキン」の話し
などが紹介されていて、最後に
@島に犬が乱入した時のボスザルとサブリーダーザル
が活躍して犬を撃退する話しで映画は終了した。
日本ザルの世界に「ボスザル」がいると信じていた。動物園に行くとサル山に行くのが好きだった。サル山では決まってボスザルを探した。多摩動物公園でサル山に向かって空気銃を打って来るワルイヤツがいてそいつから群れを守り、何発も何発も弾を受けて死んだ「ボスザル」の話しを聞いて感動したこともあった。
伊澤紘生さん(宮城教育大学教授、霊長類学者)はこの30年間野生の日本ザルの観察を続けてこられた。伊澤さんも始めは群れの中にボスとかサブリーダーとかを捜したそうだ。そして、
「日本ザルの社会にはボスザルは存在しない。」という結論にたどりついた。
「存在を証明するのは簡単だけれど、存在しないのを証明するのは簡単ではなかった。」
「ボスザルがいるのは動物園とか人間に餌付けされたサルの集団だけなのだ。それは人間から必要量程度のエサをもらって暮らすから、おいしい餌をお腹いっぱいに食べるために競争の原理が働くからだ。競争の原理が働いて、強いものが先に多く食べるという順位が出来てしまうのだ。野生の世界では木の実などの食糧は一斉にたくさん実る。食料をみつけたサル達は競争したり順位の確認などする必要はない。有り余る豊かな餌をのんびり食べたいだけ食べればいいのだ。」
「餌を求めて群れは移動する。当然若いオスの行動は速い。新しい餌をみつけた若いオス達は喜々として騒ぎ、群れ全体に餌の位置を知らせるのだ。そして、後から来る年寄りや子連れのサル達を追うような行動は観察されたことがない(餌を独り占めするようなことはしないのだ)。」
「条件を統一した時に競争が起こる。例えばルールという条件が統一されたスポーツとか、出題科目と出題範囲が統一された入学試験は競争そのものだ。それだから、競争のない野生の日本ザルの社会に学ぶことは多い。」
伊澤さんはちょっと聞き取りにくい浪花節を呻るような低音で話していた。(J記)
October 31, 2007 秘密の岩場とは・・・
10月27日(土)に台風20号がやって来た。夕方5時ごろに関東地方に再接近した後、超高速(80Km/時ぐらい)で日本の北東方面に抜けて行った。28日早朝には雨があがり、朝から台風一過の秋晴れとなった。我ら秘密の岩場探索個人山行隊の9人はいつもの山の集合時間からみればやや遅めの午前10時に東武東上線小川町駅に集合した。
駅から3台の車に分乗、岩場の位置を知っている地元在住のS氏の車が先頭で、次にI氏の車でラストが僕の車だ。岩場に向かう踏み跡が左に分岐する所の路肩に駐車してS氏にここがそうですと言われたけれど、ついて行くのに必死だった僕は自分の現在位置がまったく分からない。助手席の人に曲がり角の目印を書き留めてもらいながらここまで来ればよかったと反省しきりである。帰りがけにその書き留めをすることにした。
「岩場ガイドブックに岩場までの地図がないこと」それは「秘密の岩場」の要件その1だ。
沢の右岸につけられた踏み跡をたどり、いきなり左岸にわたって尾根まで上がり尾根を上に登ること10分の所にその岩場はあった。岩場までのルート図はないので、知っている人についていかなければとてもここまでは来れないと思う。
「岩場へ向かう目印がほとんど無いこと」は「秘密の岩場」の要件その2だ。
1980年ごろから2000年ごろまでにたくさんのフリークライミング系の岩場が開拓されたんだけれど、そうさせた勢いというかエネルギーは何だったんだろう。岩に絡まる植物を取り払い、テラスに乗ったあるいはクラックに挟まる土を掻きだし、浮き石を落とし、下の広場を整地して、数万円もするハンマードリルと10ミリという太さのコンクリート用のビットを使って岩に穴をあけ、1つ数百円もするハンガーボルトを惜しげもなく何本も打ち込んで、安全な終了点を作ってカラビナ2つを残地して・・・、1ルート作るのに1~2日かかるだろうにそれが何ルートも何ルートもたぶん日本中の岩場を全部合わせたら2百あるいは3百はあるだろう(ルート数だったら数千ルートのオーダーになる)。
「それらの岩場の中で、すばらしく整備されていて、あと数年はボルトの打ち換えをしなくても使えて、なのにほとんど訪れる人がいないこと」それが「秘密の岩場」の要件その3だ。
岩場に着いて、4カ所、20本弱のルートをロケハンして下地が良くてやさしい(5.8~5.10b)ルートの集まっている東面の岩場をターゲットにした。みんなでワイワイ言いながら登っていたらあっという間に午後3時半になってしまった。登り始めが11時を過ぎていたのだからあたりまえといえばあたりまえ。撤収を開始するもまだあと一本登りたいという人しきりで、帰り支度が完了したのは午後4時を回ってしまった。
S氏がもう一つ秘密の岩場を案内するというので再び車で出発した。20分ぐらいで到着して岩場まで10分ほど歩くころに真っ暗になった。ヘッドランプで岩場を確認して、すぐに戻り、車中の人となった。30分の運転で森林公園駅に到着、曲がり角ごとに交差点の名前をひかえたけれど、もう一度行けと言われても行けそうにない。
「一度行ったことがあっても、もう一度行くのが難しいこと」それは「秘密の岩場」の要件その4だ。(J記)
October 18, 2007 東京理科大学ワンダーフォーゲル部の創部50周年記念宴会
10月13日(土)、東京理科大学ワンダーフォーゲル部(1956年創部)の創部50周年記念宴会に行って来ました。下の表をごらん下さい。@はその宴会に出席した人1名のカウントで、その右の数字は入部年度を表します。例えば「@@1960」は1960年に入部した人が2名参加したということを示します。実際にはもっと多い人がその年度にはいるはずですが、参加は自由意志に任されているのて2名のみ参加したということです。
1956年の当時の1年生がワンダーフォーゲル同好会(最初は部でなかった)を作りました。その創立同人(現在70歳にならんとする人達)の参加が最大数で、以後、団塊世代の手前の1965年入学生ぐらいまでの参加者が多くいました。太平洋戦争が終わり大学生が思い切りサークル活動が出来るようになった時代の熱気を感じます。サークル活動がどんなに楽しかったかそして深い人間関係のきずなとなったかをその大人数が示しています。第一次黄金時代というべきと思います。彼等の世代は日本の社会の戦後復興の担い手であり。第一次登山ブームそして最近の第二次登山ブームの担い手でもあります。
団塊の世代以後から1970年までの間も入部してくる1年生は毎年10人くらいはいました。しかしながら宴会への参加者は少ないです。もしかして、この時代に確立されていた、新人強化合宿とか夏合宿とかリーダー養成合宿とか40キログラムかそれ以上の荷を背負っての合宿は苦しい思い出を残しすぎたのかも知れません。
1971年に部の活動の内容が見直されました。そして、「山登りは苦しいのでなくて楽しいものだ」という原点を確認して再スタートをしました。再スタートした後に入部したのが1971年以後の人達で、その確認のとおり楽しい部活動だったようで、今回もたくさんの人数が宴会に来ています。この年代が東京理科大学ワンダーフォーゲル部の第二次黄金時代と言えます。ここ30年間のOB会の登山活動はこの年代が中心になっています。
1979年以後の参加者が激減します。一人も来ていない年度もあります。社会のそして大学生のサークル活動に対する考え方の変遷、なによりも登山をする若者が激減したからなのでしょう。登山をする若者の激減は現在まで続いているようです。
思い立って、私は現在の東京理科大学ワンダーフォーゲル部の現役5名と今度の土曜日(10月19日)に岩場ゲレンデに行くことにしました。楽しく登山をする若者を一人でも増やすことにつながるとうれしいと思います。(J記)
,
@@@@@@@@@@@@1956
@@1957
@@@@1958
@@@@@@1959
@@1960
@@@@@@1961
@@@@@@1962
@@@@@1963
@@@1964
@@@@1965
、
@@1967
@1968
@1969
@@@1970
@@@@@@1971
@@@1972
@1973
@@@@@@1974
@@@@1975
@@@1976
@1977
@1978
@@1979
、、、
@@1983
@@1984
、
@@1986
@1987
、
@1989
、、、
@1993
、、、、
@1998
、、、
@@2002
、
@2004(現役4年)
September 25, 2007 ロープワーク習得の秘訣
1950年生まれ、見たい番組がなくてもテレビをつけっぱにしにしてしまう時代に育った。今でも夕食から寝るまでの間にくつろぐ時間があるとNHKの総合テレビ(第1チャンネル)をただ漠然と見ている(ワッチ:wacthでなくてシー:see)ことが多い。NHKが好きなわけではない、でも民放だと番組の内容に引き込まれてワッチを開始したとたんにコマーシャルが入るから嫌なのだ(大袈裟かも知れないけれど、日本の将来の為に現在のような“セコイ”コマーシャルの入れ方は止めて、正確に15分置きにコマーシャルを入れていた1960年代のやり方に戻した方がいいと思う)。
さて、先日(9月の半ばだったと思う)、NHKで「美術館でのじょうずな鑑賞の仕方」という内容の番組があった。例によって漠然と見ていて、実験があって興味が高まりワッチしてしまった。
<実験>
「脳の所定の部分にセンサーををつけて次の①と②の条件をつけて異なる10枚の名画を見て脳の反応の違いを観察する。」
①何も条件をつけずにただ見る。
②1枚買うとか1枚家で飾るとしたらどれを選ぶかという条件をつけて見る。
<結果>
「条件をつけた場合に脳の様々な部分が活性化される。」
登山技術全般で言うとわかりにくくなるから「リードアンドフォローのロープワーク」(以下ロープワーク)に話しをかぎろう。
<ロープワークの概略>
①ザックから出したロープをほどき、ロープの上と下を作る。
②ロープを結びあう。
③セカンドはセルフビレーをセットして、トップを確保する。
④トップはランニングビレーをとりながら登る。
⑤ビレーポイントについたトップはセルフビレーをセットして「ビレー解除」と叫ぶ。
⑥セカンドはトップのビレーを解除して「ロープアップ」と叫ぶロープがいっぱいになったら「ロープいっぱい」と叫ぶ。
⑦トップはセカンドを確保して「登っていいよ」と叫ぶ。
⑧セカンドはセルフビレーを解除して登り始める。
*最終的には「ビレー解除」、「ロープアップ」、「ロープいっぱい」、「登っていいよ」などと叫ぶことなく無言でロープワークが行なえることを目指す。
ロープワークをすぐに習得する人となかなか習得しない人がいる。それぞれが自分に合わせた工夫をすればいいのだから、人は様々であってそれでいい。でも、個人山行でバリエーションルートに行くのならばリーダーをビレーすることくらいは出きるようになりたいと思うだろう。ビレーが出来ない=パーティの足を引っ張る=個人山行に誘われない・・・という構図を避けたのはだれしも同じ気持ちだろう。ロープワーク習得の秘訣は
「なるべく早く自分がリーダーになって山に行き、自分が先頭を歩いてルートファインディングして自分が悪場をリードする。」と決意することだ。リーダーにならねばと考えてロープワークの習得に取り組むのとそうでないのとでは脳の働きはプロとアマのスタンスの差で違うと確信する。(J記)
September 07, 2007 burning bean valley
8/5 奥秩父北面を代表する美渓として名を馳せる豆焼沢に行ってきました。OH、M氏
7:00豆焼橋横にある出合いの丘駐車場は濃霧に包まれ、初めての私たちには入渓点がどこなのかさっぱりわからない状態だったのですが、駐車場の柵を越えたワサビ沢の左岸にあるススキの藪に僅かな踏み跡を発見。ワサビ沢沿いに斜面を降りていくこと20分ほどで、豆焼橋直下の沢に到着しました。ここ数日の雨とこの濃霧で遡行するか迷ったのですが、エスケープルートとして仕事道があることや、降雨で即撤退することを条件に遡行を開始しました。元々水量が多い沢だけに、出だしからナメや小滝が続き楽しい沢が予感されます。
7:40ホチの滝直下。ホチの滝は25mの直登不可の大滝です。しかし垂直な崖から轟々と流れる水流にしばし感動の時間。右岸から巻きます。自然は大地を創造するとき、う~ん、じゃこの辺に滝でもつくっか~的な感覚で山や渓谷、滝を作ったのでしょうが、人間の生活にとっては大きな障害となり、遡行者にはダイナミックなアスレチックフィールドとなります。我々が自然の偉大な力に対し畏敬の念を抱く瞬間です。しかしこの滝の遙か上の巨大な第二豆焼橋がこの偉大な滝を見下ろし、あたかも近代文明は自然を自由にコントロールできるようになったかのような錯覚に陥ります。この錯覚は、自然にとって我々のくしゃみやウ○コ同様の生理現象、つまり地震や土砂崩れにより一瞬にして目を覚ますことになるのですが・・
ホチの滝の次に待ち受けるゴルジュ帯は、倒木や樋面の突っ張りのきわどいムーブで突入。残置があるので、これも利用します。怒濤の水流に体がふり落とされそうになるこの状況は、まるで素人がプロボクサーにタコ殴りにされてる気分です。この時点で全身びっしょりで、もうどうにでもなれという感覚でどんな滝もシャワークライムで直登していきます。もちろん巻き道もしっかりとあるので、濡れたくない方も満足していただけます。あ、遡行図にある作業小屋というのは、それらしき跡しかないのでご注意を。
しかし最近思うのは、遡行図に巻き道が書いてあっても、実際に滝を見てみるとルートが見えることって多々あります。そもそも沢本の遡行図というのが、多くの遡行による正確な検証によって描かれたものではなく、19○○年の、とある記録が書かれているだけで、その時巻いたからといって、みんながトレースする必要もないわけです。ぐずぐずのルンゼや土壁を恐る恐るへつって巻いたり、汗をかいての大高巻きなど巻き道で疲労困憊するより、滝壺落下覚悟で登ったほうが沢登りって楽しい!?って思うのです。
まぁこんなことを考えているうちに、東京周辺の沢(白山書房)の表紙を飾る大滝50mがドドーンと現れます。威圧感たっぷりのこの滝で、M氏としばしランニングの位置や、ピッチをきるところを探しましたが、最初の1ピッチ25mほどは3級程度、でも次のピッチはどうみても4級レベルでルートが読めない!しかも今日は霧で下からじゃルートが見えない。ネット情報だと腐りかけたスリングにA0で登るとのこと。
『う~ん、巻こう・・・』滝壺落下覚悟で登ったほうが楽しい?そんな哲学は暖かいお家に帰ってから語るべきです。M氏は納得がいかないようで、最後まで滝に残り、巻いている最中もちょくちょく巻き道から覗いては、ルートを必至に探していました。素晴らしき執念です。
続いてゴルジュや多段の滝を越えると、いよいよ豆焼沢のハイライト、両門のすだれ滝に到着。左右から苔むしたナメの上をシャワシャワと清流が流れてくるこの滝の美しさは筆舌に尽くしがたい。ここまでがんばった甲斐があります。滝をゆっくりと直登し、そのあとも暫く苔に覆われたなめ滝は数十メートルにわたって続き、我々の今までの苦労を癒してくれます。
そしていよいよ原頭部か?と思われるところにミニゴルジュ帯が待ちかまえています。すでに遡行時間は5時間に達しており、ちょっと疲れてきたところにこれはきつい!でも、気合いで登ります。
最後は雁坂小屋の水取場へ続く支流コースを選んだのですが・・途中から伏流になりついには浮き石だらけの急斜面になってしまいました。水取場への沢が枯れるとは・・間違いに気づきこの斜面を降りることを提案しましたが、M氏は本来の沢へトラバースしようということで斜面をトラバース。実はこれが大正解で、再び水の流れる支流へ戻れました。落ち口が崖になっていたので懸垂下降で着地。再び滝を登ること20分ほどでようやく水取場に付きました。この時点で14:00。7時間の遡行となりました。
水取場から続く縦走路を歩き、雁坂小屋でちょっと休憩。小屋の主に、山梨側はよく晴れているのに、なんで埼玉側は霧なんですか?と聞くと、山梨側は甲府盆地からの風で霧は吹き飛ぶが、埼玉側の山々はまるで扇子のように地形が入り組んでいる、だからだ。とのこと。
果たして地図をみると、うん納得です。下山路は再び濃霧に突入して2時間。マイナスイオンたっぷりのなか、すたすたと下り駐車場まで戻りました。遡行7時間、下山2時間で充実感たっぷりの沢でした。 OH記
September 04, 2007 S・T・R・E・S・S
歌人の斉藤茂吉さんの長男の斉藤茂太さんは精神科のお医者さんでありエッセイをよく著す人でもあります。その斉藤茂太さんはストレスからの脱却方法をSTRESSの英文字つづりにこじつけて以下のように説明しておられるそうです。
S・・・スポーツをしよう。
T・・・トラベルをしよう。
R・・・レクリエーションしよう。
E・・・イート(食べる)しよう。
S・・・スリープしよう。
S・・・スマイルしよう。
その話を聞いた時に、Timtamでの山登りが頭の中にダブっていた。
S・・・汗をかくほどの全身運動があって、競う場面は少ないけれどクライミングやバリエーションルートの踏破の技をみがくのだから山登りはスポーツである。
T・・・乗り物に乗って(歩きでもいい)遠くに行き、美しい自然の風景を見て歩き時に観光もして、温泉欲もするのだから山登りは旅行である。
R・・・日常生活とちょっとだけ異なることを行なって精神の開放を図っているのだから山登りはリクリエーションである。
E・・・山で食べるとおいしい。焚き火の側で食べるのは最高だ。山から帰って食べるのもこれまたおいしい。
S・・・山登りの場合、朝は早く起きるけれど、夕方は18時から寝てしまえるから不思議だ。停滞(沈殿)の日は1日中寝ていられて、夜またいっぱい寝られる。山登りほど長時間寝れる種目があったら教えてほしいものだ。
S・・・人と人が70センチ以内に近づくことは少ないそうだ。山登りは人と人の距離が近い、バリエーションルートだったら命を守りあうつながりがある。テント生活だったら5センチメートル離れない所に人が寝ている。共に苦労して目的のルートに行って来た時、山の仲間達の会話は楽しい。朝、初めて会って、いっしょに山の講習会に出て、帰りの電車内ではまるで十年来の知己のように親しくなっている場面を何度も見てきた。
Timtamの山登りほどストレスに対抗できるS・T・R・E・S・Sのある世界はないと言ったら言い過ぎだろうか? (J記)
August 21, 2007 釜の沢 Go west!
8/18~19 釜の沢西俣遡行 M氏、OH
釜の沢といえば東俣ばかりが有名ですが、両門の滝以降の遡行図にも書かれるほど‘うんざりするほど長い’広河原歩きは、沢登りの楽しみとしてはちょっと??です。そこで今回は、この東俣以上の美渓とされる西俣を遡行しました。
7: 00東沢入渓禁止の看板を目印に、東沢へ入渓。ここ数日まとまった雨がふらなかったせいか、ふだんに比べ水量は少ないうえに、今日は快晴。そんなわけで釜の沢の出合いまでは、普段は水量が多くて登れない滝などに挑戦したり、じゃぶじゃぶと水線中央を歩いたりしながらの楽しい遡行です。両門の滝までの遡行は毎度ながら感動の景色が続きます。鶏冠山山頂直下まで突き上げる東のナメ滝の壮大なスケールに驚き、千畳のナメ滝をヒタヒタと歩くと川の流れとともに心が洗われます。7mの曲がり滝は、直登か巻くか5分くらい迷いに迷い、結局巻きました・・・。
10:45両門の滝にたどり着き、いよいよ西俣遡行スタートです。滝は何ルートかの踏み跡がありますが、なるべく小さく巻くルートを選びつつ、安全を確認しながら修正することで中巻きくらいのほどよいルートが簡単に見つかると思います。落ち口は特に懸垂下降せずに降りられます。滝を登ると、素晴らしいナメ滝の連続です。一枚岩でできた連続ナメ滝は、川の流れが岩の形によって左右に振れ、ボブスレーのコースを遡行するようです。遡行図では一部巻きとありますが、晴れた夏なら直登しなければもったいないです。
やがて進むと、水流は緩くなり苔がむし、厚さ数センチはあろうかと思う苔に覆われた滝を登っていきます。途切れることなく続く清流の流れ、両岸の尾根や川を覆う木々の葉、そしてこれらの苔が我々をあたたか包み込みます。川にひれ伏してその水を飲むと、もはや自分が人ではなく、この眼前の自然の一部となり、あたかも透明人間になった気持ちになります。アルパインクライミングや縦走登山にはない、沢登りにおいてのみ味わえる感動がここにあります。しかしながら、こういった体験ができる沢も、そういくつもありません。山深く自然豊かな奥秩父ならではでしょう。
源頭部を詰めると遡行図では倒木帯の前後に水師の支尾根を目指す2つのルートが記されていますが、私たちは最後の分岐(参考:東京周辺の沢)において間違って左俣をすすみ、そのまま樹林帯を登っていきました。伏流の音も消え、いよいよ詰めというところで装備を解除、踏み跡か鹿道かわかなないルートを地形図とコンパスたよりに北北東へ登っていきます。
原頭部からM氏とルートを探索しながら登ること30分ほどで、水師から西20分ほどの登山道にでました。沢登りでホッとする瞬間です。水師の支尾根歩きより、一般登山道に出たほうが楽ということで結果オーライといったところでしょうか。新たな遡行図として加えても良いと思います(赤テープ巻いておけば良かった!)。この偶然の発見は、その後地形図を確認していたときに、遡行中気づかなかった支沢を確認したのでした。遡行者の間ではごく知られたルートなのでしょうが、予測ルート通り遡行できなかったことにおいて反省です。
その後さらに1時間弱で16:00に甲武信小屋に到着。夜、小屋のオーナー徳さんや小屋番の方、常連さんと久々の飲み会。楽しい夜を過ごしたのでした。当日歩荷で運ばれたバチマグロの刺身が山小屋で食べられるとは感動ものです。
遡行図にはない藪こぎはM氏のルートファインディングによるもの多々ありました。改めて感謝!そしていつも私以上に沢山のおつまみを担いできていただき、本当に感謝しています。
August 15, 2007 北ア・赤木沢遡行
メンバー:
I、H、M、T
行動日程:
8/10 新宿-(夜行バス)-
8/11(晴れ 夕方、にわか雨) 有峰口着-(タクシ-)-折立-太郎平-薬師峠キャンプ場
8/12 (晴れ) 薬師峠キャンプ場-薬師沢小屋(入渓点)-赤木沢出合-赤木岳稜線-北ノ俣岳-太郎平-薬師峠キャンプ場
8/13 (晴れ)薬師峠キャンプ場-太郎平-折立-(タクシー)-富山駅
山行のポイント:
・初めてのエリアなので平均的な水量が分からないが、今回水量は多くなかったと思われる。そのため赤木沢手前の黒部本流の渡渉は楽にできた。また赤木沢出合では高巻きすることなくヘツリで通過できた。なお、水はさほど冷たくなかった。
・詰めは、大滝を過ぎ2本目の支流に入ることで赤木岳下のコルに出ることができる。(太郎平に向かうにはこのほうが近い)
・ガイドブック等で言われる通り、一度もロープを出すことなく遡行ができた。ただし初心者がいる場合は大滝の高巻きにおいてロープで確保する慎重さがあって良いと思う。
感想:
「美しい沢」として超有名な赤木沢。行ってみればその通りで、緑色の淵、続くナメ、その両脇は花が咲き、詰めも花畑と草原歩きで、本当にきれいだった。天気が良く時間にも余裕があったので、泳いで滝に打たれて、詰めの花畑で寝転がってと、とても楽しく遡行できた。
実に良い沢であった。欠点といえば東京から遠いことか。。。
July 27, 2007 北鎌尾根縦走 山行報告
メンバー:IK TG HT 計3名
行 程 22日 中房温泉(6:25)→燕岳→大天井→
貧乏沢下降・天井沢出合い手前500M付近ビバーグ(17:00)、
23日(朝方雨)5:00出発→北鎌沢右俣→右俣コル(9:00)→
独標(11:00)・通過終了(12:10)→
(ここから西風が強まりガスで視界なし)北鎌平ビバーグ
(16:00、ついに本格的な降雨)、
24日 10:00出発→槍ヶ岳山頂(13:30)→横尾CS泊(18:00)
25日 上高地より帰京
山行のポイント
① 独標後のルートファインディング、
トレースがはっきりせず(バリエーションだから当然なのだか)
ガスで視界が利かないと何度も行ったり来たりを繰り返し思わぬ
時間をとられる。今回はまんまと偽せ槍にだまされピークを読み
違えて、それが巻き道を誤せる原因にもなった。
② 体力 最後のチムニーはそれ自体は易しいのですが、蓄積した
疲労と荷の重さが応えます。
③ 天候に対する判断力
④ 行くか行かないかの決断力
感 想
北鎌平のビバーグは夜半から激しい風雨で、天候が回復しなかったら
翌日はどうしたものかとまんじりともしない一夜を過ごしました。
と言いつつガーガー寝ていましたが。前後に他のパーティもおらず
この天候で突っ込んだのはまずかったか…、とも思いましたが、
3人で良く話し合いながら不明なルートを前進することができました。
日頃の信頼関係ができていないと追い込まれた状況ではできない事だと
感じました。
今回は3つのチムニーとトラバースのリードは全て IK さんが引き受け
てくれ、最も重量のある荷物を担いでくれたのは TG さんでした。
晴れていればもっと楽だったのかもしれませんが、ガスと降雨の中での
行動は教訓になりました。
July 13, 2007 「森の土」の道・櫛形山
山肌に落ち葉が積もる。積もった落ち葉はダンゴ虫などの小動物に食べられて砕かれるその砕片は菌類や細菌類(分解者)によって分解されて、水に溶ける無機養分に変えられて行く。そういう過程にある砂礫と落ち葉の砕片と微生物と有機物と無機物の混ざった堆積物を土という。その土の中へ、養分を求めて植物の細根がびっしり入り込む、土の粒子は細根によって結束され、ついに、豪雨でも流されない「森の土」となる。
そういう「森の土」で出来た道は角張った石がむき出している所が少ないから歩きやすい。足を下ろすと、積もった土の弾力が衝撃を吸収するから着地が気持ちいい。かといってクライミングジムにあるスポンジマットのように深くめり込んでしまうのでなくて、柔道場の畳のような反発を返してくる。その反発のおかげで次の一歩の踏み出しがやりやすい。だから、歩きやすさが倍加される。
「森の土」の道は生きている、しばらく人が歩かなければ、植物がどんどんはびこってきて半藪の道になってしまう。「森の土」の道を人がたくさん歩くと踏み固められて呼吸を絶たれ細根は死んでしまう。生きた細根の結束力を失うと「森の土」はただの土になる。そしたら、雨に流され、えぐられて、ゴツゴツの岩が顔を出す。「森の土」がなくなった道は歩きづらい。
南アルプス市・櫛形山に行った。同じ道を往復するのがいやだったから車で行ける一番高い駐車場からのコースの北尾根コースでなくて、そこから歩いて下ること小一時間のところに登山口がある中尾根コースから登った。中尾根は「森の土」の道だった。半藪の道でなくて幅広い小道、たぶん森が深いから下草が「コケ」なんだろう。ずっとずっと、頂上稜線の道と合流するまで藪でない「森の土」の幅広い小道だった。知ってる範囲の中ではトップクラスに入るいい感じだった。櫛形山はアヤメで有名な花の百名山だ、今年のアヤメは大繁殖した鹿に食べられてほとんど咲いてはいなかった。でも、アツモリ草を見つけることが出来たからすごく得をした気分になった。帰りは最短コースの最も一般的な道である北尾根を下った。櫛形山は最短コースの北尾根をから登りアヤメ平経由で頂上を往復するのが一般的だ。だから、もちろん、北尾根は「森の土」の道ではなかった。今度行く時は中尾根の往復にしようと思った。
百名山とか花の百名山に行く時は駐車場からの最短コースを使わないのがいい?・・・そういえば東北の焼け石岳もそうだったっけ。(J記)
June 20, 2007 金剛組、花王、ナベヤ
6月16日(土)に源次郎沢、6月17日(日)モミソ沢を遡行した。6月18日(月)は疲れもあって早く寝ようと思い、夜10時はふとんの中に入った。NHKのテレビがついていたから消そうと思ったら、ちょうど10時からの「NHKスペシャル」が始まったところだった。番組名は「長寿企業に学ぶ」だったと思う。知らず知らずに番組の内容に引き込まれ最後まで見てしまった。
番組の内容は以下のとおりである。
@日本は二百年以上続く長寿企業が多くてその数は数千社、次に多いのはドイツとオランダでどちらも数百社のオーダーだからダントツ世界一、長寿企業大国である。
@長寿企業には共通した特徴がある。
・不況に強く、不況の時でも横ばいか業績を伸ばしていることが多い。
・本業に徹して、別の業種に手を出さない。
・本業に徹するがその仕事内容にわずかずつの改良を休みなく加え続けている。
・長く守りられ続けた家訓(社訓)のようなものがある。
・「損して得を取る」という考えがある。つまり経営方針に自動車のハンドルの遊びのようなものがあって、仕事がうまくいかなかったり、損をすることがあってもその後の回復のための糧とするスタンスがある。
@長寿企業の例として三社が紹介された。
・金剛組…飛鳥時代に法隆寺などの寺を建設するために中国からよんだ建築技術者集団が作った組織で、今は普通の建築会社に見えるが現存する世界最古の会社である。寺院建築の技術とその修復の技術は従業員に代々受け継がれて千四百年に渡り途絶えなかった。コンクリート寺院とかマンション建設に手を出して失敗したが、現在は木造建築(宮大工)に専念し業績を伸ばしている。
・ナベヤ…織田信長が岐阜城を建設する時に岐阜城下町に出来た鍋の製造販売のお店からスタートした。鋳物技術の高さを買われ朝廷からお墨付きをもらったこともあった。葛飾柴又の帝釈天の釣鐘はこの会社の製品である。現在は精密機械の金型を作る土台となる部品(部品名は記憶できず)のトップメーカーとなっている。この部品がないと精密機械が作れないので、ナベヤが日本の機械産業の根幹をささえていることになる。社長は世襲だが二代に一人は娘婿が社長になっていて企業体質に新しい考えを入れてきた。現在の社長も娘婿だ。現在の社長は二十八歳で社長に就任、四十憶円をかけて新工場を作ることを会長から許された。会長は新工場が失敗するはわかっていたが、会社の番頭制度(部長や専務ではない)を学ばせる機会とした。案の定新工場は失敗したのだが、番頭の力を借りてその失敗は十年を経て序所に克服されていった。現在、その新工場は会社の利益の半分以上を稼ぐに至っている。
・花王・・・明治時代に顔を洗えるほどに品質の良い石鹸ということで商品名「カオウセッケン」を売り出して創業した。化粧品、洗剤、健康飲料などの分野にトップシェアを誇る商品がいくつもある。その製品には休むことなく小さな改良を加えている(例として洗濯用の洗剤のトップの地道な改良の跡が提示された)。最近、花王は年間売り上げが四十八憶円あったフロッピーディスク事業から撤退した。それは美しさを追求する洗剤を作るという方針(社訓)とちょっと違った方向の製品だったからだ。撤退してもその穴が補填され、全体として業績を伸ばし続けているのが現状だ。
ひるがえって我がTimtamはどうだろう。Mが創業を決意したのは1983年9月、日和田山の岩場での岩登りトレーニングの帰り道だった。その後、Mは無名山塾に入り、無名山塾の登山学校部門の運営助手を勤めた。1996年1月に「山塾サポート」を作り葛飾税務署に企業登録した。2003年1月「山塾サポート」から「登山教室Timtam」に名称を変更、現在に至っている。だからTimtamの企業としての歴史は一番少なくみつもると四年六ヶ月、一番長いそれは二十三年九ヶ月となる。後者をとれば、現存する登山教室の中では古い部類に入ることになる。
Timtamにはその本業である「山の集い(机上講座)」と「基本ステップの講習会」と「個人山行のサポート」に徹してもらい、その仕事内容にわずかずつの改良を休みなく加え続けていいただきたいと願うものである。(M記)
June 12, 2007 スクールダスト
公立中学校の教員にとって、インフルエンザや風邪にかかるのはとてもヤバイことだと思っている。風邪にかかってもそう簡単には休めない。補充授業(自習)になって、正規の授業を受けるよりずっと不利益な思いを生徒にさせる。一クラスに1.3人の教員しか配置されていないわけで教員が一人休めばその補充で同僚教員には休憩する時間がまったくなくなるほどの負担をかける。「授業は生きものだ!」その生きてる授業の流れを断ってしまう。
インフルエンザウィルスは空気感染だからちょっと防ぎようがない、感染したら出勤停止(学校教育法施行規則で定められている)になるし、第一、高熱が出て腰が抜けたようになるので、休みたくなくても休むしかない。
普通の風邪のウイルスは咳の飛沫が机などについて、それを手で触り、その手を口に持って行くことで感染する。症状が軽めで普通は三日で直るものなので、休まないで出勤し、朝の会と帰りの会、授業五時間、給食指導、清掃指導、などの仕事をこなす。生身の生徒を相手に手抜きは出来ない。声の大きさは少し押さえられるけれど、少なくとも教室の後ろまで通る声を出さなければならない。風邪をひいていても、教室の中に四十人の生徒が生活していることによって出る、ダニ、ホコリ、フケ、などなどにチョークの粉が混ざったスクールダストをたくさん吸うことからは逃れられない。
注意をしていても風邪をひいてしまう(ぼくの場合二年に一度くらいかな)。もちろん、ぼくも、風邪ぐらいでは休まない。そんなことを三十年も続けてきた。この十年ぐらいは風邪がなおるのに時間がかかる。二ヶ月ぐらい咳が続いてしまう。気管支過敏症というのになってしまうらしい。皮膚とか骨の細胞はどんどん新しい細胞が出来てくるのだけれど、肺と脳の細胞は再生しないで今あるやつの数が次第に減っていく、人は空気の良い場所で生活しなければならない動物だということはわかっているけど仕方なし・・・!。2007年、六月中旬、四月末に流行った風邪が治らず、長く続く咳になやんでいる教員がぼくの中学校(教員数三十三名)に四人もいる。
クライミングジム(人口壁)を作りたいと思うことがある。
ぼくとその仲間の作るジムはルートエリアと準備運動(ソトレッチ)エリアが板張りの床だ。ボルダーエリアはマットを敷くが、クライマーがマット上を歩いたり、マットに飛び降りたりする時にマットのサイドから噴出する空気を床下に逃してそれを全て屋外に出すダクトを設ける。エアコンのメンテナンスはしっかり行う。液体チョークのみ使用可とする。上半身裸になる服装を禁止する。
おしゃれで、きれいで、カフェーが併設されたジムで、シャワールームがあって、山の手線の駅の近くで、ビルの1階にあって・・・そんな条件を全部クリアするのは無理だけど・・・、なによりも優先して、空気がきれいでスクールダストのないジムにする。(J記)
May 22, 2007 片付けは登山技術だ!
ごぞんじの方も多いと思いますが、ぼくは公立の中学校の理科の先生です。A中学校12年、B中学校10年、C中学校4年、D中学校9年と経験して、今年の4月に一度経験のある「B」中学校に再赴任しました。
「B」中学校は創立60年、50年ほど前の建物を今も使っています。12年前の1月に起きた阪神淡路大震災が、たぶん?、引き金になって、「B」中学校の校舎に耐震補強工事と理科室と調理室のリニューアル工事が行われました。でも、理科準備室と調理準備室は昔のまま残されました。ぼくは内装だけだったら市内で一番新しい理科室と市内で一番古いその準備室を使う理科の先生になったのです。一度でいいからきれいな壊れていない理科室で授業をしてみたいという夢は期せずして半分だけかないました。
13年前、B中学校を出てC中学校に転勤する時に、ぼくはB中学校の理科の準備室内の物を使いやすく片付けました。再度その準備室に戻ってみたら、少なくともここ数年の間に同準備室は丁寧に片付けられた様子がありませんでした。戸口を開けて中に入って奥に進むためには、所せましと置かれた片付けられていない物の間にフットホールドを探さなければならない状態でした。それだけでなくて、その片付けられていない物は理科室の床とか理科室の周りの廊下、そして近くの空き教室にまで広がっていました。
どうしてそうなるのかというと、授業で揃えた実験用具(8~12班分)を30cm×50cm大のプラスチックの箱(家庭用の洗った食器の水を切るために入れておく籠が使われている)に入れて空いたスペースにしまって、次の授業を行います。次の授業で揃えた実験用具を箱に入れて別の空いたスペースにしまって、次の次の授業に向かいます。次の次の授業の分の箱はさらに別の空いたスペースにしまわれます。授業のない長期休業中にまとめてたくさんの箱の中身を片付けるのですが、○○主任とか部活動の□□大会とか総合学習とか学級担任とかの忙しい仕事をかかえていると夏休でさえやることが多くて、片付けは後回しのそのまた後回しにされて忘れられて行くのです。そうこうするうちに空いたスペースがなくなり、机の上や、床まで箱が並ぶことになるのです。「箱(籠)に道具が入っている」、「釘やビスやボンドを使わずにガムテープで止められる」、「中断の棚板が撤去されている」、というのが片づけられていない教室の三大特徴です。三大特徴を備えた教室はカーテンが切れているのが一般的です(カーテンは9月に設置して3月は撤去しなければ、4月から8月は必要性を感じないのでぶら下がり遊びに使われてしまうのです)。
ぼくは片付けるのが得意です。なぜかというと毎週のように山に行くことで鍛えられたからです。山から帰って来たら、パッキングを解いて、次の山で使わない物をしまって、メンテナンスして、次に行く山に合わせて物を揃えなおして、パッキングして、金曜の夜か土曜の朝あたりに山に行き日曜の夜に山から帰る・・・そういう連続をもう20年も繰り返して来ました。
登山技術は岩登り、沢登り、雪山登山、山歩き、仲間作りの五つがあると言われていますが、山道具の片付け技術はその五つのどれにも引けを取らないぐらい重要です。その片付け技術をなんとか身につけてたからぼくは毎週末連続登山(現在毎週連続は5年目に入りました)が出来たのです。もちろんこれからも続けます。
片付けは得意でもめんどうでやっかいなことに変わりはありません。毎週連続登山の為には岩登りのゲレンデクライミングと日帰りハイキングを3回に1回くらいは挟み込まないと続きません。その二つの山行形態は準備と片付けがかなり簡単だからです。
最も簡単なのがマイカー利用の岩場ゲレンデ行です。ロープとヌンチャクとハーネスとATCとプレクリップマシンをまとめて小さなザックに入れておけば、それを車に積み込むだけでOKだからです。楽なことだけしたくなる誘惑にぼくだって負けそうです
さて、理科室の片付け方ですが。
①一つの棚、一つの引き出しというようにチョットづつ片付けます。日を決めて理科の教員が集合し、全部の荷物を一度広いスペースに広げて、いっぺんに行おうとするタイプの教員に何人か出合いました。でも、それは、長い時間がかかるし全部の荷が出せるほどの広場(理科室では荷物の1/3の量も広げられない)がないので無駄が多くなります。数人の理科教員が共通する2~3日を作って片付けに集中するなどというのは現状の中学校では難しく、結局一人で地道に片付けることになります。
②箱とか籠に入っているものはそこから出して、棚に見えるように並べます。箱は体積が大きいので少ない棚スペースを占領します。箱を使わなければ、2倍から3倍の物が同じ棚に並びます。
③温度計は温度計の所、磁石は電流と磁界の所、音叉は音と光の関係の所という具合に同じものを同じジャンルの所に集めます。そうすると後で物が探しやすいし、どこに何を片付けるかが決まって、片付けに流れとリズムが生まれます。
④しまう場所が以前にラベルで表示されていた跡があったら、その表示された場所を尊重します。他の理科教師もそれを使うわけで、彼らは備品のある所を記憶に頼って探すからです。ちなみにぼくは棚にラベルは貼りません。ラベルを貼ると配置換えが困難になるし、ラベルを貼るタイプの教員は一時的に片付けてしまうとそれで満足して長帳場でボロを出す人が多かったです(50人ぐらいしか比較の対象となる人はいないのですが)。物が何であるか見て分かれば棚のラベルはいりません。物がケースに収められている場合にはケースに中身を示す表示を書くようにします。ちなみに、紙のラベルは数年で酸化して茶色くきたなくなりますからテプラなんかを使うのが良いです。
⑤他の理科教師の私物については、基本的にはそこにそのまま置きます。昨年の成績原簿なんかが混じっている可能性が高いので安易にいじってはないません。
⑥ビーカーとか試験管とか汚れていても洗わず、そのままビーカーはビーカーの場所に並べます。明日使うといった追い込まれた状態になれば必然的に洗うからです。
⑦一日20分とか、この棚だけとか決めて、少しずつ進めます。一度に多く片付けないのが秘訣です。
⑧多量のゴミが出るのでこまめに捨てに行きます。生徒に捨てに行かせようなんて考えると先に進みません。
⑨60cm幅の棚が上から下まで8段くらい片付けば、先が見えてきます。学校の理科室というのは棚の外に物を出して片付けないから足の踏み場がない状態なっていることが多いのです。
⑩古くて使わない(生徒が触りたくないほど茶色く酸化していいる:15年以上経過している)自作の教材を見つけたら、惜しまず捨てます。自作の教材は自分のお金で作り転勤の時はそれを持って移動します。自分の物だから残して置かなくてよいのです。他の人が作った自作教材を使うことはあまりしないのが多くの場合です。
⑪準備室に自分が落ち着いて仕事が出来る椅子と机を確保してしまえば、こちらの物です。学校で自分の部屋を持てるのはいいもんです。(J記)
March 20, 2007 レンタカー登山はいいもんだ
3月16日午後9時30分、ニホンレンタカーの亀有営業所(24時間営業)に到着しました。氏名を届けるだけで何人でも運転出来ると言われて同行メンバーで免許を持っている人の名前を4人分も書いちゃいました。1000円ほど追加すれば登乗者保険が3000万円になると言われたのでそうしてもらいました。それで、3万7千円払って8人乗りのニッサンセレナを丸々2日借りることが出来ました。車が盗難にあったり大破したら他に40000円必要という追加の説明がありました。車が盗まれて無くなっちゃぅても40000円でいいというのはほんとうなのでしょうか「シンジラレナイ・・・???」。
午後10時に亀有発で第1集合場所の秋葉原に向かいました。秋葉原で4名のメンバーと合流、さらに第2集合場所の御茶ノ水に向かい1名のメンバーと合流して総勢6人となりました。秋葉原と御茶ノ水は数百メートルしか離れていなくて行き来が楽で、どちらもパーキングメーターが至る所にあって駐車しやすいのです。秋葉原は地下鉄日比谷線とつくばエクスプレスと山の手線と総武線が通る駅、御茶ノ水は地下鉄千代田線と中央線が通る駅でこの二つを連結して集合場所にしたのは我ながら名案だったと思います。
お茶の水発午後11時、竹橋の所で首都高に入ろうとしたらいきなり「ETCカードが入っていません」とETC車載装置が通告してきました。ETCがついているとは知らなくて、カードは持って来ていなくて残念でした。カーナビとETCがレンタカーについてるのはあたりまえのなんだそうです。いつの間にか、デジタルキャッシュレスの時代になっていたんですね!
一昨日の3月18日からスイカでバスや私鉄に乗れてコンビニで買い物出るようになったのを知ってますか?スイカとはJRが開発した電磁誘導を電源(電池がないということ)とするマイクロチップの入ったカードのことで、果物のスイカのことではありません。私鉄が開発した同様なカードにパスモがあります。パスモはモスラの親戚ではありません。
夜をかけて交代で運転しました。東名~東名阪~桑名インターと経て藤原岳登山口着は3月17日朝7時でした。さすがに眠くて仮眠して、9時になって出発、藤原岳には雪がいっぱいありました。雪が無くて土が出ているところを見つけると、そこには決まって福寿草の黄色い花が顔を出すように咲いていました。
山頂の展望は抜群、鈴鹿山脈の全貌をとらえることが出来ました。遠くの真っ白い山は伊吹山…かっこいい、もっと遠くの白い山は御嶽山・・・いつもと違う関西の山の風景は関東の登山者の心や気持ちを捉える何かがあります。
午後3時に登山口に戻りました。日帰り温泉入浴施設に寄り、ジャスコで買出ししてから御在所山麓にある「一の谷御在所山の家」に向かいました。山の家到着18時30分。車がなければこんなことは出来ません。
暖冬は嘘でした。持っている衣類は全部着て、帽子を被り、手袋までして布団に入っても寒かったです。朝3時、寒くて寝てられなくなって震えていたら、リーダのTYさんがストーブに火を入れてくれました。やさしい心づかいがありがとうございました。
3月18日、朝食を食べて7時30分に出発しました。藤原山とくらべて鈴鹿山脈のずっと南の位置にある御在所山に雪はありませんでした。椿の花がたくさん咲いている小道を1時間30分、花崗岩(ちなみに藤原山は石灰岩の山だった)で出来た奇岩を縫うような急登(時々凍っている所あり)を1時間30分と登ると。一機に山頂の飛び出しました。ロープウェイの上がって来る山頂は人がいっぱいで、スキー場やカモシカ牧場まである観光地になっていました。景色はいいのですが、とても寒かったです。記念写真を撮って、山頂から急ぎ下りました。午前11時に一の谷御在所山の家に戻りました。
渋滞が心配だったので、そのまま午前中にレンタカー内の人となり、急ぎ往路を戻りました。途中、道の駅でおみやげを買い、ドライブインできしめんを食べて亀有についたのは午後9時前でした。
1人当たりの交通費は10500円でした。
(レンタカー代37000円+ガソリン代12000円+高速代14000円)÷6名=10500円 (J記)
March 05, 2007 小岩井サンセットロックと常連さんのいない岩場
東京の西部にある自宅を朝6時車にで出ました。近所に住むケンジくんの家を回り、首都高、外環、関越、圏央道と高速を飛ばし鶴ヶ島で出て、埼玉県の日高市に向かいました(調子に乗って道を間違えて飯能まで行ってしまって戻りました)。日高市に入って高麗駅前を通過し小さな峠を越えて名栗川沿いの道を川の上流に向かい、二小前で自由の森学園方面に左折、名栗川にかかる橋を渡ったらすぐ右折そこから200メートルの所にある茶畑で車を止めて名栗川の川原まで踏み跡を歩きます。歩き3分で小岩井サンセットロックがあります。岩は川の流れから立ち上がっています。高さ20メートル幅も20メートル、岩質はチャート、全体にやや前傾(オーバーハング)しています。
サンセットロックに到着したのは8時でした。まだ誰もいません。終了点はみんなしっかりと作られているのに、一番左の“サンセットハング5.10b”だけそれがなかったので、裏から回って岩の頂上に出てまずは終了点を作りに行きました。坂道を歩くだけで簡単に岩の頂上に出れてしまいまいとても便利です。
サンセットハングより右隣の“クズクラ5.9”の方がやさしそうなのでまずはそこから登りました。最近体重が3キログラムも増えたので腕に来ますが、大きなガバばかりのルートなのでなんとか登りました。それから、サンセットハングを登り、ロープを引き抜いた所でお茶の道具を車に取りに帰りました。一台車がやって来ました。中には地元のクライマーらしいおじさんが乗っていました。それで、聞いてみたら、週に4回も来てるとかいう常連だと返事が帰りました。岩場にとって返して、お茶をしてから、ぼく(56歳)が“アンブレラ5.8”ケンジくん(30歳)が“アンブレラ直上5.10b”を登りました。ケンジくんのアンブレラの登り方を見ていたさっきのおじさんが近寄って来てより楽な登り方の解説してくれました。ていねいに話を聞いていたら、おじさんは教えるのが相当に好きな方らしくて。北面にある自分の作ったボルダー課題に案内してくれると言い出しました。ままよと思って北面に行ったら、おじさんはトラバース課題(5.11?)をまずは自分でやって見せて、ぼくらにやれと言うのです。まずはケンジくんがアタックして、一発で課題を落としてしまいました。ケンジくんは低いトラバースが得意なんです。次にぼくがアタック、ボクの場合は二手目からして取れなくてリタイアしました。おじさんは大興奮、この課題を一回で落とした人は君(ケンジくん)が始めてだとヨイショの連発、近くにあるもう一つの自分の作った課題もやりましょうと言い出しました。
サンセットロックからもと来た道を200メートル戻り、名栗川にかかる橋も渡り返して対岸に出て、橋の下から川原に降りました。
「この岩はムラタさんち、その裏側がイカロスさんち・・・」とおじさんは機関銃のように岩場の説明をします。そのころになって、おじさんの名前がムラタさんだとわかりました。奥武蔵の岩場に通う人達から『フリーソロのムラタさん』と呼ばれていて、‘ムラタさんち’や‘イカロスさんち’のある“久須美のボルダー”の開拓者であるようです。オジサンなどと書いて大変失礼いたしました。以下、ムラタさんに改めます。
ムラタさんはイカロスさんちのボルダーの左の端にある新作のランジ課題をさっきと同じように登ってみせくれました。そして、ケンジくんにトライさせました。そしたら、ケンジくんはまたまた一発でクリアしてしまいました。ケンジくんはランジも得意なんです。ムラタさんは大変うれしそうにされて、第二登者だから「岩雪のクロニカル」に書くと言っておられました。次に、ムラタさんはイカロスさんちの真ん中の課題(高さは8メートルくらい)をフリーソロで登って見せてくれて、その課題もケンジくんにやってほしかったらしいけど、マットがないので後の機会にゆずることになりました。ムラタさん丁寧なご指導ほんとうにありがとうございました。
それからサンセットロックにもどったら、3人の常連さんが来ていました。ムラタさんは3人の常連さんと親しそうになにやら話しをしていたと思ったら帰ってしまいました。イトさん(50代かな)という方は岩場の下に丸太を並べたりして岩場の下地を整備して帰りました。ヨシさん(40代かな)という方とマルさん(60代かな)という方は各自で上からロープを垂らしてそのロープにアッセンダーという器具をかけてそれぞれが一人でルートを登る練習をして、4本くらい登ったらさっさと帰ってしまいました。3時間くらいしか岩場にいないで帰っちゃうのが地元常連さん達のやり方みたいです。
その後、ぼくらも「自由の森5.10b」と北面の岩場にある名前のない5.10aルートを登っておしまいにしました。
「常連さんのいない岩場ってないのかな・・・?」ケンジくんがつぶやきました。
「権現堂の岩場ならいないかも?ここから近いから見てみる?」とぼく。
車に乗って、高麗に戻り、日和田山の右から舗装された林道を走ること10分、権現堂の岩場に到着しました。もちろんだれもいません。少し前傾したチャートの岩場にボルトが打たれ終了点のあるルートがあるけど、この2~3年は登られていないようです。
「プライベートゲレンデみたいだね、今度登りに来てみようよ!」とケンジくんが言いました。
ぼくは、岩場の右端のルートの取り付きと2手目あたりに真新しいチョークの跡を見つけて
『こ、こんな所にも、今日、だれかが来ていたみたいだ!』と言おうとしたけど言えなんだ。(J記)
February 27, 2007 登山技術としての「仲間作り」
ぼくは1983年の9月に登山インストラクターを自称するIW師匠の弟子になりました。IW師匠のもとを離れて独立したのが2003年4月ですからぼくの修行時代はずいぶん長かったです。師匠には長い間お世話になりました。ありがとうございました。
1983年の9月、師匠に最初に教えてもらったことは岩登りと沢登りと雪山と縦走(歩き)の四つの技術と同じかもしかして一番難しい登山技術に「仲間作り」があるということでした。そしていつも、師匠のまわりには素敵な山の仲間が多く集まっていました。師匠は山の仲間作りの達人というべき人なのです。その達人となりえたわけを完全にわかることなくぼくは20年の修行を終えて師匠の側を離れました。
ぼくの最初のザイルパートナーになったのはSZさんでした。1983年の11月、SZさんとぼくは、師匠から9月に日和田山で一回だけ岩登りを教えられました。その後は神田の常盤橋公園でガリガリ練習して、11月3日の休みに、無謀にも、二人で三つ峠に行きました。SZさんもぼくも一般ルート以外は登れそうもないのに、一般ルートはものすごい順番待ちで登れません、それで、SZさんは一般ルートの右隣の地蔵ルートを強引に(腕力中心で)突破してしまいました。SZさんの優れたバランス感覚と強靭な体力がそれを可能にしてしまったのです。そのままぼくらは弱点をついた岩登り3ピッチで天狗の踊り場に到達、天狗の踊り場でトップロープをかけてダイコンオロシを一回登ったら夕方になっていました。以後SZさんとぼくは谷川岳に西黒尾根から登りピークを越えて天神尾根に至りで雪洞を掘る山行、とか、夏の谷川岳東尾根、冬(1985年3月17日)の一ノ倉沢四ルンゼ(本谷)などに一緒に出かけて行きました。でも、SZさんは1985年の6月に一ノ倉沢の北稜を下降中に怪我(全治2週間程度の骨折)をしてしまいました。その後、彼はなぜか山から遠ざかるというか山に行かなくなってしまいました。
1984年の9月より、沢登りと山スキーにTJさんとよく行くようになっていました。TJさんは人を引き付けるふしぎな魅力を持った人でした(その点は師匠とよく似ています)。TJさんはどんどん仲間を増やして、毎週のように個人山行に行っていました。TJさんと行った三面側・岩井又沢はぼくの快心の山行の一つとなりました。
予断ですが、三面川はぼくの父の故郷である新潟県村上市内を流れる川です。村上市に行ったら父の実家の鮭料理が専門の割烹:M浦家(駅の改札口を出て振り向いて上を見上げると看板が出てます)にぜひ行って下さい。
予断から戻ります。TJさんの仲間の間では安達太良山の沢の研究のなんていうテーマがあって充実していました。自分の山の行き方を確立し始めていたTJさんは師匠の山行の手伝いが出来にくくなりました。師匠の勧めもあって、1988年にTJさんはその仲間と共に沢登り専門の山岳会を作って独立しました。でも、まだ弟子だったぼくはその山岳会には参加しませんでした。師匠の所もTJさんの山岳会も他の会の人との山行を禁じていましたから、以後TJさん達と山に行くことはなくなりました。
1990年前後、ぼくにもテーマがありました。お盆の休みは剣の各岩登りルートの登攀、正月は南アルプスの雪山登山、冬の日曜日が谷川岳の一ノ倉沢の雪稜登攀、春と秋はの日曜日は丹沢の沢登りです。お盆と正月と日曜日と国民の祝日しか仕事を休めなくいぼくにとってそれは実行可能な素敵なテーマでした。1年計画で準備して目標ルートにアタックなんてしていました。そのころ、山の仲間はけっこういっぱいになっていました。YHさん、FMさん、KKさん、0Tさん、FYさん、KTさん、ITさん・・・、でも時を経て彼らはそれぞれの道に進み、今、いっしょに山に行っているのはYHさんのみです。FMさんとは1年に2回会います。KKさんはもしかして、現在ぼくとYHさんの所属する青山一丁目山岳会に来てくれるかも知れません。
ぼくは1996年4月に登山教室の運営を請け負う「山塾サポート」を始めました。一人で出来ることではないからKDさん、KZさん、KHさん、WDさん、HRさん、SZさん・・・など様々な山の仲間に手伝ってもらいました。特にKDさんには以後八年もの間、毎週のようにお世話になりました、感謝の気持ちを今も忘れることはありません。
そしてついに2003年4月、ぼくは6人の仲間とともに「Timtam」を作って師匠の所から独立しました。前記のルールに従い、師匠の所にいる仲間とは山に行かなくなりました。(文:M浦)
----------------------------
師匠のことばです。
その①…「山の仲間が10人いても3年たてば半分になり、6年たてばいなくなる。」
その②…「山に行く者は常に山の仲間作りを心がけていなければならない。」
February 23, 2007 ‘素敵な’もしくは‘いい’苦労
2月18日の日曜は雨でした。それで、ぼく(:J)は近所に住むYさんを誘って埼玉県越谷市にある人口壁(:ミストラル)に行きました。ミストラルに着くといつものようにH氏と会います。それで、今回もまた会いました。彼は我がTimtamでフリークライミングの講師をしているM氏とともに十年近くの間千葉県流山市にある人口壁(:ガンバ)でトレーニングをしていたM氏の盟友あるいは良き先輩と言うべき人です。
J:「こんにちは!」
H:「やあ、しばらくです。」
J:「昨日はMさんと日立のオイワヤマに行ったんです。」
H:「???・・・どんな感じでしたか?」
J:「石灰岩なんだけどチャートみたい感じで、5.10-とかのルート登りました辛めです。」
H:「幕岩とか行かないんですか?ミストラルはよく幕岩で講習やってますよ。」
J:「幕岩は混んでるから、最近は青葉が多いです。」
H:「ああ!、青葉はいいですね。あそこはいいですよ。」
J:「Mさんの教え方いいですよ。」
H:「Mくんは『苦労』してるからね!」
J:「『苦労』って?」
H:「Mくんはすぐにうまくなったんんじゃなくていろいろ『苦労』してうまくなったんですよ!」
J:「登る人に合わせて違うホールドとか動きの支持を下から出すんです。説明もじょうずだし、自慢したりしないし・・・。」
H:「そうだね、Mくんは『苦労』してるからね!」
・・・・・・・・・・・・・・
J:「それじゃまー適当に登って帰りますわ。」
H:「ゆっくりしてって下さい。」
・・・・・・・・・・・・・・
H氏と挨拶を交わして、ぼくとYさんはミストラルの端っこの方で目立たない感じで、地道に、2時間とちょっとだけ練習して帰りました。人口壁の常連さん達の間に入るとなんとなく萎縮しちゃうのはぼくとYさんだけではないでしょう???。
Hさんの言っていた『苦労』というのは、
<高い目標を持ち、様々な困難に出会っても、目標を見失わず、工夫をしトレーニングに努めて、それを一つ一つていねいに克服して来た十年にわたる長い研鑽の累積のこと>です。
ぼくだってもう56年も生きてきた、だから苦労している人を多く見てきた。貧困、家族の病気や介護、人権の侵害、自分の病気、目標の喪失、価値観の食い違い・・・などなど、それでぼくは知っているのです。
<苦労しているからといって人は良くなったり、やさしくなったり、人の気持ちよくわかれたり、一人一人を大切にする生き方が出来るようになるとはかぎらない。だって、苦労から逃れるために人はずるくなったり、うらんだり、うらやんだりするじゃないか?>
Hさんの言っていた『苦労』に本当にあてはまる言葉を探したい。「研鑽」「努力」「修行」「修練」・・・二語の熟語では無理かも知れない。‘素敵な’とか‘いい’とかの形容詞をつけたらどうだろう「Mくんは素敵な苦労してるからね!」とか「Mくんはいい苦労してるからね!」となる。 (J記)
January 23, 2007 「青葉の岩場」に行こう!
NHKの教育テレビの番組に「人間家族」というのがありました(今もあるかも知れません)。山に登る家族を紹介するということで僕と僕の長女(当時小学5年生)が出演しました。1990年のことでした。丹沢の畦ヶ丸に登り、中川温泉に泊まって帰るという内容の15分の番組でした。たった15分の番組でも、撮影やら打ち合わせやら実際の登山やらで僕だけでも2日とちょっとの時間が費やされました。テレビ番組を作るって大変なんです。その番組の司会をしてくれたのはシンガーソングライターの佐藤宗之さんです。佐藤宗之さんといえば「青葉城恋歌」<注1>です。1979年のヒット曲です。・・・①
中学生の合唱曲に「青葉の歌」<注2>というのがあって、ぼくはこの曲に1992年と1998年の二回(一日20分×約二ヶ月/回))つきあったことがありました。・・・②
①と②の理由で僕は「青葉の○○」という言葉に敏感に反応する人になっていたのです。
2000年11月に「日本100岩場(北海道・東北)」<注3>というガイドブックを本屋で見つけました。北海道や東北に行ってまで岩を登るのかな?という思いはあったのですが、吉田和正という北海道のクライマーに一度だけ会ったことのある僕は、彼の登る岩場にかすかに興味があってその本を手に取って目次を開きました。すぐに「青葉」の文字が飛び込みました。
「福島いわき・青葉の岩場」・・・僕はその週のうちに偵察に出かけました。
偵察の結果は以下(1)~(14)のようなもので冬に岩登りをする場として花丸でした。
(1)常磐道のいわき湯元インターから近く、湯元の駅から歩いて30分の所にときわ台公園という大きな公園があって、その公園の北西側の山に踏み跡たどって登ること10分の所に青葉の岩場はあります。
(2)幅200メートルほど細長いエリアに高さ10メートル幅20メートルほどの小エリアが6ヶ所ぐらいあります。
(3)バトミントンコートを縦に二面並べたくらいの広場がそれぞれの小エリアにあってそこから良好な展望が開けています(湯元の街と海が見えます)。
(4)地形の関係で風が弱く、晴れれば1月でも汗ばむくらいに暖かいです。
(5)クライマーの多くの目が神奈川や伊豆の岩場に向いているのですいています(混雑しません)。
(6)様々な難度のルートが開拓者達の手によって整備され丁寧に保守されています。
(7)岩場の角度も超前傾から緩斜面まで様々です。
(8)5.10アンダーのルートが初心者がリードできるように整備されているのは出色です。ボルトの間隔が短く終了点がしっかり作られているのです。5.5のルートに1.5m間隔でハンガーボルトが打たれているなんていう岩場は他に例がありません。
(9)神奈川の鷹取山と同じか少し硬い砂岩で出来ているので、ホールドが削れてルートの性質が変わることがあるのが難点です。
(10)10メートルほどの高さしかないルートが多いので登っている人に下からアドバイスの声をかけやすいです。
(11)駅への帰り道の途中に公共の温泉「さはこの湯」(入浴料は200円、他にも800円くらいで日帰り入浴の出来る施設有り)があります。
(12)JR常磐線、上野発7:00スーパーひたちを使えば9:10分に湯元駅に到着するので日帰りは十分可能です。
(13)マイカー分乗で行くのがベストです。常磐高速を利用するので帰りに渋滞する心配が少ないです。岩場の入り口のときわ台公園には駐車場があります。
(14)トイレと水はありませんが駐車場にテント泊も出来るでしょう(テント泊は未偵察)。
偵察で花丸でも、すぐに「青葉の岩場」に頻繁に行くようにはなりませんでした。城ヶ崎、城山、鷲津山、幕岩、鷹取山、天王岩、聖人岩、つづら岩、三ッ峠、東吾野、笠間、御岳、名栗、小岩井サンセットロック、権現堂の岩場、カノトの岩場・・・6年間にわたって様々な岩場に偵察に出かけました。読者の方で岩場を見つけるのに興味ある方は権現堂の岩場を「日本百岩場(関東)」の記述を手がかりに探してみて下さい。二週間以内に見つけられたらすごい岩場捜索能力です。ちなみに、権現堂の岩場はゴーストタウンならぬ「ゴースト岩場」となっています。ハンガーボルトの支点が残っていますから登ることは出来ると思います(僕は登ってません)。Timtamのメンバーで冬の土日祝に行くのだったら青葉がベストだと思います。今、青葉の岩場通いが始まっています。みなさん、いっしょに行きましょう。(M浦記)
<注1>青葉城恋歌一番
広瀬川流れる岸辺 思い出は帰らず
早瀬踊る光に ゆれていた君の瞳
時はめぐりまた夏が来て あの日と同じ流れの岸
瀬音ゆかしき森の都 あの人はもういない
<注2>青葉の歌一番
きらめけ青葉よ さわやかにそよげ心よ
いつかきっと こんなふうに
明るい日差しのような愛で
世界中をつなぐ日が きっとやってくる
きらめけ青葉よ さわやかにそよげ心よ
<注3>フリークライミングの波が作った百岩場
1980年代の始めころ、戸田直樹さんらが日本にフリークライミングという岩登りのやり方を紹介しました。フリークライミングに取り組めば、谷川岳、穂高岳、北岳、剣、甲斐駒、鹿島槍、といった高差六百メートルもの岸壁での初登攀のルートがほとんどない時代にあって、自分の住む街の近くにある高さ20メートル程度の岩場なのにルート開拓とそのルートのオンサイトという初登攀を目指すことが出来たのです。フリークライミングは多くの人達(登山をやらない人にも広がった)に受け入れらました。以後20年の間にたくさんのフリークライミング(ボルダリング含む)向けの岩場が開拓されて、日本国内の岩場の数は数百箇所のオーダーに膨れあがりました。
そして、今はフリークライミングの大きな波は静かに引いて、現在は岩場の開拓でなくてその整備と保守に力をそそぐ凪の時代になっているようです。
January 04, 2007 行け!男子校ワンゲル部
ちょっと今日のtimtamを書いてみないか?という誘いから、ちょっと書いてみようと思ってみたもののtimtamに入会したばかりの僕が山のことをあれこれと書くのはかなり気が引けたので、高校ワンゲル時代に体験したちょっと悔しい思い出を語ります。
当時、大変食欲旺盛だった僕は共同装備の食料だけでは足りず、合宿中食事が終わって、みんなテントで就寝になると、こっそり持ってきた缶詰を食べていたものでした。ある合宿の晩、悔しくもジャンケンで負けた僕と友人Fは、顧問のM先生のテントに生け贄として召され(先生と同じテントになると仲間同士で夜更かしして語り合うことができず、また夜食にもありつけなかったので非常に寂しい夜が約束されていた)、持ってきた缶詰をいつ食べようかと、消灯後悶々としておりました。
しかし、しばらくして先生らが寝静まった頃合いを見計らい、友人と缶詰を出しあい、缶を開ける音をカムフラージュするため咳を2~3回しながらプシュっと缶を開け、さて食べようと思ったその瞬間です。ゴソゴソと先生の寝袋が動いたので、急いでベンチレーターから缶詰を外に置き、寝たふりをし、ただし目だけはしっかりと先生の方向を見て、様子を伺っていました・・すると・・・外からなにやら恐ろしい勢いて近づいてくる獣の足音が聞こえてきました。僕と(おそらく)友人の関心は、もはや先生が起きているかではなく、外の足音でした。なに?熊?鹿?音が大きくなるにつれ、恐怖心も高まってきました。しかしその足音はちょうど僕らのテントの前で止まり、数秒でその場を去っていきました。
得たいの知れぬ獣の接近に驚いたものの、僕らは食欲には勝てず、再びベンチレーターから手を伸ばし、缶詰を手にしようとしたところ、あれ!?無い!缶詰が無い!!
一瞬混乱したものの、目の前の現実と先ほどの獣の急接近が、速攻で頭の中でストーリーを組み立てました。やられた!さっきの獣は最初から缶詰を狙って急接近し、奪取していったんだ!僕と友人は、寝袋の中でダウンを涙で濡らさぬよう、ただただやり場のない怒りを堪えるしかありませんでした。
翌日、隣のテント組には笑われ、先生には何一つ報告しなかった(全ての露見を恐れできなかった)のは言うまでもありません。しかし、未だにあの動物の正体は不明のままです。(お-の記)
December 07, 2006 三丁目十番地の風景
1950年頃から1955年頃、
太平洋戦争が1945年に終わってから5年を経過した頃、
ようやくほとんどの人が飢えすぎるほどに食べ物がない状態を脱した頃、
人の命が戦争で奪われることなくその寿命の年齢まで生きられるようになったばかりの頃、
電気冷蔵庫も電気洗濯機も電気釜もなく、ラジオはあったけどテレビはない、石油コンロはあったけどガスコンロはない、夏は蚊帳を吊って寝て、冬は炭の火鉢と炭のやぐらコタツで暖をとっていて、ステンレスの流しがなくて、丸いちゃぶ台があった頃、
生活費を得るための仕事だけでなくただ生活するだけのための仕事(炊事、選択、衣類の製作とつくろい、家の補修、食料の買出し、風呂に入ること、などなど)で大忙しの頃、
・・・その頃の子供達(6~13歳ぐらい、その子供達は成長して現在は団塊の世代と呼ばれている)のいる風景を書いてみたい。
戦争という暗闇から出てきた大人達は、子供達が野に街に出て遊ぶのを無意識の中で喜んでいたようだ。子供達は遊んでも、遊んでも、もう一つ遊んでも、なぜか許された。大人達は許したのでなくて、溢れかえるようにたくさん子供達がいて、そんなのにいちいちかまっていられるほど暇ではなかったのだろう。
かんけり、かくれんぼ、ドンありかくれんぼ、チンパ、始めの一歩、陣取り、ビー玉、おはじき、大きなおはじき、エスケン、肉弾、めんこ、めんこウソンコ、ベーゴマ(フツッタン)、ベーゴマ(ペチャ)、昆虫採集、鳩の飼育、鶏の飼育、四手網での魚採り、えびがに(ざりがに)採り、紙鉄砲作り、工場探検、空き家探検、土管探検、工事現場探検、ビル忍び込み、すずめの巣採り、軟式テニスのボールでの路上野球、正月遊び(路上バトミントン、路上凧揚げ、コマ回し)、ゴム動力飛行機作り、などなど、その頃は現在にはない子供達の遊びの文化が元禄時代さながらに華やいでいた数年間だったのだ。
くは団塊の世代より年下で1950年の生まれだ。だから1950年から1953年までの間は何も思い出せない、催眠術をかけてもらえば思い出せるかも知れない。
1954年の風景が少しだけ書ける。
4月にぼくは赤坂幼稚園に入園した。花組だった。幼稚園に行くのを思い切りいやがり、園の門の前で‘はがいじめ’にして中に連れ込もうとする二人の先生(一人は宮永先生もう一人の名前は忘れた)をがんがんとけとばして(大人をけとばしてはいけないと内心は思っていた)家にもどった。家の前に立ちはだかる父と父の姉(すごく怖い)に追い返されてすごすごと幼稚園に行きなおした。
泥絵の具でのお絵かきの授業の様子が思い出せる。まわりの子はなんか形になった絵を描くが、ぼくはぐちゃぐちゃのレロレロの絵しか描いていない。
1955年の風景はもっと書ける。
4月、赤坂幼稚園月組に進級、紺色の制服を着て、18cm×25cm×18cmの籐で編んだバスケットに弁当を入れて通園(朝は親に連れて行かれた)していた。折り紙の授業で船と飛行機を折る、お絵かきの授業で船ばかり書いていた。幼稚園では相撲が大流行、吉田君というのが一番強くてどうしても勝てない、ちなみにぼくは相撲が強かった。幼稚園の帰りは一ツ木通りを通って、青山通りを渡るまで幼稚園の先生が連れてきてくれて、その先は一人で帰った。三丁目は幼稚園からは一番遠い所だった。
1955年だったら、幼稚園以外のことも書ける。
父に小さな鋸とトンカチをもらった。木で出来たみかん箱を壊してその板を船の形に切って真ん中に割り箸のマストと立ててはがきを帆にした船を造った。作り方は近所の小学生の兄さん(たぶん泰三さん)に教わった。子供達みんなで弁慶橋のボート場にその船を浮かべて遊んだ(水遊びした)。何隻か目に作った船は形を良くするために、父の引き出しでみつけたナイフで船首を削った。削っていいたら、太ももを5cmほどスパッと切ってしまって、医者に運ばれて、医者はなぜか縫わないで包帯をグルグル巻いただけだった。大きな傷跡となって今も残っている。医者にスピッツという種の白い犬が二匹いてよく吠えた。家にフロはなかった、三日に一度くらいお風呂屋さんに家族で行った。ぼくはまだ自転車に乗れなくて三輪車に乗っていた。
ぼくの住んでいたのは東京都港区赤坂伝馬町三丁目十番地だ。十番地には、四角さん、上松さん、山松さん、飯畑さん、福山さん、静岡さん、浅賀さんとぼくの家があった。四角さんの家以外はみんな子供が2人以上いてみん二~三部屋程度のの小さな借家に暮らしてた。近所のお父さんはいつも夕食前に帰ってきていた。おみやげなんか持っていてそれに飛びつく子供達を見てとてもうらやましかった。ちなみにぼくの父は劇場に勤めていて、舞台が終わってから帰るので早くて夜の十時が帰宅、朝十一時が出勤だった。父といっしょにご飯を食べることは少なかった。たまに食べると行儀の注意ばかりされて、父と食べるのは苦痛というか大嫌いだった。
一丁目と二丁目には紙芝居が来た。拍子木をたたいで子供を集めるのだがなぜか三丁目まで来なかった。三丁目は子供の数が少なかったのだろう。といっても100m×30mほどの丁内に少なく見積もっても30人の子供はいた。時々紙芝居を見に行ったが、お金のないぼくは水飴とか買えないので相当後ろの方から覗くしか出来ないのと、一丁目と二丁目には三丁目の子のテリトリーがないので、十分くらい在て三丁目に帰ってしまうのが常だった。
三丁目の細い私道の片隅で小学生のお兄さん達がベーゴマをやっていた。虎屋の羊羹工場の駐車場のコンクリートの上では同じくお兄さんたちがメンコをやっていた。
羊羹工場と自動車修理場以外にビルは一つもなくて木造の平屋の家作ばかりだった。
あちこちに小さな空き地があって原っぱになっていた。モンシロチョウとシジミ蝶がよく飛んでいて。アゲハはなかなか来なかった。クソバッタとかいう土色バッタが多くてトノサマバッタはなかなかいなかった。石を上げるとトカゲが飛び出した。アシナガバチの巣があちこちにあって、お兄さん達はそれを見つけるとハチの子を採って食べていた。雨っぽい日はかたつむりが出た、おおきなガマ蛙も出た。
二丁目と三丁目の間の坂道に駄菓子屋さんがあってお兄さん達がいりびたっていた。ぼくも月に一度くらい親に連れられて駄菓子屋に行った。一円札が通用していた。
子供達の母親(ぼくの母も同じ)は毎日買い物に行っていた。一ツ木通りの東側の入り口からロクシーというケーキ屋さん、ストッキングの伝染したのをなおす店、薬屋、電気屋、パン屋、陶器屋、化粧品屋、うなぎ割烹料理店、乾物屋(みふね)、八百屋、魚屋(ウオマツ)、豆腐屋、金物屋、フロ屋、果物屋、赤坂幼稚園のあるお寺、本屋(金松堂)、蕎麦屋(増田屋)と並んでいた。増田屋の近くの細い道を入った所に子供達に大人気の駄菓子屋(ひらのや)があった。
当時の女の人は和服を着てその上から割烹着を着ている人が多かった。母親達は毎日のようにミシンを踏み、毛糸編み機を動かして子供達の洋服を作っていた(雑誌「主婦と生活」には洋服の型紙の付録がいっぱい付いていた)。子度達の履いている靴下はみんな穴があいて、母達がその穴をつくろったものだった。
買い物の商店街には六の日に縁日が立った。風呂の帰りに家族や近所の子と一緒になって金魚すくや水風船とりをした。秋にはお祭りがあって、おみこしと山車といっしょに三丁目から氷川神社まで行った。小さい子は山車を引くだけ、子供用の神輿をかつげるのは限られたリーダー格のお兄さん小学生だけだった。
近所の山辺君の家にテレビがあった。箱に入ってなくて機械がむき出しだった。ブラウン管は丸くて、中に四角く写ってた。昼間はいつもテストパターンというやつが写るだけで番組らしい番組は放送していなかった。山辺君の家でだれかに、糸巻きと輪ゴムと割り箸で作る動くおもちゃの作り方をならってその後、よく作った。
昼、三丁目に氷屋が来た。たまに焼き芋屋も来た。たまにチンドン屋も来た。
近所の子供達は中学二年のエライ子(みんなに尊敬されていた)を中心にみんなで遊んでいた。幼稚園生のぼくはおミソでかくれんぼをしても鬼にならないし、野球をしてもアウトにならなかった。
夕方、豆腐屋がラッパを吹きながら来くころ。風呂がある家が風呂釜に火をつける、薪の燃えるにおいがしてくると幼稚園の子はエライ子の支持で家に帰された。
***************************
団塊の世代が中学を卒業して子供でなくなった頃、後を引き継いだ子供達(つまりぼくら)は彼らのようには遊ばなくなった。親や大人の管理が厳しくなって来ていて、めちゃくちゃで危なっかしい遊びは出来なくなってしまったからだろう(夜遅くまで道路で遊んだり、ビルや工場やよその家の中に入って探検ごっこなんかでもしたら、非行少年の烙印を押されてしまうのだ)。
***************************
団塊世代が青年になった頃に彼らは山に登った(当時が登山ブームだったからだ、どうして登山ブームになったかは以前に今日のTimtamの中で書いたので今回は省略)。そして、団塊の世代の多くは働きざかりになって山から離れた。今、彼らの第一陣が退職する。遊びの達人である彼らの多くがまた山に帰って来る。
赤坂伝馬町三丁目十番地は現在、大きな製薬会社の本社ビルが立っている。(J記)
November 24, 2006 漠然と願っている時にチャンスは向こうから?
大学受験用の参考書を主力商品にしているO社という会社がありました。高校生のころ(今から四十年前)、赤尾の豆単、新日本史の研究、数Ⅰの研究、シニア英和辞典なんていう本を使って受験勉強してたからぼくはO社のよいお客さんだったのです。O社の参考書の一番後ろのページにかかるブックカバーの本に挟まれた側に
「一冊の本の選択があなたの生涯を変えるかも知れない。」というキャッチコピーが書かれていて、他社の参考書買おうかと迷ってもそのキャッチコピーに説得されて、ついついO社のやつを買ってしまうぼくだったのです。それでもって、参考書を一ページ目から読んで、いつも途中で挫折してしまうぼくでもあったのです。
同じくO社提供の大学受験ラジオ講座という番組がありました。数学Ⅰの担当講師の勝浦捨蔵先生の放送内容がぼくは大好きでした。勝浦先生はくりかえし次の①~⑤のようなことを言っておられて、それで納得してぼくは、そのキャッチコピーの呪縛から逃れてO社の参考書を見なくなりました。
①参考書はあくまで参考にする書物です。詳しく知りたい所だけを抜き出して読むもので、始めから読む必要はありませ。参考書を始めから読んでたら時間がいくらあっても足りません。
②教科書かラジオ講座のテキストだけを勉強しましょう。あれもこれもやってはいけません。
③今日五つ覚えて、明日新しく五つのことを覚えても十のことは身につきません。明後日に七つ忘れてしまうからです。だから今日五つ覚えたら、明日また同じ五つを覚えるのです。そうすれば明後日には五つ全部が深くわかって覚えられます。
④新しいことをたくさんやるのでなくて今日わかった同じ問題を日を変えて十三回は繰り返してやってみましょう。そうして得た力が本物なのです。
⑤あせってはいけません、受験まであと何日でなくてあと何日もあると思うのです。あれもわからない、これも出来ないと悔やむのでなくて、ちょっとでもわかったことちょっとでも出来るようになったことを喜ぶのです。
時を経てぼくは三十三歳になっていました(1983年)。学生のころからやっていた縦走登山に行き詰りを感じて山に行くのがなんとなくおっくうになっていました。そして、
「学生時代にあこがれだった、あの沢登りと岩登りがやりたいな・・・!」となんとなくいつも思っていたのでした。夏の終わりごろの八月の日曜日、千葉の松戸駅前の本屋にフラリと立ち寄りました。趣味の本のコーナーあたりで一冊の本がぼくの目にとまりました。「沢登りの本」というタイトルです。1985年ぐらいから十年ほど続いた沢登りブームの波が松戸なんていうローカルな所まで来ていたんです。その十年のあたりは、日本登山体系・日本百名谷・東京付近の沢・関東周辺の沢・雑誌フォールナンバーなどが次々と出版され、わらじの仲間・浦和浪漫・梁山泊・トマの風などが沢登り分野で大活躍をしていた時代でした。
ぼくはその「沢登りの本」を購入しました。赤木君という主人公が沢登りに行けるようになるまでの物語り中で技術を小出しに解説し、写真を一枚も使わずくっきりとした線で書かれたイラストで図解する手法で、面白くてわかりやすい内容でした。「沢登りの本」を数時間で読み終えると、縦走や藪こぎ経験が豊富だったぼくですから、『アーッ、わかった』という感じで“沢登りが出来る感覚”をつかんでいました。そして、それから二十三年もぼくは沢登り(冬は近郊の岩場ゲレンデで岩登り)を続けることになったのです。
もし「沢登りの本」を買っていなくても、ぼくは山には行っていたと思います。でも山の行き方は違っていたと思います。なぜかと言うと二十年以上も沢登りをして来た経験から言って「沢登りの本」は入門書としては群を抜く名著だと評価出来るからです。
一冊の本がぼくの山登りを変えたのは事実です。
その本はわざわざ買いに行ったのでもないし、何種類もある中から選択したのでもありません。普段は山の本など置かない地方の小さな本屋に、そして、ぼくの前に偶然あったのです。願ってはいるのですがそんなには期待してないような時に、チャンスというのは来るものなのでしょうか?(J記)
November 15, 2006 シブかった、おぐら山
おくやまに もみじふみわけ なくしかの
こゑきくときぞ あきはかなしき (猿丸太夫)
小倉百人一首の中のひとつ、平安時代の人の感性に、そうそうそのとおりと共感できるような御座(おぐら)山でした。フカフカの落ち葉を踏みしめて、そぼ降る秋雨の中を歩いている遠くから「キーン」ともの悲しい鹿の鳴き声がきこえてきます。カラマツの葉は黄色からサビ色に変わり、最後の輝きをみせて全山を飾っています。みんなで「フヮーッ」とため息をついてしまいました。浮世のアカを落として浄化された気分。こんな山を選べるシブいT講師に感謝。次回クリスマス・イブ、雪の八ヶ岳も楽しみにしています。(クリ坊)
November 10, 2006 小冊子;話し方の練習用
1976年のこと、ずいぶん昔、ぼくはとっても若い26歳のほぼ新任の中学教師でした。その年、ぼくは放送委員会というのを担当していました。,
秋、私立のE女子高校というところが主催する中学生対象のアナウンスコンテストの案内が届き、NHKの現役アナウンサー二名が審査員と書いてありました。そのうち一人はあの森本アナウンサーでした。さっそく数人の生徒をコンテストにエントリーさせました。森本アナウンサーのサインがほしいという潜在的な願望がぼくを動かしたと言えます。動機が不純でしたから、どんな練習をしていいのか、何が得点の対象で何が減点の対象になるか、わかる努力が不足していました。
だから、・・・、申し訳ないことにコンテストに入選する生徒は一人もいませんでした。・・・ごめんなさい。
アナウンスコンテストの数日後の夕方、ぼくはE女子高の放送部の顧問の先生をアポも何もなしに訪ねてアナウンスの練習方法を聞きに行くという暴挙に出ました。期せずして、S先生(年配)が出て来てくれて、E女子高の放送部の毎日の練習用に作った小冊子いただくことが出来ました。当時はまだ、私立高校より公立高校が上位の時代で、大学付属の有名私立高校を除くと、公立の落ち止めの位置に多くの私立高校は苦しんでいました。良い生徒を多く獲得するのは至上命令、だから、公立中学の教員が来れば、それがどんな若造でも、たとえ重要会議の最中でも、そして授業中でも、それを抜けて会わねばならないのが私立高校教員の側の立場だったと後になってわかりました。・・・ごめんなさい。
次の年から、ぼくは放送委員会でなくて安全委員会の担当に変わりました。そして、それからずっと、アナウンスコンテストに参加することはありませんでした。
先日、ぼくの家の本箱の中段の片隅でS先生からもらった小冊子をみつけました。30年たった今でも通用するものだと思います。以下に内容を転記します。中学教師だけでなくて、人に話しをする機会の多い方(含、アウトドアのインストラクター)はこの小冊子は役に立ちそうです。(J記)
<話すことの10則>
1,声は人、まず人間としての完成を。
2,絶えず反省を、話しには自信を。
3,まず内容の把握を、そして表現の工夫。
4,人の前ではかたくならず親しみやすく(崩れずに)。
5,マイクを使う場合はマイクとの距離は2~30センチ,
6,正しい姿勢(肩の力を抜いた自然な姿勢で、背筋をまっすぐして)、自然な呼吸。
7,ことばは正しく、品良くわかりやすく。
8,目は一行先を見て、杖の役目を。
9,聞く身になっての話す。
10,親しい友達に話しかけるように(緊張すると冷たくなる)。
<話すことの基本練習>
1,口の体操(始めゆっくり次に次第に早く、1日目あ行、次の日か行)
あえいうえおあお・・・・・~・・・・・・、わ、が、ざ、ば、
鼻濁音 か゜、んか
拗音 きぁ、しぁ、ちぁ、にぁ、みぁ、ひぁ、りぁ、ぎぁ、じぁ、びぁ
2、舌を滑らかにする運動と呼吸運動
a背筋を伸ばして、腹いっぱいに空気を吸い込みます。そして口を大きく開けて「アー」と静かに声を出します。できるだけ続けて下さい。20秒、30秒続けば立派です。
b胸いっぱいに空気を吸い込んで、正しいはっきりした発音でレロレロレロ・・・・これも20秒続けば大丈夫です。ロレロレにならないようにします。
c鼻から空気をいっぱいに吸い込み、ゆっくり時間をかけて全部吐き出します。その次は口から吸って口から出す。口から吸って鼻から出す。鼻から吸って鼻から出す。5~6回繰り返して下さい。
3、鼻濁音の応用
おんか゜く、ごか゜く、みこ゜と、中学校
やまか゜た、じょーき゜、ごこ゜、管弦楽
花が咲く、行ったが留守だった。
君はえらいが気が弱い、連合軍
4、語尾の母音の無声化
もしもしこちらは○○中学校です。
朝礼台の上にマイクがあります。
私達は毎日授業を行っています。
今晩は大変冷え込むみこみです。
深いため息をつく。
親切な先生、背の低い生徒。
5、ことば(発音の違い)
柄をつける・・・・・・・絵をかく
顔をふく・・・・・・・・粉を吹く
値がついた・・・・・・・根がついた
雨が降る・・・・・・・・飴を振る
日にやける・・・・・・・火にやける
歯なしの話しは、聞きにくい
人生の秋が来たのか、飽きが来た。
年中行事のその行事には、行司が出る。
道場が焼けて同情された。
剣道の先生が県道を急いで行った。
たたみよりむしろムシロの方がよい。
両家の猟犬を交換する了見。
隅に積んだ炭の中に錫で作った鈴が出た。
養子が用事の要旨を用紙に書いた。
往きに雪をさけながら駅の前で易を見てもらった。
伊賀の栗は以外に大きい
柿を食べながら垣根を作った。
6、ことば(各音節の発音)
ア
あごのあばたのあと、ああにたり、あの子の兄も姉もあの子も。
慌てる時は、粟を食うのでなく、泡を食うのである。
赤いインクと青い色えんぴつを本の上に置きました。
言い分があって言おうとしたが威圧されて何も言えなかった。
浮かんだ浮きが又沈んで浮こうとする所を引いたが玉網に受け損なった。
瓜売りが瓜売りにきて瓜売りのこし売り売り帰る瓜売りの声。
青は藍より出でて藍より青し。
歌唄いが来て歌唄えと言うが、歌唄いぐらい歌唄えれば、歌唄うが歌唄いぐらい歌唄えぬから歌唄わぬ。
カ
カッパコの子はカッパコその子もカッパコ、親ガッパコ、子ガッパコ。
上加茂の傘屋が質屋に傘かりて、加茂の帰りに返す唐傘。
加茂、米かみゃ小鴨粉米かむ、小鴨米かみゃ、鴨粉米かむ。
粉米の生かみ こん粉米のこ生かみ
古栗の木の古切り口
菊栗、菊栗、菊栗、三菊栗、合わせて六菊栗
久留米のくぐり戸は栗の木のくぐり戸、くぐりつけりゃ、くぐりいいが、くぐりつけなきゃ、くぐりにくい戸だ。
隣の客はよく柿食う客だ。
サ
佐賀の佐々木三郎さんと佐山の佐々佐吉さんが、さる日、さる酒場で皿の鮭を肴に酒をさしつさされつしていたと、さる人が、ささやいた。
タ
月々に月みる月は多けれど月々に見る月はこの月の月。
東京、特許、許可局の局員。
向こうの格子に竹立てかけた。
ナ
この杭の釘は引き抜きにくい。
長町の七曲がりは長い七曲がり。
長持ちの上に生米七粒。
ハ
頬に浮かべる笑いはホホエミ、頬につける紅は頬紅、頬にかぶるのはホッカブリ、或いはホ-カブリとも言うが、ホーカムリがほんとう。
椰子(やし)の実を狒々(ひひ)が食い、菱(ひし)の実を獅子(しし)が食う。
坊主が屏風に坊主を書いた。
マ
阿波へ藍買い、甲斐へ繭(まゆ)買い。
お前の前髪、下げ前髪
<読み合わせ(役割の理解)と本読み(表現の工夫)>
1、どもり口調(驚き、怒り、慌て)
どどこだよ おおたすけください ななんです そそりゃそうだけどさ ででも先生
2、疑問態
誰のうち えっ本当かい お散歩
3、命令文
だまりなさい 静かにしなさい 早く来い
4、叱り口調
だめだめ(強く)そんなことしちゃ洋服が汚れるじゃないの(強く)
こんなにおそくなって今まで何やってたの
5、怒り
知らないものは知りません 座れったら座れ 何してんだよ
6、侘び
ごめんなさい本当にごめんなさい。
申し訳ごさいません、佐知子さん私がいけなかったんです。
7、驚き
えっ、自動車にひかれたって。 あっ、台所の方で何か音がした。
8、嫌悪不満
うるさいな、よってたかって。
それはぼくにだってわかるけど、わかっているけどしょうがないじゃないか。
9、切ない訴え
お願いだ、もう一度よく考えてくれ。 ねえ、ぼくが悪かった、本当にごめん。
10、平静
今日は木曜日で21日、そうすると金・土・日 22・23・24・24日が日曜日ですね。
11、穏やかな口調
本当に早いものだ、この間までお花見だの、潮干狩りだのとさわいでいたのに、もうすっかり
秋になってしまったね。
12、促す口調
いいよ、いいよ、もう怒ってないから
さっ、いつまでも泣いてないで涙をふいて。
13、乗り気
もちろんです、絶対にやってみます。
14、笑い口調
あのあいつがさー、あわてて、ウフッ。
プッ、それ、本当。
15、泣き口調
あの頃はよかった 何も知らなかったからさ。
良い方でした 本当に良い方でした。
16、喜び楽しさの口調
模型を作ってると時間を忘れるんだ。
18・19・20 あと三日だ。
17、上がる言い方
もしもし どなた あのね 母さん ちょっと待ってね バスが来たよ
18、下がる言い方
どうして来ないのかな 誰だ誰がこんな事やったんだ これいくらですか
水曜日の新幹線で上京します。 そういう気持ちは少しもなかった。
19、表現の工夫
(動揺して) いいえ なんでもないの。
(ちょっと皮肉に) あまりかってな事言わないで下さい。
(開きなおって) 山田さん。
(落ち着いて) 別に無駄なことをしたとは思いません。
(しみじみと) もう少し気がつくようになればよいのですが。
(つならなそうに) アーア、街を歩いている人はあんなにたくさんいるのに。
(明るい声で) つまり、我らの事務所のスタートだよ。
(けげんそうに) そう、たしかに私はカバンに入れたんだが。
(元気なく) 財布を落としちゃった。
(キョトンとして) 君も好きだねぇ。
(ムッとして) さかえちゃん。
(きびしく) 山上さん、私のことはほっといてください。
(やけになって) じゃ、どうしろとおっしゃるんですか。
(得意そうに) 目立ったわ、この服。
(思い出そうとして) そう・・・・あれは2006年。
(言いにくそうに) そっ、それが・・・失敗だったんです。
(プンとなって) ずるいよ、どうしてそんなことすんだよ。
(ややプンとなって) どこが、めいわくなんですか。
(しおらしく) 両方だと都合がいいと思うんですけど寺田さん。
(とぼけて) あっ、そうか。
(くすくす笑って) あんがい弱虫なんだな。
(力強く) 新しい証人が来ます。日時間後には必ず来ます。
(耳をすまして) あっ、聞こえる、ろをこぐ音があんなによく。
(苦笑して) そういったら、かわいそうすよ。
(穏やかに笑いながら)市子さん、おこっているのでしょう。
(考えながら) 安くって、いいもので、高く見えるものって・・・なんかな。
(ツンとして) そう。
(つぶやくように) まだ、美紀子さんは会場にいると思う。
(胸をつまらせて) 一郎君、よかったね。
(大げさに) それなんですよ、困りました。
(大笑い) アッハハハハ
(大泣き) ワー ワー ワー
(時代劇) 京の都を離れるのがなごり惜しくはないか?わしの気持ちは決まっておる。そなたも行ってくれるであろう。
(京都言葉) ほんまや、そないことあらへん。すみまへん、お客はんでも見えたら教えとくれやす。
(大阪言葉) どないしましょう。高いものこーてきてえらいどつかれましてん。
(だべ言葉) どこのお嬢さんかと思っただよ、本当に何てまあきれいになっただべ。
(でねえか) おやまスバラシイスーツでねえか。
(だーすけ) こっち座れて、だーすけだめなんだて。
October 27, 2006 DNAと教え好き
週末になりました。今日は金曜日で明日と明後日は山に行きます。最近は土曜日に休めないという理不尽をする職場が増えているので、土曜出勤の方も多いかも知れませんね、月から金までがんばって仕事したので土日連続で山に行くのを大目に見て下さい。
ところで、月火水木金土日の一週間があって日曜日は休みなのが何処で決まったのか知っていますか?それはキリスト教に起因します。旧約聖書の創世記という所に次のような記述があるのです。
始めに神は「光あれと!」言いました。神様は一日目つまり月曜日に昼と夜を作りました。火曜に大地と海、水曜に植物、木曜に動物と次々と作りました。そして“木曜日の終わりごろ”土をこねて自分に似た形を作り、息を吹き込んで、アダム(男性)を誕生させました。神はアダムに言いました、
「この世界をおまえに与える、自由に楽しく暮らすといい。」アダムは言い返しました、
「私一人ではどんなに素敵な世界をいただいても楽しくありません。」神様は一晩考えることになりました。土曜日に神様はアダムの体から骨を一本抜き取って、それにどろをかぶせてもう一つの自分に似た形を作り、息を吹き込んで、イブ(女性)を生みました。アダムとイブはうれしそうに手を取り合って神様の作った世界の中に入って行きました。それを見て神様は次の日つまり日曜日にゆっくり休むことにしました。キリスト教の人達にとって日曜日は神様が休む日ですから自分達は仕事をしていけない日なのです。だから日曜は休日で午前中は教会に行ってお祈りする日なのです。
キリスト教の人達は人類の発祥の地はキリスト教が発生したヨーロッパにあると思い、長い間その証拠をさがしていました。残念ながら、人類の発祥の地はアフリカの南部あたりだというのが現在の定説です。
アフリカ南部の広大な森に人類の先祖となる猿が住んでいました。地殻が変動し猿の住む森の中央に山脈が隆起しました。偏西風のおかげで山脈の東側は雨が降り森が残され、山脈の西側は雨が降らずに森は草原に変って行きました。山脈の東側の豊かな森に残った猿はチンパンジーに進化しました。山脈の西側の森を追われて草原に出た猿は大型肉食動物(サーベルタイガーなんか)にどんどん食べられて絶滅する所でしたが、棒を持って立ち上がって難をのがれる猿(人類)に進化して絶滅をまぬがれました。その猿(人類)は直立して立ち上がったので、大きな脳を首の骨がささえ持ち高速で移動することが出来たのです。脳を大きくしても運動性能にあまり差がないなら知恵のある分厳しい草原で生活するのに有利なので、人類はどんどん脳を大きくする方向に進化したのです。結果とした森を追われた方の猿(人類)は知恵→道具→火→服→環境へ適応力の増大→地球全土への放散という道をたどることになりました。森(エデンの園?)を追われたがゆえに人類は火を操る地上の君臨者となったのです。
人類とチンパンジーは極めて近い種です。そのDNAの設計図はほぼ同じです。どちらも15歳くらいで大人になり家族を得て子供を育てます。ところがチンパンジーの寿命は40歳で、人類のそれは100歳くらいです。チンパンジーと人類のDNAの設計図はその寿命の所だけが大きく異なるのです。
, それは人類は知恵を使って生きていかなくてはならなくて、大人になるまでの15年ではその知恵の取得が追いつかないからなのです。人類は40歳になって子育てが終わり生物に義務づけられた命のバトンの受け渡しの仕事が終わったかに見えて、さらにまだ生きて、その子供達に知恵を伝え続けないといけないのです。40歳から80歳までの期間は子供達に知恵を伝えるために使う期間だとして、DNAは中高年(40歳から80歳の人に遺伝情報ということで本能として命じているのです。
それで、中高年になると教え好き、説教好き、レクチャー好きになります。あんまり知らないことでもちょっとでも聞きかじっていれば後輩に教えようとします。だから中高年が多くいるとこの花がなんだ、あの山はなんだ、あの人はどうなった、ロープワーク、歩き方、道具、パッキング、読図・・・うるさいくらいに伝えようとします。百名山の一般ルートとか交通の便が良くて導表の完備したハイキングコースに中高年が多く出没して、危険を避けて団体(渡り鳥や草食動物が大きな群れ移動するのに似ている)でいます。その団体がなんともうるさいのは遺伝子DNAのせいなのです。
春と秋の温暖な季節の晴れか曇りの日曜日、日和田山の岩場で中高年の大きな団体を見かけることが多くなりました。日和田山の岩場くらい交通の便が良くて、Ⅲ級~Ⅴ級といったやさしいルートがたくさんある岩場がないからでしょう。一般登山道で出会う岩場を安心して通過するために日和田山で岩登りの練習をするいう人も多いようです。うるさいだけでなくて、やたらめったらトップロープを張って登らなくなってもそのままなので困っています。午後3時になると一気にいなくなるのでそれまで待つこともしばしばです。
『30分以上使わないトップロープは回収する。』
『男岩南面のや女岩南面はトップロープでなくてリードアンドフォローで登る(夏場を除く)。』といった日和田ルール(暗黙のもの)の必要性を感じています。ただし、フリークライミング用に整備されている岩場ではないので、リードしてロアーダウンしてロープをすぐに引き抜いて次の人に譲るという「フリークライミングの外岩ルール」を持ち込むのはやめてほしいです。Timtamでも毎月一回、奥武蔵の日和田山の岩場で基本ステップの岩登り教室を開講しています。日和田の担当講師は上記の日和田ルールを守るようにしています。
(J記)
October 06, 2006 キラリンとひらめくように
ぼくが中学に入学したのは1962年です。中学1年生の5月に生徒総会というのがあって講堂に集められました。生徒総会というのは前年度の各委員会(例えば生活委員会とか放送委員会とか)とか部活動の事業報告と会計報告本年度の事業計画案と予算案が審議されて多数決で承認するという全生徒の集会です。その生徒総会の議題の一つに「ワンダーフォーゲル同好会の設立の承認の件」というのがありました。中学3年のオニイサンやオネエサン達が壇上何人か出てきて話しのやりとりがあって、議長さんが
「承認する方は拍手をして下さい。」と言いました。まわりの生徒達がパチパチと拍手したので、ぼくもつられて拍手しました。こうしてぼくの中学にワンダーフォーゲル同好会が出来たのです。「同好会」は1年間ちゃんと活動すると「部」に昇格出来る決まりでした。
実は僕はテニス部に入りたかったのですが、一つしかないテニスコートに50人くらいの新入部員希望者が来ていて、「タマヒロイばっからしいぜ!」とか「運動部と勉強の両立は難しいんだって!」といううわさがあって入部を迷っていたのでした。校舎(昔だから木造)の2階と3階の間の階段の踊り場の所に、
「ワンダーフォーゲル同好会部員募集!クボチンがんばれ!」という小さなポスターが張ってありました。
それが目に入ったとたん、キラリンとひらめくように
『ワンダーフォーゲル同好会に入ろう!』と僕は決めていました。
クボチンというは社会(日本地理)の先生のことです。クボチンから出るオーラみたいな何かがそのキラリンとひらめいたの理由なんだと思います。
ワンダーフォーゲル同好会の普段の活動は夏休みと春休みに出かけて行くエコノミックな旅行の計画を話しあうことと、休みになったらその旅行に出かけて行くことでした。その旅行の引率はクボチンがしてくれました。1年生の夏休みは学割団体(半額以下になります)を使っての鉄道の旅でした。参加生徒は30人くらいいました。上野から信越線普通列車の夜行で市振へ、親知らずの海岸を歩いて名前を忘れた町に出て、お寺をみつけて本堂に泊めてまらいました。ぼくらのリックサックには毛布が一枚と水筒と着替えがワンセット入っていましたから、毛布にくるまって眠ったんです。お寺の本堂ではなかなか眠れなくて、クボチンと住職が酒盛りしている音を長く聞いていました。
親知らずから北陸線で金沢に移動、教会の礼拝堂の中に泊めてもらいました。礼拝堂の長椅子の上の長い座布団の上の寝心地は抜群で思い切りよく眠れました。金沢から能登半島を北上し、渡し船にで能登島に渡りました。海岸でウニ捕ってカレースプーンで殻を割って食べました。能登島のキャンプ場の貸しテントに泊まりました。能登島からどういう乗り換えをしたかわからないのですが、次は伊那大島駅に行き「寝覚めの床」とかいう渓谷を見て公民館に泊めてもらいました。たぶん飯田線で岡谷に出て東海道線で東京まで帰ったと思います。全て普通列車の旅ですから2泊くらいは列車の中で過ごしたんだと思いますが記憶がありません。トンネルに入ると窓を閉めても入って来る蒸気機関車の石炭を燃やして出た煙を浴びて、服も顔も黒く染まっていました。
ワンダーフォーゲル同好会冬休みの活動は寒いのでありませんでした。春休みは房総半島一周のサイクリングをしました。当時の道はほとんど舗装されていなかったから、なんともつらかったです。伴走するクボチンのミゼットに積んであるテントに泊まり、お湯を入れただけで出来るインスタントラーメン(当時「日新のチキンラーメン」は東京では手に入らなかったので「明星ラーメン?」とかいう名前でした)を昼も夜も食べてすごしました。
中学2年生の6月ごろクボチンが病気(肺結核)になって、ワンダーフォーゲル同好会の活動は立ち消え状態になってしまいました。東京オリンピック以前の時代です(東京オリンピックはぼくが中学3年生の1964年10月10日開会です)。毎日しかも長い時間にわたって中学生が部活動をする時代ではありませんでした。ワンダーフォーゲル同好会の仲間達はみな好んで今で言う帰宅部になりました。学校でなくて家の近所で小学生から中学2年生(就職を控えた中学3年生は今よりずっと大人でしたから遊びません。)までの子供達が集まって道路や空き地でかくれんぼや草野球をして思い切り遊ぶのがまだまだ許されていた時代だったのです。
青春18切符、普通列車、ステーションビバーク、駐車場テント泊、青山図書室で仮眠・・・などなどの方法を屈指して山に行く「エコノミック三百名山登山教室」が始まります。僕の中学時代にたった1年で終わったワンダーフォーゲル同好会の旅が再び始まるみたいです。それを聞いてキラリンとひらめくように参加して来る人がたくさんいますように。そしてそれが楽しい山旅になりますように!。(M記)
October 05, 2006 道志の加入道山
2006年10月1日、丹沢山塊の奥、道志の加入道山へ登ってきました。
ここは、いつも静かで、主稜線上のブナ林が気持ちよく、ちょっと予定のなかった休日にふらりと出掛けることの多い、私のお気に入りの山なのです。
参加者が時間通り集合してくれましたので、高尾山口駅前をすぐに出発、甲州街道をJR藤野駅まで進み、左折して道志方面へ向かいます。狭くて曲がりくねった国道から道志の湯方面に曲がり、登山口に到着したのはちょうど9時頃でした。それからNさん車の応援で講師車を下山口に置いてきて、9時半頃出発しました。この時点ではまだ曇りでしたが、歩き出して間もなく、雨がぽつぽつと降り始めました。加入道山頂までは約2時間半、ちょうど正午前に到着しました。いつも通りゆるゆるとラクラクペースで登っていたら、途中で本降りとなってしまいました。 避難小屋で大休止してから畦ヶ丸に向かったのですが、みんな雨の強さに辟易して、先に進むのが嫌そうな口ぶり
(^^;
しかし、この先の稜線上こそ、このコースの一番の見どころなので、往路だけで終わらせてはあまりにももったいない。やや強引にモロクボ沢の頭まで進んでもらうことにしました。鹿にひどく皮を剥がされてしまった樹木にみんなで驚いたり、いくつか知った樹木の名前を教えてあげたりしているうちに、横浜市野外活動センターへの下山道入口まで来ました。
下山口になる横浜市野外活動センターへの道は、モロクボ沢の頭を中に挟んで両側に2箇所ありまして、ここは手前の方になります。ここでみんなに確認してみたところ、雨が小止みになっていたせいか、気を取り直してくれていて、もう少し進んでみよう、ということになりました。再び小さなアップダウンの続く、ブナの尾根を歩き始めます。一時は小鳥がさえずり始め、薄明るくなって、好天の期待を持ったりしました。しかし、やがてまた雨が強く降り出し、モロクボ沢の頭に着く頃には再び本降りになってしまいました。ここで14時半。畦ヶ丸を往復していると1時間かかり、天気予報も夕方から雨なので、もう止みそうもありません。また、下山道の途中に枯れ沢状の場所があって、この本降りの中では水が出る可能性もあります。残念ながら、ここで下山することにしました。
モロクボ沢の頭から下り、横浜市野外活動センターへのもうひとつの下り口から主稜線を離れます。この下山道は特に下がフカフカで、歩きやすさに感心する声もありました。カエルを見つけたりして、ちょっと浮き立つ場面もあり、案内している身としてもややほっとしました。心配された枯れ沢状の場所もいつも通りで、問題ありませんでした。約1時間で下りきり、講師車に戻ったのは15時半頃。土砂降りの中、未舗装の林道を20分ほどかけてノロノロと戻り、登山口のNさん車を回収します。道志の湯は目と鼻の先なのですが、みんな支度をしていないということなので残念ながら見送り、そのまま帰途につきました。ゲストの方が横浜の方でしたので、八王子駅まで送ることにして、Nさん夫妻とは高尾駅の先で流れ解散ということにしました。Nさん、Sちゃん、ありがとうございました。
ところで、ゲストの方は、登山におけるゴアテックス雨具の威力をご存知なかったため、ナイロンにゴム引き加工したハイパロン製で、すぐに蒸れて内側がビショ濡れになってしまいました。これまで普通の生活をしてきた人に、1万円もする雨合羽が理解不能なのは無理もありません。こればかりは、実地に体験してみないとわからないんですよね~
(^^)
今回、天気に関しては巻機以上の本降りで、初めての完敗です。それでも、参加してくれた方々の気持ちをなんとかフォローできるよう、ちょっぴりがんばってみました。このプランを決めた頃は、気が抜けたようになっていたように思います。今後は少し気を張ってプランしてみます。よろしくお願いします。(H記)
October 04, 2006 八ヶ岳での話し
三年に一度義務付られている山岳ガイドの資格更新研修に行って来た。研修場所は八ヶ岳!。
9月29日(金)の夜8時にマイカーで東京を出発、美農戸口の駐車場に23時ごろ到着した。三段ある駐車場の一番下の段つまりバス停から一番離れた所に車を停め、その隣にテントを張った。日本酒を一合だけ飲んでシラフにもぐり込んだ。上の段の駐車場にテント泊して夜通し話しているやつらがいたけど、その騒音が気にならないくらいに熟睡してしまった。
9月30日(土)人の話し声よりも頻繁にやって来る車の音の方が気になるもので、朝の六時ごろになるとそれがうるさくて寝てられなくなって来た。起床してお湯をわかして朝食(コンビニ弁当)を食べてのんびり支度して八時に出発した。美濃戸山荘に向かってのんびり歩いていると車が泊まって、
「乗っかって行きなと!」声がかっかった。なんか朝からついている。美濃戸山荘から、柳川南沢沿いの林道をたどり林道終点で休憩、それから山道に入ってワンピッチで赤岳鉱泉に到着した。午前11時、集合時間まであと2時間。赤岳鉱泉付近で、ココアを作ったりしながらうだうだと待っていると同じ資格更新研修を受けに来たようないでたち(ザックが大きい)の人が二人登って来たので、声をかけた。やっぱりそうだった。彼等は飛騨ガイド組合の所属だそうだ。さらにそれらしい人が二人登って来た。一人は、関西ガイド組合の人、もう一人は我がNIAJ所属の人だった。
人数が少なすぎるからなんか変とか思っている時にものすごく暖かい雰囲気がただよう好青年(といっても三十代かな、四十代だったりして?)が登場した。この好青年が今回の講師のSさん、八ヶ岳ガイド組合所属だった。
講師を含めて総勢は六人のこぢんまりした研修が始まった。赤岳鉱泉の食堂で入ってお茶飲みながら自己紹介と日程確認をしてから、ジョーゴ沢のF2にまで、交代でガイドとクライアントの役をしながらショートロープにつながって行って来た。S講師のショートロープはクライアントとただつながっている感じがしない。“思いやり”の動きがあるのだ。その秘密はもちろんS講師の相手を思いやる心の豊かさにあるけれど、テクニックとしてはロープ(時にザック、時にハーネス)の持ち位置を変えることのようだ。S講師とクライアントとの距離が微妙に変化する。僕はS講師の動きをしっかりと頭にインプットして
『一つ技術をもらったな・・・。』とひそかに感謝した。
赤岳鉱泉に帰って、二人のクライアントとショートロープで繋がる場合を研修した。アイゼンを履いている時とそうでない時で二人の間隔が異なるあたりまでを確認してこの日の予定を終了、夕食後のミーティングを眠気のスゴイ中でクリアして、僕はすぐに寝てしまった。他の何人かも同じく早く寝たようだ。
10月1日(日)、5時に飛騨のガイドの方のかけた目覚ましがけたたましく鳴って起床、パッキンをすまし、朝食を食べて出発した。荷物を全部背負って大同心稜から横岳に登り、硫黄岳と天狗岳を越えて黒百合ヒュッテに入るという日程だ。強行軍を予想していた僕は超軽量化していたから良かったけれど、他のメンバー達のザックはちょっと重そうだ。まあ僕よりみんな若いから大丈夫だろう。ルートを知っている僕が先頭になりみんなを大同心の基部まで案内した。実は大同心の雲稜ルートの取り付きがわかっていなかった僕は地元ガイドであるS講師に勇気を出して
「取り付きはどこですか?」と聞いてみた。
『指さす程度かな』と僕は思っていたのだが、なんとS講師は取り付きまで連れていってくれて、ピンの位置を指さしてくれた。
『Sさんの大同心稜でのこういった丁寧な対応に感謝するためにも、このルートは登りに来なくてはならない!』と思った。
大同心の基部でショートロープをセット、大同心を右に回り込んでⅡ級程度の岩場をロープを伸ばしてスタッカットで登る。
「このあたりは夏の初めは一面のお花畑、こういう所をガイド出来るのが山岳ガイドの醍醐味でしょうね!」とS講師。
『僕だってここで講習会をやってますよ!』と言わない僕。大同心を回り込みで大同心稜の尾根を詰めて縦走路に出た。そのまま横岳を往復して来てから、ようやくショートロープをほどいた。
11時、アラレがパラパラ降ってきた、そして本降りの雨に変わって行った。横岳から硫黄岳に縦走、横岳山頂にてコンパスベアリングの実習をした。コンパスベアリングとはポイント毎に進行方向と西偏の北との角度を数字で記憶していて、地図を見ずにコンパスだけで進行方向を決めて行く方法である。ホワイトアウトしている時に有効であると推察出来る。二人が二十メートルほど離れて歩いて後ろからと前から方向を修正すれば非常に正確にに進める。
「GPSを位置の測定として用いるよりも、高度計として使う方が有効ではないかと思うんですよ。50センチ単位で正確に高度が出て来ますよ。それとコンパスベアリングを組み合わせるといいですよ。」とS講師。
「大きな雪原で旗をたてて遊ぶのがいいですよ。」ともS講師。
確かに、航空機並の計器行動が出来るかも知れないけれど、GPSの電池が極低温下で使えるかが疑問である。 硫黄岳を越えて、夏沢峠を越えたあたりの斜面で引き上げの練習をした。僕が得意の引き上げのロープワークを雨の中でバッチリ決めた。三分の一、五分の一、六分の一、七分の一、九分の一とどんどん指示が出るがなんなくクリアしてしまった。
『なんてったって、救助訓練毎年やってるTimtamだからねフフフ!』とほくそえんだ。
S講師から引き上げの支点の所の巻き付け結びがカラビナを通って負傷者側から引き上げ側のロープに移動することがあるので注意するようにという指導があったので実験してみた。その移動によって引き上げシステムが完全に機能しなくなるのを確認した。
『こういうことをタイミング良く指導出来るS講師はタダモノではない・・・。』と感心した。
15時、黒百合ヒュッテ着、ミーティング、夕食、自由時間、就寝。 10月2日(月)朝から本降りの雨だった。中山を超え、紅葉の美しい白駒池に下り、麦草峠から五辻まで歩いた。『去年結氷した白駒池の上を歩いたっけな!』と思い出す。最近はこんな雨だったらまずショートカットしちゃっていたから、ひさしぶりのロングな雨の道、新鮮な気持ちで丁寧に歩いた。五辻にあるアヅマヤで骨折者の手当と搬送の練習。その後、S講師の救急セットの中身を公開してもらった。ぼくより少し多いが似たような物が入っていたのでちょっとうれしくなった。12時30分ロープウェイ山頂駅着、ロープウェイ山裾駅まで降りて、食事をしながら反省会、14時に解散となった。
飛騨の衆とNIAJの仲間でタクシーに分乗して美濃戸に帰った。マイカーを回収し、諏訪南インターに向かう途中の温泉モミの木の湯(鉄分の多い天然温泉)で体を温めて、混んでいない中央道を一気に東京に帰った。(M記)
September 19, 2006 パソコン通信の時代を知っていますか?
「答え一発カシオミニ、9800円」というキャッチフレーズで個人で持てる電卓が発売されたのは1973年のことでした。ぼくは23歳で給料は4万7千円でした。
べーシックという言語を搭載した富士通FM7というのを買ったのは1982年のことでした。パソコン本体とモニターテレビの値段を合わせて13万円、ワイヤードットプリンターというのが18万円もしました。ぼくの給料は15万円でした。成績処理のプログラムを半年かけて自分で作りました。でも200人分ぐらいの順位の並べ替え偏差値を出すなんて仕事やらせると90分もかかるという状態。漢字もひらがなも書けないので仕方なく漢字ロムカード3万円を買って挿入したけれど、四桁のコードを入力して始めて一文字書けるという代物でした。けっきょく使い勝手が悪くて一年くらいであきらめて、パソコンもプリンターも押し入れから出すことがなくなりました。30万円以上無駄にしたことになります。悔しいかぎりです。
文字を書くのが苦手なぼくはパソコンに最も期待していたのはワープロ機能でした。1986年に職場にキャノンのワープロが一台だけ導入されました。横一行の液晶のディスプレーがついているやつでしたが30万円ぐらいしたようです。あまり使う人がいないので独占して使っていました。ぼくにとってワープロの登場は、天の助け、地の恵み、人の情け、だったのです。
1988年に東芝から大きなディスプレーが蓋を開けると登場するノートパソコン型のワープロ「RUPO」が発売されました。値段は13万円でぼくは飛びつくように買いました。ぼくの給料は20万円くらいになっていました。
東芝RUPOは次第に進化してパソコンで動く「一太郎」とか「ワード」とかと激しく競争していました。しかし結局パソコンに追いつけず2002年に東芝はワープロ事業から撤退しました。ぼくは今でもまだ動く東芝RUPOを2台も隠し持っていて、その中には十三年もの長い間に作ったRUPOの文書が残されています。
東芝RUPOの1995年のモデルはパソコン通信やインターネットにつなげるようになっていました。当時はまだインターネットよりもパソコン通信(ニフティサーブかビグローブ)をやっている人の方が多かったので、ぼくもパソコン通信ニフティサーブを始めました。ニフティサーブでパティオという大容量の掲示板が作れたので山塾サポートの会員の山行報告などを掲載していました。
ワープロは次第に姿を消して、パソコンとインターネットの時代がやって来ました。ぼくも1999年に富士通FMVという大型デスクトップパソコンを購入しました。ウィンドーズ98というのが入っていて、スイッチを入れてから画面が出るまで3分はかかるというまだらっこしいやつでした(ワープロの方がぜんぜん早かった)。購入と同時にインフォウェブを使ってインターネットに繋ぎました。FMVに標準装備されていたフロントページというホームページ作成ソフトを使いホームページを作り始めました。1999年当時に作った部分の痕跡が現在のTimtamの入会案内、遭難対策ノート、リンク集、山頂からの通信にいくつか残っています。
その後、少しづつコンテンツを増やすと共に古いコンテンツの増補を繰り返してきました。2000年に山の道具のページと山の食料のページ、2002年に山の理科ノートと予定表と参加要項集とオンライン申し込み、2003年に写真帳、2004年に青山図書室ページと携帯電話用サイト、2005年にブログ今日のtimtamと岩登りの注意のページ、2006年に沢登りの注意のページが加わりました。現在Timtamのホームページは容量が110メガバイト(推定)3台のパソコンを使い3名のスタッフによって管理されるに至っています。
今後インターネットとパソコンはさらに進化を続けることが予想されますが、なんとなく2002年のウィンドーズXPのあたりでスピードが鈍って来て携帯電話のそれに移行して来ているように思われます。Timtamのホームページも携帯用サイトを充実させる方に向かうのかな?(J記)
September 05, 2006 沢遊びの時代
9月2日の奥多摩の逆川(さかさがわ)の講習に来たゲストの一人に、他の沢登りの経験を尋ねた所、この5月に○×セブンとかいうアウトドア教室が主催する丹沢の葛葉川の沢登りの講習に行ったとのことでした。○×セブンの講習会では釜があると全員でお風呂に入るみたいにつかりVサインをして気勢を上げ、滝があると代わる代わる落水に打たれて行者みたいなポーズをとってキャッキャと騒ぐんだそうです。それで長いランチタイムをとって、途中の林道が横切る所まで行って、登山道を葛葉の泉まで戻って終了したそうです。「沢登り」でなくjて「沢遊び」という内容の講習会でそういうのもなんか楽しそうですね。
実はこの8月6日に我がTimtamが行った丹沢の小川谷の沢登り講習会で、M講師とY講師が大滝の左の尾根にロープを張っているスキに2年次会員のN君やMさん、なんとYさんまでもが大滝(落差30メートル)のに打たれていたんだそうです。
若いN君はは何を思って滝に打たれたのでしょうね・・・? (J記)
July 19, 2006 ノーマライゼーションの技術
ノーマライゼーションという言葉をごぞんじですか?
学校の成績が悪くて、しかも授業に参加出来ない人を、昔、デンマークでは、15歳を過ぎると遠くの施設にとじこめていました。
「それはおかしい」、「まちがっている」と気づいた人達は、
「どんな人も、その人しかない素敵な所がある。皆といっしょに、皆と同じあたりまえの生活をすることが当然だ」と考えました。それらの人達によってノーマライゼーションという言葉が使われ始めたのです。今から50年ほど前のことです。
ノーマライゼーションはノーマル「ふつう」という言葉と関係があります。
「ふつうかふつうでないか」はまわりの人が簡単に決めつけることではありません。
ノーマライゼーションは「幸せ」という言葉と関係があります。
「何が幸せか幸せでないか」はまわりの人が簡単に決めつけることではないのに、「ふつうでないと思うこと」をそのまま「不幸せ」と決めつけてしまうことが多くあります。
日本では、耳や目の不自由な子供、車椅子で生活する子供がみんなと同じ学校に通うことは今現在は難しいことです。そんな例は他にいくつも見つかります。
まわりの人の考え方や街の構造物の作りによって生き方が制限されない社会を作ることがノーマライゼーションの考え方です。それは21世紀に目指している社会のあり方です。点字ブロック、介助犬、「世界に一つだけの花(スマップ)」など、街に学校に職場に・・・その考え方の浸透が少しづつ始まっています。
山の中で人は不自由です。山はノーマライゼーションされつつある街と反対側にある世界です。道はでこぼこ、藪こぎ有り、岩場も有り、通過不可能のボロボロの壁有り、ブリザードが吹き荒れることだって有ります。
登山技術は山の中の不自由さや厳しさや危険を回避して前進するためにあります。そして、その技術を応用すれば、登りたい意志のある人ならどんな人でも山に登るチャンスを与えることが出来ます。上級登攀ガイドや国際山岳ガイドの方にお願いすれば世界トップレベルの難しい山でさえ行けてしまうでしょう。登山技術はノーマライゼーションの技術であるとも言えます。
そんな登山技術を身につけて、自分だけでなく様々な人のために使えたらうれしいと思います。
①技術や体力を身につけるために貪欲になろう。
②技術や体力を維持するトレーニングをしよう。
③ゆるやかなカーブでレベルアップを計ろう。
④仲間の安全に対して気配りを怠らないようにしよう。
⑤自分に出来ることと出来ないことのバランスを考えて山に行こう。
⑥人の企画する山に行くと、同じだけ自分の企画する山に行こう。
⑦タダのガイド山行はしないようにしよう。
⑧時間が出来たら一人でも山に行こう。
⑨何歳になっても山に行き続けよう。
⑩その他・・・(J記)
<注>タダのガイド山行・・・
“岩登りを始めて半年くらい経って、日和田山男岩南面の一般ルートをリードで登れるるようになったばかりの後輩”と“一ノ倉の10ルートくらいを手中に収めている先輩”が一ノ倉の中ではやさしいと言われている二ルンゼあたりに個人山行に出かけていくような場合を言う。
ガイド料をもらうガイド山行と異なりお金に対する責任が生じないスタンスが先輩後輩の双方にスキ生じさせる。両者は完全な連れて行く連れて行かれる関係にあって、もし先輩にトラブルがあれば後輩は進退きわまってしまう。トラブルに至るまでの各段階でも先輩は後輩に相談出来ないし不安な態度を見せることも出来ないので、対応がズルズルと後手に回って行く。
先輩は後輩のレベルに合わせ山に行きゆるやかなカーブで後輩のレベルアップを計るべきである。後輩は自分のレベルを数段超える山への個人山行に行ってはならない。
July 13, 2006 源治郎沢のドロ水
最近、天気予報がどうもあたらないと感じる人が多いみたいです。そんなことはなくて、もし予報が当たらなくてもそれは現在の技術を結集した最高レベルの予報に伴う最小のズレであり、誤差みたいなものであるはずです。
それにしても、週末に雨や曇りの天気となることが続いていますね。先々週の7月2日の日曜日は曇の予報がズレて雨が降っていました。「最近の天気予報は当日の朝までわかんないだから!!」怒りっぽいウチの奥さんは僕に向かって吠るように言います。ちなみにウチの奥さんは山には行きません。山にはトイレがないからというのがその理由です。旅行好き?の彼女は新聞社の企画する大型バス乗り合い観光ツアーをよく利用しています。7月2日は『東の小京都、川越、北千住発』というやつに行って来たようです。いっしょに行ったお友達は小学校や中学校のPTAの役員をした時に知り合った連中で、自分たちで『オバの会』とかいうオドロオドロしい名前をつけているんです。会員は五人くらいいるらしいです。夕方遅くまで、かくれんぼ、かんけり、そして軟式テニスボールでやる路上野球、まったく無風日を選んでの路上バトミントン、月刊冒険王、週刊少年マガジンの熟読、トランプ、ヨーヨー、鳩小屋作り、ほんとに乗れる船作り、Uコンエンジン機、なんかで遊び惚けていた少年の日以来、ぼくはPTAのおばさんには近づきたくない気持ちが擦りこまれているんです。
さて、ぼくはと言えば、自称『我ら青年登山隊』とか『TACC(外岩10aクライマーズクラブ』の会員ですので、日曜日には表丹沢の源治郎沢に行っていたのです。その丹沢行はほとんど1日雨でした。
渋沢駅からタクシーで戸沢出合いまで入るのですが、駅前に乗り入れのタクシーはそこまで行ってくれません。林道を行く時にで車の底を擦って傷めるからです。神奈中ハイヤー(0463-81-1801)という会社なら行ってくれるというY講師の情報を得て電話予約しました。「お客さん、2人までにして下さい。」と言うのを強引に頼み込んで3人にしてもらい、残りの3人をぼくの軽自動車(4WD)に詰め込みタクシー代を6人で割るという超エコノミックな方法でアプローチしました。
戸沢出合いから水無川右岸の林道行くと大きな堰堤の上で分岐となります、右は書策新道で左は天神尾根道です。書策新道を進むと源治郎沢を渡ってしまいますが、それでも、さらに30メートルほど進むと『源治郎沢入り口』とかかれた立派な導標が見つかります。導標の指示に従って左に踏み後をたどれば堰堤を一つ越えた源治郎沢の入渓点に立てます。
神奈川県登山指導センターの沢登り講習会のメンバーと思われる20名ほどのパーティに遭遇、勧めに従って先に行かせてもらいました。源治郎沢は思ったより明るく開けた沢でした。水量もそこそこあって、次から次と直登出来る滝が出て、そのどれもが楽しく安全に登れます。神奈川県登山指導センターの敷地みたいな場所にある沢なのでそこの講習会に向けての整備が進んでいるからなのです。電動ドリルを使って敷設したであろうハンガーボルトが要所要所にあってそこで確実なランニングビレーが取れるのです。滝の落ち口にはフリーのゲレンデまがいの終了点が作られています。リードする人もセカンドで登る人も超&超安心です。
最後のチョックストーンの滝を越えるころに雨足が強くなってきました。少しだけ水が濁ってきたので、メンバー3人が直登している間に残りの4人は高巻いて先を急ぎました。さらに激しく、大粒の雨が降り出し、水は黄土色に濁って来ました。
風の向きが変わり、『に・お・い』も変りました。『に・お・い』はドロ臭いような台風の後の増水した川のそれと似ていました。
「Y君(最後尾にいた)右に逃げるよ」ぼくは大声でいいました。ぼくと合わせて3人がはそれぞれのルートで左のドロ壁の側壁をだまして登り(草付とか泥壁に対応出する謎の登り方)数メートル上の樹林帯に這い上がりました。それぞれが樹にお助け紐をフィックスして後続が登りやすくなるようにルート工作をしています。
「早く、早く!」「早く、早く!」・・・。三つのルートから全員!ドロ壁を越えた頃、源治郎沢源頭部の涸れ沢がドードーという音を轟かせる茶色い瀑流に転じました。
そのまま側壁を尾根上まで登り、ヤブっぽくなった尾根の稜線を忠実につめること30分、花立の下の大倉尾根の登山道に出ました。
雨が続いていました。ぼくらは大倉尾根を沢靴を履いたまま下りました。天神尾根の分岐で大倉に下るメンバーと別れて、ぼくは一人戸沢出合いへと下りました。下りの1時間がなんだかとても長く感じられました。ようやく水無川の堰堤に降りた所で大勢の人に出会いました。それはあの登山指導センター源治郎尾根講習20人パーティでした。聞けば、彼等は沢の右の尾根(源治郎尾根)から脱出したとのことでした。ぼくらより歩程で1時間ほど下流にいたのに、うまく尾根に逃げて、素早くメンバーを下山させた登山指導センターのリーダー諸氏にそっと拍手を送りました。(J記)
June 26, 2006 自立型の登山者を目指して
,
自立型の登山者を原点においた座標軸を作ってみましょう。自分はどの型(どのエリアに)属するか考えてみましょう。複数の型が混合される場合もあるでしょう。(M浦)
June 21, 2006 巻機山山行記録
6月10日(土)夜発~6月11日(日)
夜9時に八王子駅前に集合したのは講師2人を含めて5人。こんな素晴らしいプランやのに、「12時間歩く」の前宣伝が効き過ぎてびびったのが何人もおったんかな?
道はスイスイと、夜12時には桜坂の駐車場に到着。「さあ寝るで」となっても、酒ないがな?誰か酒持ってくると思て持ってこなかったけど、山中走る道端には途中でコンビニなんか無し。出発時からベロベロのM講師は「もう酒要らん!」。で…テントを張って皆すぐに寝たんです。
翌朝は、4時に起きて5時に出発。空はどんよりと今にも降り出しそう。睡眠不足の重たい身体を引きずりながら石ゴロゴロの登山道を登る。
1時間半歩いた所が5合目の展望台。眼前には、まだ残雪に覆われた米子沢が垂直になだれ落ちる。絶景。秋は紅葉時が滑床に映え、この世のものとも思えぬ美しさとなるこの沢、今入渓禁止らしいけど、絶対来るぞくたばるまでに!
振り返れば、越後のマッターホルンといわれる大源太山がすっくと立ち、その西方には白銀の谷川岳の連峰が平標山まで広がる。
やがて登山道は雪解けの水でぬかるみとなり、すぐに残雪が道を覆う。雪穴に足を突っ込む者、また道を藪に塞がれゆきつ戻りつしつつ、雪の重みで地面に押さえ付けられていた木が、足で踏みつけた途端に弾みでバーンと跳ね起きる現象を知っとう?
いかにも越後の山らしい佇まいが好きです!
緑映ゆ残雪行けば足元から春じゃ春じゃと木々立ち跳ねぬ 亥農
1時間ちょいで尾根筋に出るとそこは6合目の展望台。正面には圧倒的な垂直の岸壁を抱きつつそびえる天狗岩。割引沢からヌクビ沢を経て割引岳に突き上げる沢筋はまだ雪渓に覆われ、もしこの道を辿っていたら命がけの山行になっていたかもしれん。
ここを出発してしばらく行くと森林限界を超え、にわかに風雨が強まる。この調子では割引岳に寄るのは無理かもしれん?
急坂を登るうち小雨まじりに叩きつける北風は冷たくまるで冬山。雨具の上下を着けなおも目吊り上げて行くも、前巻機でリーダーから下山の指示。残念やんケ、リーダーちょっと日和過ぎとちゃうかは邪推か?責任あるリーダーは冷静な判断が必要なんや。この次は、米子沢から頂上に立つでと強く決意し、万感の思いを胸に元来た道を戻る。
3時間ほど歩いて、テントサイトの瀬の水音が聞こえ始める頃、かえるの鳴き声と春ゼミの鳴き声が交じり、山の上下で冬と夏が同居の感。
駐車場に帰り着いたのは、出発から7時間半経った12時半でおました。湯沢の街を通り、土樽の共同浴場に身を沈めて、篠つく雨がクルマのフロントガラスを叩く中、関越道を帰路に着いたのです。
雪の巻機見遥るかす米子に残る思いかな 亥農
June 02, 2006 悪沢のF1とF2とF4が教えてくれたこと
5月27日の土曜日は曇りの予報でした。
早朝(時間はまちまち)、僕を含む五人のメンバーは西丹沢の悪沢に向けてそれぞれ出発しました。僕はと言えば、我家をマイカーで五時に出発、NHKの第一放送をつけっぱなしにしながら首都高速から東名高速に向かいました。車外は曇りでなくて雨、しかも雨足は強まるばかりでした。
時間は6時10分、他のメンバーが乗る6時30分新宿発の小田急の急行箱根湯本行に乗らないで引き返せるぎりぎりの時間です。迷っていても仕方なし、リーダーである僕は山行の中止を決めました。それで、東名高速の用賀の料金所の所に車を止めて、メンバーに悪沢は中止のメールを送りました。
「要返信、悪沢は中止します。ぼくは一応、集合場所の新松田駅に向かいます。」という内容でした。
東名高速の港北パーキングで休憩して、定評のアジフライ定食を賞味しながらメンバーからの返信を待ちました。7時になっても返信は20代後半君からしか来てなくて、30代君40代君50代君からのそれはナシノツブテ、返信どころか50代君にはメールが送れない状態が続いていました(その後、迷惑メール対策でアドレスを変更していたことが判明)。とにかく、僕は新松田駅に向かいました。
駅前のコインパーキングに駐車して改札口に向かうころに30代君40代君と相次いで返信が来ました。二人とも
「もう近くまで行ってるので、新松田駅に行きます」とのことです(その後、ぼくからのメールはリアルタイムで届いてなくて、“センター問い合わせ”をして八時すぎにやっと中止連絡を受けたことが判明)。
集合時間の八時三十分に20代後半君を除く四人のメンバーが集合しました。少し雨が弱くなっていました。合議の上、せっかく来たのだから偵察だけでもしようということでまとまりました。それで、ぼくの車にみんなで乗っかり、一路「割沢橋(中川川の悪沢出合にある橋)」に向かいました。
入渓9時30分、すぐに(割沢橋から見えるほどの距離)F1(8m)に到着しました。見上げるF1には残置ハーケンがみあたりません、でも果敢にアタック!。ホールドががっちりしていたので落ち口近くまでは簡単に登れました。しかし、最後の一、二手が悪くて、ランニングビレーなしにはトライ出来ず、あきらめてクライムダウンしました。
左の作業道を使ってF1を高巻き、10分ほどでF2(20m)に到着しました。F2にもやはり残置ハーケンが無くて、濡れてツルツルの垂直の壁になっていました。登るなら途中でハーケンを数本は打つことになりそうです。リスが見つからずボルトを手打ちしなければならないかも知れません。早々にF2を登るのをあきらめて、さっきの作業道を使ってF2とF3を同時に高巻いて20分でF4(15m)に達しました。
F4についてはガイドブック(東京周辺の沢)は
「途中の立木の所で折れて逆くの字に登る・やさしい・上部は脆いので注意」という記述しています。やさしいし、“せっかく来たのだから”という気持ちもあってF4に取り付きました。登り出し地点と、その上3メートルほどの所にハーケンがありましたがそれ以外には無し、立木まであと2メートルの所でランナウトしてしまいました。立木の左側の壁から上に向かおうとしたら、触っただけで40センチメール四方の大岩が崩れ落ちて右手のホールド付近が崩壊しました。
大岩は私の顔を擦り右足の腿を擦って落ちて行きました。私は岩と共に落ちた?はずなのです。
『静かだ』・・・『痛い!』・・・『アレ!、痛すぎて痛さを感じないのか?』・・・・・・・・・『モシカシテ、オレは落ちてない!』
そう、なぜか、左手と左足で停まり落ちないでいました。咄嗟に、右足フラッキング(右足を尾のように使ってバランスを保つ技)をしていたみたいですが、運良く落ちなかったと言うことでした。
立木の右側のザレた壁をザレに穴を掘って足場を作りだますような感じでそっと立って、二歩進み、立木から下に1メートルほど伸びた根(直径2cmほど)に手が届いて一安心、根を手がかりに登って立木に到達、立木の幹を支点に懸垂下降して、登り出地点に戻りました。F4はやさしくなんてありませんでした。
雨もだんだん本降りになって来たので遡行を終了、仕事道をたどって割沢橋にもどりました。なんだかんだで時計の針は正午を過ぎていました。中川温泉の町営の日帰り入浴施設(ぶなの湯)経由で新松田駅に戻り解散しました。
悪沢は箱根屋沢と共に西丹沢を代表する有名な沢です。けれど、箱根屋沢に比べて岩が脆い渓相なのでしょう。それで、30~40年前ごろにはどちらもたくさんあったハーケンが、箱根屋沢は残り、悪沢には残らなかったようです。悪沢は現在、未開拓の沢に戻りつつあると言えます。
「奥多摩の沢を登って沢ヤになろう!、丹沢の沢を登ってアルパインクライマーになろう!」なんて言われていた時代はずいぶん前に終わったと感じています。超人気のルートを除くと、多くのアルパインルートはそれが未開拓の時代の岩場状態(ハーケンなんてなくて、浮き石だらけ)戻って来ているのです。アルパインルートに
「20~30年前の感覚で気楽に取り付いてはいけないよ!」と、2006年の悪沢のF1とF2とF4が教えてくれたみたいです。(J記)
May 11, 2006 野生のエルザ症候群、症例集
クライミングジムで育った人が聖人岩とか天王岩とか幕岩といったハンガーボルトで整備された岩場でなくて、ハーケンやリングボルトが主体の日和田山の岩場の基本講習に来たということが、Timtamのこの3年間に数例あって、
『クライミングジムで育った人は、整備されていない自然の岩場で自立する(=自分で自分の安全を保って登れるようになる)のが、特有の症状(=野生のエルザ症候群‘仮称’)に妨げられて、自然の野山だけで育った人より、難しいかも?』と感じることありました。
<野生のエルザ症候群の症例集>
①クライミングが目的の山に来たのでないのに、準備体操をするとやたら長めにストレッチを行う。
②山小屋泊やテント泊で人知れず筋トレを行う。
③ロープの結び方が遅い。
④クラブヒッチをなかなか覚えない。
⑤リードアンドフォローのロープワークの仕組みをなかなか理解しない。
⑥沢登りに来てるのに、暇だと側壁でボルダリングみたいなことをしている。
⑦クライミングジムで練習してから自然の岩場に行くのが筋道だと思っている。
⑧やたらと天気を気にする。
⑨あっちの講習、こっちの講習と統一性がなく参加する。
⑩チョットした怪我で山に行けなくなることが多い。
⑪山歩き(特に雪山)にはあまり行かない。
⑫三級や四級の岩場で体を振って登る。
⑬三級や四級の岩場でテーピングをして登る。
⑭三級や四級の岩場でチョークバックをぶら下げて登る。
⑮三級や四級の岩場でクイックドロースリングでプロテクションをとって登る。
⑯雨具のような重要な用具を忘れて来たりする。
⑰ハイステップとかクロスとかムーブの解説をしたがる。
⑱クライミングのうまい人を必要以上に尊敬する。
⑲やたらと人をクライミングジムに誘う。
⑳クライミングジムのことをよく話題にする。
April 28, 2006 モミソ沢で沢始め
4月23日(日)に丹沢のモミソ沢で行われた2006年度沢始めの会に行ってきました。
小田急新宿発 6:51急行小田原行きに乗って渋沢着 8:06、改札を出たら、一本前の電車で来たHoさん、Siさん、TaさんとY講師、それに車で来たM講師とNaさんがひとかたまりになって待っていました。私とYoさんMaさんとInさんが加わって総勢十人となりました。
二台のマイカーに分乗して渋沢駅を出発しました。秦野駅行(菩提循環)バスの経路に沿って進み、水無川にかかる橋を渡って左折、戸川林道に入り、右に神奈川県登山指導センター、左に滝沢園キャンプ場と見送って、砂利道になってそれを20分ほど行って林道終点の戸沢出合に着きました。そこに車を置いて、沢登りシューズを履きハーネスも着けてしまいました(ヘルメットは手に持ってました)。戸川林道を200メートルほどもどり、新茅の沢の看板のある所から、水無川の左岸に下りました。下降路にはしっかりした踏み後がついています。水無川の右岸に飛び石づたいに渉ると。高さ20メートル、幅30メートルの岩場が立ちはだかりました(モミソ懸垂岩です)。懸垂岩を数人のクライマーが登っていました。
M講師は予定していた懸垂岩に登りながらのロープワークの確認をやめて、懸垂岩下の広場で簡単にそれを済ませることにすると皆に伝えました。そして、短い8ミリ40メートルのロープを取り出して、滝を登り終えたリーダーが後続のメンバーに滝を登らせる二通りの方法について実際にロープ操作をしながら説明しました。二通りの方法に共通しているのはロープ操作の手順が少なくてより早い時間でそれを終える工夫が随所にある所でした。この時確認したロープ操作のくわしい内容はTimtamのホームページを見て下さい(トップページ→その他のコンテンツ→岩登りの注意→沢登りで多用するエイト環グリップビレー)。
女子チーム(Maさん、Yoさん、Naさん)にM講師がついて先に出発、残りの男子チームにY講師がついて後続しました。人数の多い男子チームは女子チームになかなか追いつけないので、大滝で大休止して合流するという打ち合わせでした。
モミソ懸垂岩の左の端がモミソ沢の入り口になっていました。新緑のトンネルの下を小さな流れが続いています。モミソ沢は入渓から源頭の詰めまでほとんど水に入らないで遡行が出来る沢だそうです。Ⅳ級くらいの難しさのある小さな滝が次々と出てきて楽しめました。それらの滝の要所要所にハンガーボルトが打たれています。たぶん神奈川県登山指導センターが沢登り講習用に整備したのだと思います。
三時間ほどキャピキャピとはしゃぎながら遡行して、大滝の下に到着しました。若いMaさんが大滝をリードします。M講師がA0(エーゼロ:支点にカラビナをかけてそれをつかんで登ること)しなかったらビールをおごるとか言ってます。それで、Maさんは快調に滝を登り出しました。たくさんのハンガーボルトでがっちりとルート作りがされていますから安心です。アットいう間に滝の落ち口の核心部の所に行ってしまいました。そこはホールドが縦方向で外傾しています。ホールドが効く方向に体を傾けなくてはなりませんし、少し腕力も必要です。Maさんは迷わずA0を使って滝を登り切りました。若者はビールにこだわるようなマネはしないのです。Maさんのビレーで他のメンバーもどんどん滝の上に上がり、M講師だけ高巻いて女子チームは遡行終了となりました。
後続の男子チームもすぐにやって来て。大滝をHoさんがリード,腕力腕力などと言いながらで滝の落ち口をA0しないで楽々と越えて来ました。Y講師は高巻きで大滝を越えていました。待ち時間が長くならないように配慮しているのです。
大滝の上で大休止した後、モミソ沢を最後まで詰めて塔ノ岳の山頂まで行くY講師とInさんの二人組と別れ、我々八名男女合同隊はモミソ沢を下降して帰ります。二隊が合同してそろった三本のロープ(グレー8mm45mと赤8mm50mと青8mm30m)を使いMaさんが一本目のロープで懸垂のセットしてメンバー全員で懸垂している間にその先の懸垂ポイントにHoさんが次のロープで懸垂のセットをします。メンバーが二本目のロープの懸垂に移るころにYoさんが一本目のロープを回収して、二本目のロープの先の懸垂ポイントに転送します。そういうことを次々に行いどんどん下って行きました。一ヶ所50メートルロープでは足りない所があり、M講師の出番となりました。彼はエイトノットで二本のロープをつないで懸垂をセットしました。僕としては、末端を1メートルも出したエイトノットで繋ぐわけなどが理解出来て何か得した気分でした。懸垂下降についてはTimtamのホームページを見て下さい(トップページ→その他のコンテンツ→岩登りの注意→懸垂下降について)。
二時間ほどの下降で、入渓点(モミソ懸垂岩)に戻りました。そのころに雨が降り出しました。予報は雨だったんですが、行動中はずっと曇りの天気が続きラッキーでした。それにしても最近の天気予報は当たらないことが多いですね。
戸沢出会いにもどり、マイカーに再び分乗、渋沢駅近くの『湯香楽』という日帰り入浴施設に寄ってから小田急線内の人となりました。(J記)
April 19, 2006 土合駅と谷川岳西黒尾根
上越線の土合駅は不思議な駅です。その駅の利用者のほとんどが登山者かハイカーか土合駅そのもの(日本一のモグラ駅)の観光客です。通勤で利用している人はたぶんいません。登山をする人達は前夜のうちにやって来て駅舎の中の切符売り場の前とかに銀マットを引き、酒盛りをして、出来上がった人からら三々五々シラフにもぐって寝てしまいます。駅を好条件(水道、トイレ、屋根付)のキャンプ場として利用しているのです。そのような駅の利用の方法を『ステーションビバーク』と呼んでいます。
4月1日(土)晴れ
14時にマイカー(軽自動車)で東京を出発した我々3人でした。水上のインターを出て、土合方面に向かいバス道路に出た所にコンビニがあります。そこで、お酒や食料を仕入れて、水上駅を右に、湯桧曽駅を左に見送り21時に土合駅に着きました。4月2日が雨の予報だったからでしょうか、駅舎内に登山者の姿がありませんでした。駅舎に入ると畳が50枚ほど引けるホールがあってその正面に改札口、右が切符売り場、左に待合室、待合室の左がトイレ(トイレには一度外に出てからでないと行けません)になっています。
『ラッキー』とか思って、切符売り場の前に陣取ろうと思ったら、待合室から古い友人のFMさんが出て来ました。FMさんは彼女の夫さんと共に『M&M倶楽部』という登山教室をやっています。それで、なんと待合室内にテントを2つ張ってお客さん5名をを泊まらせていました。明日は白毛門山に行くのだそうです。FMさんの勧めに従ってぼくらはより居心地の良い待合室に銀マットを広げました。そうこうしているうちに下りの電車が着いて、我々の仲間が4人加わりました。我々のメンバーは総勢7名です。さらに3人登山者がやって来て(車で来たらしい)切符売り場の前に陣取りました。翌朝になってその3人の内2人は知り合い(山岳会『ノマド』のメンバー)でした。不特定多数の人達で溢れるはずのこの時期の土合駅は総勢17名、知り合ばかり、不思議な状態???でした。
4時30分に起床するのでチョット宴会してシラフにもぐり込みました。いつものようにいる酒癖の悪い山岳会がいなかっとので、とても静か、寝たと思ったら朝が来る感じで良く眠ました。
4月2日(日)雨
起きて外に出たら、本降りの雨でした。もしこれが個人山行なら、すぐに出発せずうだうだと様子を見ていたかも知れませんが、講習会なのでそうも行きません。
6時出発、アスファルト道を谷川岳登山指導センターまで行き、衣類調節タイムを取りました。雪山では大汗はかきたくないので、コマメに衣類調節タイムをとったのです。登山指導センターのすぐ裏から急斜面を直登して西黒尾根をとらえました。1時間ほどで、鉄塔の所の広場に着きました。本降りの雨は続いていますが、メンバーみんな行く気まんまん
「行ける所まで行きましょう」とか言い合っています。
鉄塔のすぐ上の所に雪庇が出来ていました。尾根の右とか左とかに張り出してるのでなくて尾根に直角の方向に進路をふさいでいました。左に回り込んで雪庇を回避して、がんがん進みました。足下の雪がかたくしまり斜度も急になってきたのでアイゼンをはきました。スノーシャットがついていないアイゼンの人は数歩行くと雪の団子がアイゼンの爪の間に挟まってしまい歩きづらそうでした。アイゼンをはくころに雨は上がりましたが雨雲が上空から消えることはありませんでした。
登り始めて2時間30分、ガンゴウ新道とのジャンクション手前のピークの直下まで来ました。そこは、高さは5メートルもないのですが40度弱の急斜面になっていました。リーダーは同じ場所を何度も踏み込んで、ステップを大きくしながら登りました。後続のぼくらは別に不安なくその斜面を登り切ってしまいました。リーダーは堅い雪の上に乗った1センチほどのグズグズの雪によってアイゼンの効きが悪くなり滑落が起こる可能性を感じていたようです。もっともこの場所で滑ってもマチガ沢側に50メートルほど落ちて木に引っかかって止まります(これより上の場所だったら50メートルではすまないですが)。
ピークに出て見上げれば、頂上に向かって雪の急斜面が伸び上がっています。雪の量は平年よりはるかに多いようです。雪の重みでズレて生じた亀裂が何本も走っていてそれが尾根上を横切っています。
ジャンクション手前のピークから20メートルほどはナイフリッジになっていてその偵察に行ったリーダーが戻って来ました。
「ここから、撤退します。これ以上先に行くと、引き返すことが出来なくなります。」リーダーはサブリーダーやスタッフの意見を求めることもなくシビアに言い切りました。
ピーク近くにあったしっかりした灌木(ここから上は灌木は雪の上に出ていない)を支点にしてロープをフィックスしてそれをたよりにワンピッチ下り、続く緩斜面は楽勝に下り、樹林が濃くなった所でアイゼンをはずしシリセードを交えて一気に下り、土合駅着は12時でした。
行きと同じ3人は車で帰りました。関越道の赤城インターのあたりでまた本降りの雨となりました。(J記)
April 13, 2006 レンタルワカンジキの研究記
地球温暖化に原因があるのでしょうか、あるいは数十年とか数百年スパンの天候の周期によるものなのでしょうか、ここ数年、12月の富士山に雪がほとんど積らない状態が続いて来ました。12月の始めに富士山の五合目での雪上訓練をして、正月の前後には雪山登山に出かけて行くというパターンでなくて、“ポストそのパターン”の時代となったと仮説が立てられる状況なのです。それで、我がTimtamの雪山教室は“2月の八ヶ岳の黒百合平周辺での雪上訓練から始めて、3月~6月の陽春の雪山に向かい、翌年の1月~2月の厳冬の山につなげるというシフトを行いました。
3月の下旬から6月の雪は残雪です。それはザラメ状態になっていることが多いのです。それで“ツボ足”で歩いてもそんなに深くは雪の中にもぐりません。そのような残雪の山に行く場合には時として降る新雪や気温上昇に伴って変わったグズグズの雪に対応するためにワカンジキを携行することが多いです。厳冬期の豪雪の山では深雪の踏破力でスキーとスノーシューに問題にならないほどの差をつけられてしまうワカンジキですが、ちょっとしかもぐらないザラメ雪に対しては抜群の威力を発揮します。小さくて軽量で(しかも安価)すから、軽快に持ち歩けるのも利点です。
今シーズン、Timtamで、レンタル用のワカンジキを本格的に整備することになり、なぜかぼくがその担当になりました。
12月にレンタル用のワカンジキの選定のために登山用品店を訪れました。籐製のワカンジキ、ジュラルミン製のワカンジキでトップがスノーシューのように反っているタイプ、ジュラルミン製のワカンジキでトップが反っていないタイプの3種類が店頭に出回っていました。籐製のものはぼくの持っている20年前のやつに比べてワッパの部分が細く、中央にかけてある紐がゆるゆるしていて頼りない感じでしたしメンテナンスも大変なのでパス!、ジュラルミン製のタイプを2タイプ各2足ずつ購入して試用実験を行うことにしました。
1回目の試用実験は谷川岳の雪洞泊体験教室の後で行いました(2月26日)。4人の人に上記4足のワカンジキを履いて天神尾根を歩いてもらいました。10分も歩かないうちにトップが反っていない方のワカンジキの締め具のベルトが緩み、再三にわたり締め直したりバックルの長さの調整を行うことになりました。トップの反った方も30分ほど歩くと締め具のベルトの不具合が発生しましたがこちらの方がワカンジキ中央にかかる2本のベルトや締め具のベルトが太いので不具合が発生するまでの時間的間隔が長かったです。とにかくきちんと中央の2本のベルトが靴の土踏まずの位置(以下、正規の位置)からずれないような締め具のベルトのかけ方バックルの位置等(以下、締め具)の調節の仕方の確立をしなければならないことがわかりました。
東京に帰って、締め具の調節の研究を行いました。幸いぼくの古い籐製のワカンジキの締め具はぼくの靴によくフィットしていて、雪山での行動中にハズレたりズレたり(ずれても正規の位置にもどる)したことがなかったので、その古いやつの締め具のシステムを観察してみました。今年購入したワカンジキの締め具は“1本締め”、1本のベルトを3箇所のリングに通して最後にバックルで止めます。それに対して古いやつは“2本締め”、リングに通さないで前後2ヶのバックルで止めます。1本締めだと1箇所のリングのベルトの折り返しで1ミリ緩むと全部で3ミリ緩むことになり、ワカンジキがその分だけずれます。テコ(リン軸かな)の原理が働き、わずかなずれが小さな軸となり大きなワカンジキ全体が大きな軸となってベルトの緩みを増加させます。
『①ベルトを太くして2本締めにする。』のが良いとわかりました。また、その古いワカンジキに靴の取り付けると、“後ろのバックルと後ろの中央ベルトをジョイントするベルト”と“後ろのリングと後ろの中央ベルトをジョイントするベルト”がどちらもほぼ垂直に立っていることがわかりました(ワカンジキの輪は水平にフラットに置いた状態です)。これが曲がっていると曲がった方向に靴が引かれるので、靴の土踏まずのくぼみから中央ベルトからはずれると、ワカンは正規の位置から大きくずれることになります。
『②締め具についている靴のかかと側に回るベルトの長さを前記の2本のベルトが垂直に立つように調節する。』のが良いとわかりました。
2回目の実験を会津駒ヶ岳のスノートレッキング教室の中で行いました(4月9日)。実験代はぼくです。右足にトップの反り返っていないワカンジキ、左足にトップの反り返ったワカンジキを履いて、会津駒ヶ岳を往復するというものです。もちろんそれぞれのワカンジキには上記①と②の締め具の調整がしてあります。当日は深い所では大腿までもぐる激しいラッセルでした。登り下り共にワカンジキの締め具の不調はありませんでした。そして
『③トップが反り返っているいないはワカンジキの使い勝手に影響はない。』とわかりました。数年前からのスノーシューの流行に追われて、ワカンジキにスノーシューに似せてトップの反り返りをつけたというのが真相のように推理されます。
そういうわけで、Timtamのレンタルワカンジキによる(歩行中にそれがずれたりはずれたりすることのない)快適な雪上歩行が可能になったと自負しています。現在レンタルワカンジキは7足に増えています。(J記)
March 24, 2006 大草原の稜線を歩くコース
中学生の時、夏休みの林間学校で山中湖に行きました。1日目に何をしたか、どんな宿舎に泊まったか、2日目に何をしたかなんてことはほとんど思い出せません。夜になって、五合目から頂上まで続く光の点線(富士登山者の懐中電灯の灯りのつながり)を見たこと、それに、左に山中湖を見ながら草原のようななだらかな山をハイキングしたことだけ覚えています。
話しは現代に戻ります。
今週の3月21日(火・春分の日)に山伏峠から入って石割山を経て大平山まで縦走して来ました。タンネの森の中を2時間ほど歩くと、視界が開けてカヤトの大草原の道となりました。フカフカの土の道で足にやさしくて歩きやすかったです。昼すぎてちょっと霞んだ空の下、左手側の眼下に山中湖があって、お風呂屋さんの大きな湯船みたいに見えました。その湯船から立ち上がるように、笠雲をのせたでっかくて真っ白い富士山が見えました。富士山は進行方向正面にずっとずっと見えていました。
中学生の時に歩いたコースと同じだと確信しました。時を経て記憶に残るような素敵なコースを選んでくれた私の中学時代の先生達に感謝します。そして、このコースを再度選んでくれた本山行(2006.3/21)の担当講師に感謝します。
首都圏のハイキングコースで草原状の稜線を長くずっと歩けるような所はここしかないかも知れませんね。(J記)
March 15, 2006 タカマタギ山の山スキー教室で鬼が笑う
ぼくの山の先輩に小泉共継という人がいます。現在、年齢は60歳を少し越えたくらいのはずです。
「エッ、アッ!」もちろん今も元気で山に登っておられます。小泉先輩には山関係の著書や登山情報誌への寄稿が多くあり『東京周辺の沢(白水社)』の旧版や『奥利根の山と谷』などが有名です。
大先輩すぎていっしょに山に行く機会はなかったのですが、所属する山岳会の集会で取り巻き連中の中に混じって小泉先輩の独特の語りを聞いたことがあります(トシヨリは何回も同じことを言いいます)。
曰く:「日本の山は、夏は沢登りで冬は山スキーだよ!」・・・私としては、夏の沢登りには同感しますが、冬を山スキーだけにしてしまうのはもったいないと思います。山の様々なジャンルには冬が旬の物が多いからです。・・・
『小泉共継の山スキー教室』というのが1984年の1月号と2月号の山と渓谷の登山教室インフォメーション欄に掲載されました。,私もいくつか山スキー教室を行った経験があります。『上信・湯の丸山』『上越・高津倉山』『上信・四阿山』『上越・苗場神楽峰』『会津・駒ヶ岳』『岩手・松川温泉周辺』『秋田・乳頭温泉周辺』…などです。山スキーの教室というのはその運営が大変難しいのです。スキーで1分滑れば“遙か彼方”の先に行ってしまいます。一般募集の山スキー教室であれば参加メンバーの技術に差があるのは当然、それは、滑り降りる時に参加メンバー間の物理的な距離を広げます。そのことは精神的な距離をも広げてしまいます(上手な人は長い待ちがかかりイライラし、下手な人は長く待たせては迷惑と思い悲しみがつのります)。たぶんそんな理由からでしょう、翌年(1985年)以後、小泉先輩の山スキー教室の案内が山と渓谷誌上に載ることはありませんでした。そして、私の頭の中にはなぜか、小泉先輩が教室の山として選んだ『上信の高峯山』と『土樽のタカマタギ山』の名前がカラカラと回るように残ったのでした。
『上信の高峯山』はベースに高峯温泉(標高2000m)を使って高峯山にピストンするというプランだったと推察出来ます。残念なことに、今、そのコースは、高峯山の頂上直下のわずかな部分を除いてスキー場になってしまいました。
もう一つの『土樽のタカマタギ山』の方はどうかというと、これも、新幹線の越後湯沢駅が起点のスキーリゾート地として開発される予定でした。ところが、手前の松川集落まで来た所で開発の手が止まるという奇跡が起きたのです。スキー場に閑古鳥が鳴く昨今の現状だけでなく、関越自動車道路に近すぎて頻繁に通る車の走行音がうるさすぎるという逆手の理由もあったようです。ともあれ、今も、東京から一番近い雪深の地(新潟関越道を3時間、新幹線なら1時間)にある大斜面(中規模のスキー場が出来るほど)が手つかずで残っているのです。
以下、私のタカマタギ山行です。上越特有の重たいドカ雪に阻まれて、登頂まで足かけ九年かかりました。
1996年2月末、南東稜(山スキー)/足首までのラッセル、東南東稜とのジャンクションまでで撤退。
1998年1月末、南東稜(山スキー)/膝上までのラッセル、南東稜に取り付き、尾根に上がった所で撤退
2000年3月中、東南東稜(山岳スノーシュー)/膝上までのラッセル、東南東稜と北東稜のジャンクションピークまで行き、体調不良のメンバーが出て撤退
2005年3月中、東南東稜(山岳スノーシュー)/膝上までのラッセル、東南東稜と北東稜のジャンクションピークまで行き、ジャンクションから先は堅雪の急斜面になっていて、アイゼンがなくて撤退
2006年3月12日、北東稜(山岳スノーシュー)/ラッセルなし、条件が良くて他に4パーティもいた。東南東稜の取り付き手前の尾根から北東稜をとらえ、タカマタギ山頂に到達、帰路は他パーティのトレースをツボ足でたどり、北東陵の末端まで下る。
来年のことを言うと鬼が笑いますが、タカマタギ山での山スキー&スノーボード教室の案を作ってみました。請うご期待!(文:松浦)
期 日 2007年3月10日(土)~11日(日)
*11日のみの参加も可能です。
日 程 10日…タカナミヒュッテ(古い友人の経営する民宿)泊で
ゲレンデ練習
11日…今年タカマタギを登頂した時のコースを使って北東
稜に乗る。北東陵の小ピークを折り返し点にして、
そこから各自のペースで下山
*かってに滑べり降りて可
*南東稜と北東稜の間を下るから迷わない
*早く降りた人はワカンの研究をしながら待つ
名 称 深雪の山を楽しむ会
*スキー&シール隊とスノーシュー&スノボー隊の二つ
があってどちらか選択する。
用 具 スノートレッキングセット
*山スキーとシールとスノーシューはTimtamの無料レン
タルを利用
*靴とストックとスノボーはタカナミヒュッテの有料レンタル
を利用
March 13, 2006 六本爪軽アイゼンの可能性
ぼくの職場にイトサンと呼ばれる人がいて。マラソンとスキーを趣味にしています。
「富士山の山頂からスキーで滑るのが夢なんです。」と話されて、つい口が滑って、
「富士山なら、行ってもいいですよ!」とぼくは言ってしまいました。イトサンが小躍りして喜んでいるので、その話しを進めるしかありませんでした。
, イトサンはスキーウェアは持っていたけど、山の道具は持っていなかったので、一緒に水道橋の「さかいや」という登山用品店に出かけました。イトサン用の登山靴とアイゼンを買うのが目的でした。イトサンは冬山用の登山靴を見てビックリ
「五万円以上しますね!」それでもって十二本爪アイゼンを見てまたまたビックリ
「にに・・二万円もしますね!ハンパジャナッスヨ!」なんて小さな声で言っておりました。イトサンは、靴売り場に並んだ、裏出皮の登山靴(一万五千円、軽登山靴みたいなんだけどそう見えない)を発見して購入を決定、アイゼン売り場で六本爪の軽アイゼンを発見して
「これだ、これだ!」とか口走りながら購入を決定しました。
『六本爪で大丈夫かな?でも富士山しか行かないのだから仕方ないよな!イザとなったらロープで確保すればいいや!』と思って、ぼくは「いいのがありましたね!」と言って、イトサンの買い物をねぎらいました。
1999年の4月29日、ぼくとイトサンの富士山スキー行当日がやって来ました。比較的緩やかな静岡県側、富士宮口から登って、富士山の最高頂点まで行きそこからスキーで滑り降りるという計画でした。イトサンは七合目から高山病の症状が出て、休憩の度に半分寝たみたい(イビキまでかいていました)になりながらも富士山の最高点(レーダードームの先)まで登りました。六本爪アイゼンでの登りは安定していて不安はまったく感じませんでした。山頂直下の測候所からオカマままでは斜面の幅が数メートルしかないのでスキーを履くことが出来ませんでしたが、オカマの淵から五合目までは(雪の無い所を所々歩いたものの)概ね快適に標高差千五百メートルを滑り降ることが出来ました。
以来、六本爪軽アイゼンの可能性は高いとの予感を持っていました。でも、十二本と十一本と八本の三つもアイゼンを持っているぼくなので、わざわざそれを買うことはありませんでした。
先週の3月4日、朝発で黒百合ヒュッテに宿泊して、翌5日に天狗岳を越え、西天狗を回って天狗岳西尾根を下るという山行(メンバー9名)に加わりました。六本爪軽アイゼンで参加したメンバーが一人(Yさん)いたので、興味を持ってその歩きを見ていました。初日の黒百合ヒュッテまでの歩きは、なだらかな登りで、道は時々凍ってはいましたが、アイゼンを装着することはありませんでした。時間があったので、ヒュッテの前の20~30度ある斜面でアイゼンワークのトレーニングをしました。六本爪アイゼンの性能が必然的に試されました。さすがに30度の堅雪の斜面になると雪面をグリップ出来ずにズルズルと滑っていましたが、やや雪が柔らかくて踏み込めば階段状にステップが切れてしまうような所では安定していました。二日目、朝6時30分に黒百合ヒュッテを出発、中山峠で右折して東天狗岳直下の急斜面の登りにかかりました。そこは30度ほどある雪の斜面ですが、先行者のステップがあるので楽勝でした。西天狗を越えてから百メートルほど続くノントレースの急斜面の下りも安定して下っていました。樹林帯に入ってアイゼンをはずし、唐沢鉱泉に下山(午後1時30分到着)しました。
六本爪アイゼンでオーケーと言いたいのではありません。六本爪アイゼンは森林限界を越えない山で使うための道具です。それで、天狗岳は森林限界を超えた所にピークがあります。強い風が吹いたりホワイトアウトしたりカリカリにクラストしたりすることがあるでしょう。条件が悪かったらすぐに撤退するべきです。(J記)
March 07, 2006 登山用品店でミエハル君になろう。
山の道具を買うときは考えられる一番良い物(合理的で妥当な物)を買うようにしています。もちろん、いきなり買うようなことはしません山で何人かが使っているのを見て、『科学的に考えてなるほどと納得してから、買います』。
山の道具は値段が高い物が多いので、地道に節約してお金を貯めます。購入予定価格より2~3割増しまで、お金を貯めてから買いに行きます。ふところのゆとりが山道具選択のための科学的判断力を向上させるみたいです。
登山用品店に行ったら店員さんに相談することなく目的の物をピンポイントでカート(カゴ)に入れてレジに直行します。登山靴だけは、いくつか履き比べる必要があるので2~3種類を指定出来るように準備します。
登山用品店に行ってあれこれ物色する場合もあります。ホントはただ見るだけで帰れるようになりたいのですが、気が弱いのでそれが出来ていません。それでそういう時は、ガスボンベとかアルファ米とかメタとか選ぶ必要がなくて確実に使う物を買って帰ります。そういう物をカゴをに入れて店内を歩いている人を店員さんは初心者とは思わないみたいなので気楽です。
『初心者と思われたくないとかなり本気で見栄を張っています。』初心者と思われない秘訣は登山用品店に行って店の人に何も質問しないことです。何か質問したり、初心者であると伝えたりすると、この時とばかりにこれまで商品について一生懸命に勉強し、説明のトレーニングを積んできた成果を発揮すべくがんばってくれます。彼等は真心をこめて対応してくれて、それでもって売れ筋のいい感じの商品を勧めてくれます。そしたらよほど気が強くないかぎり、それを買って帰ることになっちゃいます。もちろん、その『勧め』はほとんどの場合は適切で的確です。でも、高い授業料を払うことになってしまうことがないわけではありません。たぶん、そういう思いをするのは一回では済まないでしょう。
「何かお探しでしょうか?」などと声をかけられちゃって、
「いえただ見てるだけですからお構いなく!」とは言えなくて、
「○○なんですけど!」と応じちゃったような場合は
『自分のやりたいことをきちんと伝える』必要があります。例えば、
①アルパイン系の岩登りをやりたいと伝えないとキツキツのクライミングシューズを勧められます。
②ワンタッチアイゼンとそれが着く冬用の登山靴を使うような山が目標でひそかに燃えているとか伝えないと、セミワンタッチアイゼンとやや柔らかめの登山靴を勧められます。
③ゴアテックスの雨具の廉価版で充分だと伝えないと、カラフルでオシャレな感じの高いやつを勧められます。
④「寒いかしらなんて」言ったらシンサレート入りのアウターを勧められます。
⑤前開きスパッツでなきゃダメと伝えないと、横開きや後ろ開きスパッツの方が軽いし値段が安いよと勧められます。
⑥ザックだけでいいと言わないと、ザックカバーも一緒に勧められます。ザックカバーはブッシュに引っかかるとはずれますし、沢の水につかったら中はびしょ濡れです。ハイグレードハイキングや沢登りを目指す(我ら)若者登山隊のTPOには合いません
⑦勧められないけど、長さの調節出来るストックが多量に売ってるのを見て、
「ストックはいるんですか?」なんて聞けばネジ式三段調節タイプを勧められます。ネジ式ストックはネジがトンと打つように体重をかけた時に緩む可能性があって危険です。ネジ式でない物“ボッチで止める式”にするかピッケルにすべきです。ダイイチ、無雪期の山だったらストックはいらないのです。静加重静移動で登り、側筋を使って下る技術を身につけてストックなしでかっこよく山を歩けるようになりましょう。ストックは我ら若者登山隊のTPOには合いません)。
⑦短いピッケルがほしいと伝えないと、必要以上に長いのを勧められます。(身長170センチのぼくで、50~55センチの長さの短いピッケルが使いやすいです。)
無難なのはTimtamのホームページの『山道具のこと』を読んでから買い物に行くことです。それでもはっきりしなかったらTimtamに問い合わせのメールを送りましょう。
<追伸>
ザックを選ぶのに困っています。サイドポケットがつけられるベルトが左右に二本ずつとピッケルがくくりつけられるホルダーが正面に二つあればそれで充分なのに、余計なポケットとかストラップと網とかがいっぱいついているんです。45リットル程度以下の小さなザックにウェストベルトなんていらないのに幅広で、厚いウレタン入りのそれが縫いつけてあります。ウエストベルトはハサミで切り落とせばいいのですが、本体とウェストベルトが一体化したデザインになっているのでバランスを崩してしまいそうで切れません。55リットル以上の大きさになると、さらにウェストベルトが太くなり、どれもこれも背中の大きさの調整機能がついています。その調整機能のネジとかベルトとかけっこう重いし、せっかく調整してもズレたりしてやっかいです。背中の大きさなど一度あわせればいいわけで、その後ずっと使うことのない機能を背負い続けなければならないのはつらいものがあります。二気室とかいうのもいりません。パッキングのじゃまになることの方が多いです。取り出す順番とか、上下左右の重さのバランスも考えてパッキングするわけですから二気室どころか横や下から荷物を取り出すためのサイドジッパーとかフロントジッパーもいりません。よけいな物をつけて3キロもの重さにザックがなっていることを嘆きます。より軽く、そしてシンプルイズベストの考え方をつらぬいたザックがほしいです。でも、そういうザックは現在みつけられないのです。(J記)
February 23, 2006 山靴の詩
1968年4月6日僕は東京理科大学ワンダーフォーゲル部に入部しました。その話しは“今日のtimtam”の2月9日の記事「氷壁登山ブーム」の中に書きました。今回はその入学式の翌日の飯田橋界隈が舞台です。
入学式の翌日、放課後になって、僕はさっそくワンダーフォーゲル部の部室を訪ねました。二号館と三号館という建物の間にあるプレハブの二階にそれはありました。プレハブの一階は体育会本部と自動車部の部室になっていました。
『ボッ、ボクは体育会なんだ???』とふしぎな感情がみなぎりました。ちなみに、現在の僕は体育会系の範疇にはないと思っています。
「こんちはース!」と体育会系の口調で挨拶して部室に入って行きました。部室の真ん中に長い木のテーブル(教室にある学生用の三人掛の机)それを夾んで長い木の椅子(同椅子)が二つおいてあって、入り口正面の棚の上にはビニロンの黄色いテントがいっぱい、その下に何が入ってるか見えないスチール製の幅90センチ高さ180センチのロッカー、右上の棚に大きな鍋が十個ぐらい乗っていて、左に窓が二つあって窓と窓の間に本箱らしき棚があって山の本とか雑誌とか書類のファイルが雑然と立てかけてありました。真っ黒く日焼けした先輩の男が3人、シケモクをふかしながら座っていてギロリとこちらをにらみました。
『先生ってのは大学のクラブにはいないんだ、コワイトコカモ?』なんてビビッテいたら。先輩の方から声がかかってきました。
「もう靴を作りに行ったか?」何のことだかわからなくてそれでも僕は
「???・・・アッイエハイ」とか答えました。
「ジャア!オレが行ってやっか?」としゃれたブレザーを着てスラリとした二枚目タイプの先輩が言いました。
「ホエ!」と僕。
ブレザー先輩と僕は部室を出て、外階段を下りて、三号館のモータープールを抜け、花屋のわきの道から神楽坂通りに出て、神楽坂を下る方向に向かい、外堀通りを渡り、飯田橋駅の西口を過ぎて、左に曲がり駅の北側ぞいの細い道を水道橋方面に向かい、飯田橋駅の東口を左に見て信号を渡り、さらに続く細い道を行くこと三分の右手にある小さな山靴屋さんに行き着きました。店の名前は『二葉』といいました。
おとなしい感じのじいさんとその奥さんが、店番をしていました。
「こいつに靴を作ってやって」とブレザー先輩がいいました。
じいさんはなんかモゴモゴと言いながら足台を出してきて、A3大の紙をその上に敷き、僕の足にそって鉛筆でなぞって紙の表と裏に左右の足の形を写しとりました。それから、布製のメジャーで足甲の周りとか足首の周りとかの長さを計り、A3の紙の実物と対応する場所に線を引いてに記入したり、何やらメモしたりして、三分くらいで採寸を終了しました。それはそれは手慣れた動作でした。
「どの靴?」と小さく言う、じいさん、の右目の目線の方向に棚があって靴の見本が並んでいました。靴の種類は一般型、新型D環つき、スキー兼用靴、クレッターシューズ、チロリアンシューズしかありませんでした。ローカットのチロリアンシューズを除けば、どれもほぼ同じ形で色も黒一色でした。
「新型D環つき!」とぼくは答えました。『新型』だからいいんじゃないかと思ったからです。じいさんはなめし皮を何枚か持ってきて、
「フが○○皮、フが××皮!」とか見せて来ました。『ドイツのリカー皮』と言ったのだけは名前の記憶があります。
「一番安いので頼む」ブレザー先輩が言いました。
「一ヶ月たったら、六千円持っておいで、お金と引き替えだよ!」じいさんの奥さんが言いました。お金のことは彼女が担当していたようでした。
一ヶ月後に僕は『二葉』の登山靴のオーナーになりました。秩父の新人強化合宿、北海道日高の夏合宿、秋の奥多摩の個人山行、冬のスキー合宿(スキー靴を買えないで登山靴でスキーを履いていた一年部員が多かった)、OB会の山小屋でのスキー個人山行、東北孫六温泉周辺スキーツアー合宿・・・一年間で八十日もの山行に使いました。二年部員になって山行日数は百日を越え、三年の時も百日ぐらいは使いました。ビブラム底は三回張り替え、本底も一回変えました。
四年部員になった時、その靴が大分に傷んだので、僕は二足目の靴を『二葉』で作りました。二足目はスキー兼用靴タイプ(兼用といってもカンダハーというワイヤービンディングとマッチングがいいというだけで実態は普通の登山靴)に新型D環をつけた形にしてもらいました。その登山靴は三十六歳まで使いました。使う頻度が少なくて、靴への思い入れも薄らいで、手入れもまったくせずでした。それで、靴はガチガチのガビガビになってしまいました。ある時、ゴキブリが何匹か靴から出て来るのを見て、怯えた僕は勢い余って靴を捨ててしまいました(大切にしなかった事を今はシビアに反省しています)。
二足目の『二葉』の靴を捨てた頃、多くの登山者達が“どんな山でも皮の重登山靴で行く”ことをしなくなっていました。冬山はプラスチックブーツ(現在はプラスチックブーツは売ってなくてソフトブーツの時代になってます)、夏山は軽登山靴、沢は運動靴と沢登りシューズ、岩はアプローチシューズとクライミングシューズというふうに使い分けるのです。豊かになって、用途に合わせて、たくさん靴を揃えられるようになったせいもあれば、『日本の夏山にヒマラヤ登山にさえ使えるような靴で行くのはTPOが違うんじゃないかなー?』という考えが浸透してきていたせいもあります。
ちなみに『二葉』のお店が無くなったのはぼくがちょうど三十歳になった春でした。現在、飯田橋の東口近くにあった『二葉』の建物(一階はお店、二階は仕事場)は、建て替えられてコンクリートのビルになり、一階は洋食レストランで二階より上は事務所になっています。
ニッカホースに短い毛糸靴下を重ねて皮の重登山靴を履き、グレー色ウールのニッカと大きなチェック模様のウールのカッターシャツを着た、もと二十代(今六十代)の登山者に出会うことが、今でも、かなりの頻度であります。そん人に出会うと、おとなしいじいさん靴職人とその奥さんと『二葉』の靴を思い出すのです。
最近、友人からほとんど未使用の『二葉』の靴をもらうことが出来ました。青山図書室の書棚の一角に展示してあります。(文:松浦)
February 21, 2006 軽登山靴を買って山に行こう
『山と渓谷2月号』は駅弁特集でした。2月に行く雪山の特集でなくて、駅弁???。本誌の厚さも1月号の四分の三くらい、スノーシューイングブックみたいな付録もありませんでした。
1月15日の『山と渓谷』の発売日に一人の若者(以下、図書館さん)が住んでる街の行きつけの図書館に行きました。図書館に入ってすぐの所に新刊雑誌の閲覧コーナーがありまして、
『どんなのあるかな?』とチェックを入れたら、『駅弁』の文字が目に飛び込んで来ました。図書館さんは『青春十八切符を使っての“駅弁食べ歩き旅”』が好きだったので、何気なくその雑誌を手に取りました。
『登山と駅弁の組み合わせ・・・フーッ』そんなぐらいで、雑誌コーナーにそれは戻される流れだったんですが、たまたまその時は、他の雑誌を他の人達が閲覧中で、ちょっと待って状態でした。それで、仕方なしに、図書館さんはパラパラパラとページを繰って最後の方まで斜め読みを続けていました。
『ヘー、教えてくれる所があるんだ』
『超初心者対象?』
『超!・・・ここに行ってみようかしら!』
『入場無料、予約不要・・・めんどくさくないわ!』
図書館さんは
『恵比寿区民会館、25日、7時30分』を記憶して、それを雑誌コーナーに戻しました。
1月25日はちょっぴり暖かいけど曇りの日でした。図書館さんは仕事を終えて渋谷駅から山の手線の内回りに乗りました。家に帰るのは外回りです。なんか気が向いたんです。恵比寿で降りて、駅前交番に行って、区民会館の場所を聞きました。若いお巡りさんが、奥の先輩のお巡りさんに聞いてくれて、それで、外に出て、横断歩道の前まで連れて行ってくれて、道を教えてくれました。
「まっすぐ行って信号あるけど、それも真っ直ぐ行くと左側、五分かかんないですよ!」
図書館さんは
『場所がわかんなかったら恵比寿の街をブラブラだったけど、親切に教えられちゃったから、一応、恵比寿区民会館に行くかな!』と思ったのでした。
区民会館の二階にある三十人ほどが座れる会場に十人弱の人がポツポツと座っていました。前の方にキサクそうなおじさんがいて、『深雪の山の話し』をフグタマスオさん(役の声優さん)みたいなイントネーションで話していました。図書館さんはスノーシューとかシールとかワカンとかの実物をめずらしそうに手に取ったりして、けっこう面白がって聞いていました。会場に同じ年頃の女性が二人いたのでなんとなく安心したのもありました。
なぜか、
「一番最初に何をそろえればいいのですか?」と質問してしまいました。
「靴とザックと雨具だけど、なんてったて靴が最初!」とおじさんは答えました。それでもって、会場にいた図書館さんより少し年上の女性(もしかして年下かも知れません、ダウンみたい上着を着てたので以下、ダウンさん)に
「君の靴いくらだった?、この人と一緒に靴を買いにあげてくんない?」と話しかけました。
それでもって、
「この人は9月から山を始めた人、それまでハイキングもしたことなかったんだって!」と紹介しました。
ダウンさんも『「コンロとコッヘルを買いに行きたい!』ということなので、とんとん拍子で二人の山道具屋さん靴買いツアーの話しがまとまりました。
「靴売り場に行ったら、“雪が降った時に東京近郊の山に行ける程度の靴がほしい”と言うんだよ!」、おじさんは二人にキーワードを伝授しました。
はたして、次の週の木曜日、図書館さんとダウンさんは新大久保の登山用 品店に行って店員さんに丁寧に靴を選んでもらったそうです。それで、図書館さんはダウンさんとおそろいで色違いの靴を買ったんだそうです。ダウンさんはコッヘルにはいいのがなくてコンロとカラビナを買ったんだそうです。(J記)
February 09, 2006 氷壁と登山ブーム
ぼくの父は六年間、兵隊にとられ中国を転戦していました。終戦となり、運よくすぐ(1945年8月)に日本に帰って来ました。新潟県村上市の実家に戻り、何もしない日々を数日続けるうちに、戦前に働いていた東京の会社から業務を再開するので出社するように呼び出しがかかりました。勇躍東京に出て、仕事も軌道に乗り出したところで、『見合い』の話しが来ました。相手の女性がキツネ神社の『占いさん』に聞きにいって、
『東京の人のトコ嫁に行け』と気が出て???、父と母の結婚が決まりました。1949年、父、三十四歳の春でした。翌、1950年の春にぼく(長男)が生れました。
1945年の太平洋戦争の終戦から1950年の朝鮮戦争勃発の頃までは戦後の結婚ラッシュ、その時生まれた“ぼくら”はその数において他の世代を圧倒し、団塊の世代と呼ばれています。
戦争が終わって、山の世界も活況を呈していました。1950年にフランス隊がアンナプルナ(標高八千メートルと少し)の登頂を成功させました。それに刺激されて、エベレスト、ナンガバルバット、・・・、と十三しかないヒマラヤ八千メートルが次々と登られていました。そして、1955年に日本隊がマナスル(八千メートル峰)の登頂を成功させたのでした。そのニュースは、戦争に負けてプライドを失っていた日本人達に大きな希望を与えたようです。戦後日本の奇跡的な復興のさきがけとなった出来事と言われています。そして日本に登山ブームが起きた原因とも言われています。
朝日新聞に『氷壁』が連載され、それが映画化されたのは1959年のことでした。当時小学校の3年生だったぼくは、母が結核という病気にかかってしまったため、父の実家(前記の新潟県村上市)にあずけられていました。なぜか、そのあずけられた父の実家の家族みんなで『映画・氷壁』を見に行きました。
『映画・氷壁』のストーリーについては何の記憶も残っていませんが、岩にハーケンを打ち込んでロープをかける所、小坂さんが落ちて、魚津さんが切れたザイルを見る所、雪面にピッケルを刺しながらゾンデ捜索をする所、大きな焚き火で遺体を焼く所、などのシーンは小さい子供だったぼくを衝撃と恐怖におののかせ、四十五年経った今でも、くっきりした映像の記憶となって思い出されるのです。
1959年の頃には結核の特効薬のストレプトマイシンが発見されていましたから、それを五十本ほど注射して、母の病気は治りました(ちょっと耳が遠くなる副作用あり)。それで、ぼくの田舎暮らしは一年で終わりました。
『氷壁』がどんな話しかがわかったのは、私が三十五歳の時で、先輩のIwa氏にこれぐらいは読んでおいたらと文庫版の本を貸してもらったからです。
話しが現在に転じます。リメーク版の氷壁が土曜日の午後十時から放送中(NHK)です。 先々週の水曜日に恵比寿区民会館に言ったらの受付のおばさんに
「『氷壁』を見ましたか?」と聞かれて。
「いいえ」と答えました。
「三つ峠でロケしたらしいですよ」と言われて、
「そうらしいですね、雪山のシーンはニュージーランドだって聞いてます」なんて聞いたふうな答えを言ってしまいました。三週前にハイキングに言った時に同行のY君が
「前穂でなくて、K2が舞台になったとか、三つ峠とかマウントクックでロケをした」、とか言っていたからです。先週の土曜に日光のスノーシュー登山に行って、湯本の民宿に宿泊しました。宿の隣の部屋からNHKのリメーク版『氷壁』の放送音が聞こえていました。その部屋には六十代くらいの女性が三名宿泊しておられました(廊下ですれ違ったので、それと推察)。ぼくの方のメンバーは、テレビを見ないで宴会して、早めに寝ちゃいました。
話しをもどして、1968年、ぼくは大学生になりました。入学式の日は沿道をサークルの勧誘ブースが埋めていました。
「新強と夏合宿だけつらいけど、冬はスキーをやって楽しいわよ!」、日焼けした痩身の先輩女性から声がかかりました。
『体育会だけど、あんなに細い女の人が続けられてる・・・、スキーがただで教われる・・・、中学や高校での経験がいらない・・・、山岳部じゃないから遭難はない・・・、いいかも・・・』、と思ったぼくは、その場でその部活つまりワンダーフォーゲル部の入部届けにサインをしていました。その週末には白毛門山で新人歓迎山行がありました。新入部員は男子三十二名、女子七名、ちなみに女子の名前は覚えています。室谷さん、永伊さん、宇多田さん、伊野さん、新田さん、小舵さん、尾山さん。男子の名前は多すぎて数名しか思い出せません。
次の年の1969年ワンダーフォーゲル部の新入生は十人を切りました。またその次の年1970年はなんと四人、焦って勧誘をがんばり1971年に十五名入ったけれど、残ったのは六人でした。以後、現在に至るまで、二人とか一人とかゼロ人とかの状況が続いています。登山ブームは1970年ごろに終了していたのです。
登山ブームを担った団塊の世代とその少し上(10年くらい上まで)の世代が社会の中堅を担うころ、そのほとんどは山を忘れて懸命に働き、結婚し、子供を育てました。
団塊の世代とその少し上の世代が余暇を楽しむタソガレ流星群の歳(1990年ごろから)になった頃、彼らは再び山を目指しました。若い頃にやりたくても出来なかったことを取り返そうとしたのでしょうか、それとも長い時を隔てても再開したくなる魅力が山にはあるのでしょうか?・・・。ともあれ、彼等の山へのエネルギーはすさまじく、第二次の登山ブームと言われるほどになったのです(担い手が中高年だったので『中高年の登山ブーム』と呼ぶ人も多い)。
もうすぐ、その中高年登山ブームは終わることでしょう。彼らが漸次、歳を重ねるからです。そして、新たな世代(二十代、三十代、四十代)に登山のバトンは受け継がれることでしょう。その世代には小学校や中学校の林間学校ぐらいしか山に行くという情報がインプットされることはありませんでした。ちなみに、最近は、林間学校はスキー教室とか農業体験教室とかに代わって行く方向にあります。
バトンタッチに団塊の世代の若い方(1949年、1950年生まれ)の世代(つまりぼくらの世代)の役割で、その方法には発想の転換が必要な気がします。
新しい世代に『氷壁』に出て来るような冬の前穂の未踏のルートや『リメイク版 氷壁』に出て来るようなK2の冬季初登を狙うというような冒険登山を目指すことを勧めない方が良いと思います。現在、未踏のルートはあんまりなくて、あるとすれば極端に難しい(難しすぎて登れないから未踏)のです。
新しい世代には“四季おりおりの生活の延長線上にある山、日常生活を豊かにする山”を勧めるのがいいと思います。(文:松浦)
February 01, 2006 山岳スノーシューTSL225はスグレモノ
1998年2月、Timtamの前進の山塾サポートの主催で乳頭山や秋田駒ヶ岳を目指した講習会が孫六温泉をベースに行われることになりました。講師はワカン隊が私(=松浦)で山スキー隊がK氏でした。
講習会実施の二週間ほど前に、山の仲間のW氏(現Timtamの講師)から連絡がありました。
「友人に原田さんという人がいて日本スノーシュー連盟の代表をしていて、スノーシューの山での可能性をチェックしてほしいと思ってる。10台ほど孫六温泉気付で送るから使ってみてほしい。そして、めんどうでもレポートといっしょに送り返してほしい。」とのことでした。スノーシューに新たな可能性のありそうな予感がしたのでしょうか、私はその要請を快く受けていました。それで、参加メンバーに事情を説明し、お願いしてワカン隊をスノーシュー実験隊に変更させてもらいました。
1月~2月あたりの東北の脊梁山脈の森の中にはフカフカの深雪が何メートルも積もっています。ワカンを持って行っても、それは浮力が小さいので、腰までもぐる厳しいラッセルを強いられます。山スキーでさえ膝より上くらいまでもぐる所なのです。そういう所での山スキーは登り(シール使用)も下りも中~上級者向きです。初心者の方は登りのキックターンごとに、滑降でスピードがちょっと出るごとに転んでしまって長駆進めません。初心者の方が孫六温泉から乳頭山のコースに山スキーで行くなら雪がしまる3月の半ばまで待った方が無難です。秋田駒は例外で圧雪されたスキー場から往復すれば1月~2月でも深い雪の場所を通過せずにすみます。ただし、激しい風雪には充分な注意が必要です。
孫六温泉に送られて来たスノーシューはジュラルミンのパイプで作った大きな足型のような形をしたワッカにデッキと呼ばれるプラスチックの皮を張ってありました。中央より少し前にビンディングがあり、靴の先を差し込んで太いゴムを靴の踵に引っかけて止めます(昔のスキーの“ワイアーを踵にかけてつま先より前にある金具で引っ張って止める”タイプのビンディングの“ワイアーと金具”が“太いゴム”になってる感じ)。ビンデイングには足の親指の付け根くらいの位置に蝶番構造がほどこしてあって踵が上がります(ヒールフリー)。踵が上がるとつま先が下がります。そのつま先部分に十二本爪アイゼンの出刃のような爪がついていて、その爪で雪を蹴って前に進めるのです。北米大陸のエスキモーの人達の間で使われたものが原型になったようなので以後このタイプをエスキモースノーシューと記します。
エスキモースノーシューの浮力はそれはそれは大した物でした。山スキーとほぼ同じくらいしか雪にもぐりませんでした。スキーと違って歩くのに技術がいらないので上手な人とそうでない人が遠く離れてしまうこともありませんでした。ブッシュや樹木に行く手を阻まれても小さく曲がってそれをクリアー出来ました。
しかし、エスキモースノーシューには欠点がありました。
①急斜面の登りでワカンのようにキックステップよろしく斜面を蹴込んで水平に足を置くことが出来ません。ヒールフリーのために靴を水平にしてもスノーシューは斜面と平行になってしまうのです。だからワカンのように斜面を直登することが出来ず、山スキーのように斜登高して方向転換(ヒールフリーの山スキーよりは長さがない分方だけ向転換は簡単)することをくりかえしながら登ることになります。
②ワカンと違い、爪がサイドになくて、中央にあります。ちょっと雪面が堅くなるとトラバースする時にスノーシューを水平に置けません。サイドエッジがないスキーが斜滑降が出来ないのと同じです。
③下りは、踵の部分が大きく長いので、踵から足を踏み降ろすことは出来ても踏み込みの力が集中しません(踏み込みの圧力が小さい)。時々出てくる急斜面のややしまった雪では踵の部分のパイプが滑ってうまく立てません。そんな斜面では、トラバース&方向転換でないと下れないのですが、前述のようにトラバースはままならないのです。
④ゴムを引っ張って止める構造のビンデイングなのでゴムを取り替えないと小さい靴から大きい靴までフルアジャストさせられません。スノーシュー連盟からの荷の中に取り替え用のゴムが入っていなくて、靴とスノーシューを合わせるのは大変でした。また、山の中では、激しい使い方をするので、少し劣化したゴムなら切れる可能性が大です。山の中で、切れたゴムの取り替えは用意ではありません。ゴムが劣化して弾力が落ちればスノーシューが脱げ(はずれ)やすくなることも予想されます。
⑤秋田駒から笹森山経由で孫六温泉に下る環状のロングルートでの試用実験で、ゴムは切れません(十台全て切れず)でしたが、底に取り付けてある爪(スパイク)が剥がれてしまうものが二台ありました。森林限界を超え、クラストし、所々に岩が出ている稜線を歩いためです。
もともと、エスキモースノーシューは、山登り(麓から頂上までいろんな条件が出てくる)に使うようには設計されていないのです。
「エスキモースノーシューは雪の積もった林道や、雪原を歩くための道具です。だから、なだらかな山(スキー場の初心者用の緩斜面程度の斜度を登り下りする)でしか使えない。」というのが結論でした。
日本スノーシュー連盟が出来たころ、日本山岳ガイド連盟でもスノーシューに注目した人がいました。赤沼氏(燕山荘のオーナー)がその人です。山岳ガイド連盟(現山岳ガイド協会)のスノーシュー部門のリーダーとして活動を開始していました。
孫六から帰り、レポートも送って一段落、山で使えないエスキモースノーシューなんて眼中になく、1年弱が経過した1998年12月、「日本スノーシュー連盟と山岳ガイド連盟の活動がバッティングすることがあって、利権争いなんてことが起きたらこまるから、松浦さんその橋渡しをしてくれませんか?」と日本スノーシュー連盟の技術委員をしている橋本さん(もと都岳連の遭対委員長)から要請がありました。
それで、勇気を出して燕山荘に電話して赤沼さんと話しました。
「お互いに自由にやりましょう」という話しになってホットして。エスキモースノーシューの孫六温泉周辺の山での使用実験の話しをしました。赤沼さん曰く
「山で使うならTSLの225というスノーシューがいいですよ!」半分信じてなくて、孫六温泉の講習会のもう一人のリーダーだったK氏にその話をしました。興味はあったけれど山スキー隊だったためにスノーシューの使用実験に参加出来なかった分、K氏にエネルギーがありました。彼は数日のうちにTSL225を自分で購入して、それでもって日光の三本松あたりでそれを試す計画を持ちかけてきました。1999年の2月11日のことでした。
TSL225の性能は抜群でした。我々はそれを山岳スノーシューと呼ぶことにしました。それを使えば今まで山スキーでしか行けなかったフカフカの雪の山に行けて、山スキーでも行けなかったフカフカ雪でブッシュや灌木の多い山にも行けるようになると確信しました。
TSLのスノーシューはスノーラケットが原型のようです。踵の所にラケットの杖のような出っ張りがあり、雪と接地するところに小さな垂直尾翼がついています。パイプで出来ていなくてプラスチックで出来ているので、道具としては安っぽい感じ、エスキモースノーシューのようにインテリアデザインの一部に組み込めるほどの味がありません。そのTSLのスノーシューの中にあって、山岳用に設計されたのが225です。
TSL225の最大の特徴はワンタッチでヒールをフリーからフィックスの状態(踵が固定された状態)に出来るのです。ヒールがフィックスされるのでキックステップが可能になります。四十度もの急斜面の直登が可能です。スノーシューの踵が靴と一体になってついてくる分、階段のような所での取り回しが用意です。下りも踵キックステップのように足を踏み出すことが出来て快適です。登山用品として作ったことがわかるのはアタッチメントとして専用のアイゼン(スキーアイゼンをイメージして下さい)があります。ビンディングは全ての靴にフルアジャスト出来ます。雪山用重登山靴用のワンタッチビンディングのついたモデルもあります。
TSL225には欠点もあります。
①堅くしまった雪の急斜面でのトラバースが、サイドにスパイク(中央に8ヶついてる)がないのでやりづらいです。
②堅くしまった急斜面での下りが、踵の部分が大きくて、さらに、ラケットの張り出し部分と垂直尾翼が邪魔してやりずらいです。
*現在のデザインでは斜面の下を向かずに上を向いて正対して、スノーシューのつま先をキックステップ(直登高と同じ動作)しながら、トラバースしたり下ったしてその欠点を補うしかありません。
③ワカンに比べて大きく重いのです(エスキモースノーシューよりは軽い)。
④フカフカ雪の下りは爽快ですが、トレースを下るとなるとスキーで下るように滑れないし、ワカンで下るより疲れる(ワカンよりもスパイクが効いてしまう分ブレーキがかかって足に負担がかかる)ます。
*とまれ、欠点を補ってあまりある深雪の山での機動性を持っています。スキーと同じようにストック二本を持って軽快に歩きます。
「フツー!」という既存の概念にネックを感じます。
スノーシューは踵が上がるヒールフリーの構造になっているのがフツー!
平な雪原のような所をハイキングするのに使うのがフツー!
パイプで出来ていて皮(人口皮革)成のデッキがはってあるのがフツー!
女の人は料理や掃除が上手!
男の人は車を運転するのが上手!
学校の先生には春休みがある!
登山家だから寒さに強い!
なんていう既存の概念に似ています。そういう「フツー!」とかいう思いこみはまわりの人がかってに決めつけることではないと思うのですが、根強いです。
高峯温泉ホテルのレンタルスノーシューはTSL225でした。225の踵固定金具が全て取り除かれていたので、ホテルの人に聞いたら
「お客さんがヒールフリーで使うことしか考えないから、毎回のようにある踵が上がらないというクレームに根負けしたので、金具をとってしまった。」とのこと。
「スノーシューの技術とエリアガイド」という本が2004年秋に出版されました。説明に使われているのはエスキモースノーシューで、エリアガイドは日光戦場ヶ原、裏磐梯などのスノーシューハイキングコースとして整備された所のみでした。スノーシューのでの登りと下りの解説文の中に的を得たキックステップの説明はありませんでした。僕と同じように既存の概念でスノーシューを考えたら、エスキモースノーシューになります。山岳スノーシューTSL225はもしかして、その優れた機能を知られることもなく使われることもあまりなくて消えて行くのではないかと心配しています。(文:松浦)
フツーでない山岳スノーシューTSL225を手にしたら、そいつに耳を当ててみると、
「日本の深雪アンド新雪の山はオイラにまかせてよ!」そんなメッセージが聞こえて来る。
January 27, 2006 アイスクライミング、チョイカミの勧め
アイスクライミングのシーズンです。1月21日(土)の霧積温泉周辺に続いて2月4日(土)には笛吹川東沢で講習会が行われます。
冬の山に出かけて行けば、氷に出会うのはあたりまえ、でも一般コースで出会うような氷はピッケル一本と十二本爪アイゼンとアイスクライミングの技術があれば突破出来ます。それで、アイスクライミングの技術を年に一度くらいはトレーニングしておきたいと思っています。
Timtamのアイスクライミングをするゲレンデは、太平洋側の気候に属する内陸部にある山で、森の多い山で、その山の中腹あたりの谷の中、が多いです。そこは気温こそ低いですが激しい風雪にさらされない所です。青い空の下、ほぼ無風の場所でのアイスクライミングは楽しいです。ブルーアイスを見るだけだって素敵なのに、それを登ってしまうのですから「体験の素敵さ」はより倍増されることとなるでしょう。
アイスクライミングの出来るシーズンは限られているし、用具が高価で、しかもせっかく揃えた用具は二年もしないうちに改良され形が変わってしまいます。用具の改良を追って行くには、なみなみならぬ決意が必要です。そこで、自分で用具をそろえるのは止めにして、年に一度か二度、Timtamの講習会に参加して、用具は、チャッカリ、無料で貸りて、「チョイカミ」で楽しむのがいいと思います。
<僕のアイスクライミングの思い出をたどってみましょう。>
テレビのニュース番組で、日光の雲竜渓谷の氷った滝をアイスメスという道具を使って登っているシーンを見てアイスクライミングというのがあることを知りました。それは35年も前のことだったと思います。
アイスメスというのはカクテルを作る時に氷りを砕くピックみたいな感じのものです。それを左手に持ってガツガツガツとと氷りに突き刺してホールドを作るのです。その左手をたよりに右手に持ったピッケルを振って高い地点にピックを突き刺し、それに頼って登ります。右肘が曲がり切る高さまで登ったら右手をブロックして、左手のアイスメスでガツガツガツとやってホールドを作るという手順です。
アイスメスは効率の悪い道具だったようで、左手にもピッケル(又はアイスハンマー)を持つダブルアックスという技術にすぐにバトンは移りました。ダブルアックスを最初に考えたのはアメリカのシュイナードという人です。彼の書いた技術書にはピッケルのピックのカーブはピッケルを振った時の円弧と同じ形であるのが理想と記されていました。シュイナードはその後、シュイナードという登山用品会社を作り、それを大きく育てました。岩登り用の安全ベルト(ハーネス)も制作販売していました。そのハーネスのバックルの所でベルトを折り返さないで使った人が事故を起こして、裁判になりました。
曰く、「バックルの所でベルトを折り返せとマニュアルに書いてないので賠償責任はシュイナードにある。」
会社シュイナードは倒産しました。そしてブラックダイアモンド社として再起し現在に至っています。
シュイナードの言うようにピックのカーブを円弧と同じ形にすると、氷りに刺さる力は強くても、刺さってからピックの一番先端の一点にクライマーの体重が集中します。そこに圧氷現象(圧力をかけると氷りが溶けるというふしぎな現象)が起きて保持のポイント位置が移動します。
22年ほど前にピックのカーブを円弧と反対に反り返る形(バナナピック)がたぶんフランスのシモン社から発売になりました。ピッケルの最先端だけでなくて次ぎ次ぎにあるギザギザなきざみにも協力させて保持力を高めることが出来ます。手の指をホールドにかけて力をかけるると円弧と反対に反り返ってホールドと指との摩擦の面を増やして保持力をアップさせるのと同じ原理です。
バナナピックはアイゼンの形状にも影響しました。出刃十二本爪アイゼンの出刃の部分が一本のバナナ型の縦爪(モノポイント)になったものが開発されました。モノポイントはは保持力をアップさせると同時にけり込む上下左右の角度の範囲を大きく広げました。結果としてアイスクライミングで「振り」を意識した「ムーブ」をすることが可能になったのです。
バナナピックと同時期にイタリアのロウ社からチューブピックをつけたアイスハンマーが発売されました。日本でも、カジタ社がセミチューブピックを作りました。チューブにすることで、強度を保ってピックの先端部分の鉄板を極めて薄くすることが出来ます。結果として、氷りを破壊することが少なくてピックの打ち込みが可能になりました。
しかし、チューブピックは誤って岩を打つと、薄い鉄板で出来たピックの先端がめくれるように曲がってしまって、以後その性能が極端に下がってしまいます。またピックを打ち込まずに引っかけるだけで使う方法には向きません。クライマーの支持は数年以内にとどまり、現在はみかけなくなりました。
ぼくにアイスクライミングを教えてくれた室井由美子(ボルダラーの室井登喜男クンのお母さん)さんが右手にシモンのシャッカル(バナナピック)、左手にロウのアイスハンマー(チューブピック)を持ちさっそうと(どちらかというと慎重な感じ)笛吹川・東沢の側壁に発達した氷りを登っておられた(1984年2月)のことを思い出します。
ピッケルのシャフトが真っ直ぐな棒だったころ、ピッケルの打ち込みと同時に手の拳を氷り打ち付けて痛い思いをすることが多かったのです。シャフトを「く」の字に曲げます。「く」の右側が氷り側「く」の左側がクライマー側です。「く」の上にピックがあってこれを氷りに刺すと「く」の下のシュピッツェ(石突き)の部分が氷りに当たるので、拳を守ることが出来ます。シャフトを曲げてしまうという逆転の発想を思いついてのは我がN.I.A.J(Timtamの講師が入っているガイド組合)の溝渕氏(フルネームをすぐに思い出せませんごめんなさい)です。彼は有限会社ミゾーを設立、ミゾーV1というバイルを製造販売しました。ミゾーV1は世界中のクライマーの指示を得ました。以後のアイスクライミングアックスのほとんどは「く」の字のシャフトを持つものに変わり、なんと今シーズンになっては縦走用のピッケルにもシャフトが曲がっているものを見かけるまでになりました。
ピッケルのシャフトの改良は進み電車のつり革の持ち手のようになってリーシュ(リストバンド)がなくても長く持っていられるような形のものまで出現しました。つり革の持ち手の部分に石突きがついていない(つける工夫は出来ると思う)ので、そういうアックスを杖としてつくことが出来ません。登攀の終了の後、傾斜の緩い氷りの上を歩くときとか、杖として使うことが出来ませんのでアイスクライミング競技会(海外で多く行われると聞く)仕様というべきです。
ピッケルだけでなくアイスハーケンの改良が進んできました。イボイノシシ&スクリュー→→ハーフスクリュー&スナーグ(チューブ)→→チタンスクリュー→→チタンスクリュー(内部樹脂加工、スクリュー回しつき)→→・・・。
ここ30年で登山用具はどんどん進歩しました。ゴアテックス製品、サーマレストマット、レッグループハーネス、などなど、僕はその恩恵にどれだけ預かったかわかりません。その中でもアイスクライミング用具の改良進歩のペースは最速のような気がします。その改良進歩をもし個人で追いかけていたら大変です。2年ごとに、アックス2本とアイゼン一足とハーケン数本とを更新出来るくらい金銭的にゆとりがある人は少ないです。それで、我がTimtamはアイスアックス2本(シャルレクオーク)とチタンスクリュー3本(スクリュー回しつき)を本年は購入しました。それをアイスクライミング教室の参加者みんなで使い回しにするという作戦です。アイゼンはどうするかというと、ツエルトを張って暖を取り、一つあるのモノポイントアイゼンのサイズをその中で調節してこれもみんなで使い回すのです。名付けてチョイカミアイスクライミング。(文:M浦)
困ったとき 思い出そう
ダブルアックス バナナピック
くの字シャフト モノポイントアイゼン
逆転の発想 理論の裏付け
まず逆さまにして 考えてみよう
January 20, 2006 22回目の富士山雪上訓練
二十一年の間、毎年かかすことなく、十二月になると富士山の五合目に行き雪上訓練をしてきました。雪山シーズンの開始にあたり、ピッケルとアイゼンを使う雪上技術の確認をするためと、寒さに体慣れさせるためです。
しかし、ここ数年、富士山五合目には雪が少なくて、雪上訓練は形ばかりで、寒さへの体慣らしがメインの状態でした。原因は十二月が暖かすぎたためです(今シーズンは違います→後述)。特に昨シーズンは十二月中には一点の雪さえ見あたらない状態でした。それで、多くの山の会は谷川岳の天神平に訓練の場を移したようです。でも、我がTimtamには二十二年目のこだわりがあります。やっぱり富士山ということで、今季は雪が積もる一月まで待つことにしたのです。
一月の第一週は正月の長い休みだから訓練に使うのはもったいないからパス。第二週も連休だから同じくもったいないけれど、そう考える人が多いわけだから空いているはずです(雪山登山者の多くは八ヶ岳に行っている)。滑落停止を練習すると翌日はかなりの筋肉痛になるから、訓練を計画してる会があっても三連休の初日と二日目を使い三日目は休もうとするだろう。それで、日程を1/8(日)昼発~1/9(月・祝日)に決めました。
富士山の属する太平洋側の山ではゆるい冬型だと冬晴れの快晴になります。きつい冬型ならば雪が降りますが、風が強くて(富士山には樹木がないので)積もらずに吹き飛んでしまうのです。富士山に雪を積もらせるのは日本の太平洋側を低気圧が通過して行く場合です。つまり、東京に冷たい雨が降るとき富士山に雪が積もるのです。それで今シーズンの十二月はというと、冬型が強い日が多くて、気象庁が観測開始以来最多最高の大寒波が到来しました。『強い風に飛ばされて富士山に雪が無い!』とNHKの朝のニュース番組で取り上げられるほどでした。それでも、一月に入ると富士山にも待望の雪が積もり、
「馬返しから五合目まで雪の上を歩いて行けるよ。でも五合目の雪はそんなには多くないよ!」
と佐藤小屋から電話連絡が入りました。M講師もH講師も雪が積もる場所を二カ所知っているのでなんとか雪上訓練が出来るようになりました。
<1/8>
富士吉田の駅に13時30分に集合しました。メンバーは六人です。マイカー二台に分乗して馬返しに行きました。馬返しにはフロントガラスの右に『雪上訓練様』と掲示したマイクロバスがエンジンをかけて乗客の帰りを待っていました。ツアー会社が雪上訓練を企画する時代なんです。バスに乗ってたくさんの人が来ていても8日には帰ります。なんとなくニンマリとしてしまいました。
馬返しから歩き始めました。衣類調整タイムを含む途中三回の休憩で五合目の佐藤小屋に到着しました。時間は16時40分、小屋泊の三人とテント泊の三人に分かれました。テント設営の時間を考えると富士吉田駅13時30分は遅すぎました。来シーズンは集合時間をもっと早くしなければなりません。
小屋には○○倶楽部隊16名が先に入っていて我々のメンバーを入れても19名でした。○○倶楽部隊の食堂スペースを使っての会合がなかなか終わらずで、小屋の食事の支度が出来たのは19時を回っていました。食事の後は全員で宴会。宴会が終わってからテント訪問に行きました。テント隊の三人は夕食が終わり、宴会も終わり、まさに寝ようとする所でしたが、強引に引き留めて、再度宴会を始めはしたのですが、テントの中に長くいるのはつらくて21時前に小屋に退散しました。
<1/9>
小屋の食事を済ませて待っていました。七時半にテント隊が小屋にやって来ました。メンバーみんなで五合目のお中道を西に向かいスバルラインの五合目終点の方に向けて歩きました(○○倶楽部隊は六合目の方に行っているので五合目は貸し切り!)。
いつも雪のある所に到着、まずはキックステップの練習、でもこの場所はまだ日が当たってなくて、風も強くて、キックステップの練習は30分ほどで終了してしまいました。
さらにスバルライン方面に歩いて、第二のいつも雪のある場所に到着、日当り良し風弱しの好条件でした。でも、そこは通り過ぎてさらに西に向かい小御嶽流しまで行きました。10時前の景色の良い内に南アや北アの山脈を見に行ったのです。
景色を楽しんでから、例の暖かくて雪のある所まで戻りました。アイゼン歩行、耐風姿勢、ショートロープ(引かれている人はわざと転ぶ)、滑落停止、と練習メニューを一気加勢に二時間ほど(もちろん休みを入れながら)行いました。
12時を回ったので、佐藤小屋の方に戻りました。戻る途中に三メートルほどのボルダーと二メートルほどの凍った斜め滝があるのでアイゼンを履いての岩場の通過とシングルアックスでの氷の斜面を突破する練習をしました。13時30分に小屋に戻りました。
小屋の鍵を締める瞬間の佐藤さん(小屋主の息子さん)にいいタイミングで出会いました。
「じゃあ、また来年!」
と二十二回目の挨拶をし、一気に馬返しに下りました。(文:M浦)
January 12, 2006 奥秩父クリスマス縦走
2005年の12月23日、24日、25日は天皇誕生日と土曜と日曜が重なり三連休になりました。その中にはクリスマスとクリスマスイブが含まれています。こんな三連休は家族や恋人と街で過ごすのがいいみたいです。ケーキを食べたり、映画とか音楽会とか舞台とか行ったり、お食事、プレゼント交換、夜のイルミネーション、クリスチャンでなくても教会・・・。
だのに、Timtamの予定表には講習会が入っていました。しかも、スキー場でのんびりホワイトクリスマスなんてのじゃない、それは、奥秩父の東半分の縦走、なんと渋い、玄人好み。「これは参加するしかないじゃないか???」
<23日朝>
塩山の駅に集合しました。メンバーはIn氏とHo氏とMa講師と取材同行の私Juの四名でした。駅前で団体装備の荷分けをしました。 In氏は軽量化が甘いようです。ガスボンベ二つとコンロ1台しか団体装備が分けられていないのに75㍑ザックが満杯です。夕食にレトルトのおでん、非常食にゆでてないスパゲッティ300gなど重くてカサバル物を多く持ち込んでいるのです。
Ho氏のザックには共同装備なので持って来なくて良いことになっているガスコンロとボンベとツエルトが入っていました。ちなみに、ガスコンロとボンベは一つのテントに二台あれば良いのです(一台だとそれが故障すると予備がない、コンロが無ければ水が作れないわけで急ぎ撤退するしかない)。この十年、以下の①~④などの理由でコンロの台数制限の計画は頓挫することが多くなりました。今後のテント山行では食料・コンロ・燃料・コッヘルは各自持参することにして、コンロやコッヘルを持ってない人は講師と共用することにした方が良いと思います。
①軽量で高性能のコンロが安く手に入る時代になった。
②コンロとボンベぐらいなら大して重くないと思う人が多い。
③食料計画がなくて全食各自持参という山行形式が多くなった。
④人間は火を使う動物で火を個人で持ちたいという基本的な欲求がある。
テントの下に敷く銀マットにも同じようなことがあります。五人のテントに五枚の銀マット(90cm×180cm)がそろうことも珍しありません。カサバル銀マットだけにこちらの方が対応が難しいかも知れません。
運転手:「どこまで行くの」
Ma: 「雁坂トンネルの入り口の広い駐車場までお願いします。」
Ma講師は値引きの交渉もしないでさっさと荷物をトランクに入れ始めた。塩山駅前の峡東タクシーは何度もその仮眠所に泊めてもらったことがあるので値引き交渉する気が起きないのでしょう。でも、乗り込んだタクシーの正面にかかげた運転手の名札の上には甲州タクシーと書いてありました。
Ma: 「甲州タクシーさんの営業所はどこにあるんですか?」
運転手:「駅前ですよ」
Ma: 「駅前というと峡東さんと塩山タクシーさんしか知らないけど?」
運転手:「ホラ、塩山市が合併して甲州市になったでしょ!それで、社名変更して甲州タクシーになったんですよ!峡東タクシーよりはお客さんにわかりやすくなって良かったですよ!」
雁坂トンネルの入り口でスパッツをつけて歩き出しました。折からの寒波のおかげで途中に横切る沢はどこも凍っていました。一カ所、2mほどピッケルを打ち込んでアイスクライミングまがいのこと(アイゼンはつけてない)をしなくては突破出来ない所があったりしたけれど、全体には順調な歩きで四時間ほどで雁坂峠に着きました。
目指す雲取山方面への縦走路には30cmほどの深雪が乗っていてトレースはありませんでした。 小屋の近くの水場を当てにして雁坂小屋に下りました。予想どおり雁坂小屋の水場の沢は全面凍結していて使えずでしたが、雁坂小屋に冬季解放部屋があることがわかりそこに泊めてもらうことにしました。
冬季解放部屋のストーブは針金で堅く閉じられていました。ピッケルを使って針金をこじあけることは出来るのですがそれは遠慮しました。ストーブが無ければ小屋の中は冷蔵庫の中と同じになるので土間にテントを張り、雪で湿らない快適なテント場とさせていただきました。夕方から冬型が強まり、翌24日いっぱいまで粉雪が降り続きました。
<24日>
小屋の中でテント泊の荷物をパッキング(快適)して深雪の縦走路を東に向かいました。古礼山、雁峠(がんとうげ)、笠取山と次々クリア、笠取山の登りの手前に荒川と富士川と多摩川の三つの川の分水嶺となっている小山を通過しました。秘密の小さな小山みたい感じでいい雰囲気の所でした。
笠取山を越えたあたりでここまでの道のりを来るのにコースタイムの1.5倍以上の時間がかかっていたことに気がつきました。次ぎに到着するだろう唐松尾山のピークに行けども行けども到着しないのです。このあたりではコースタイム2倍の時間がかかっていました。
テルモスのお湯を飲み尽くし、バテバテで唐松尾山に到着将監峠(しょうげんとうげ)に下りました。ここで時間切れ、さらに10分、将監小屋まで下りました。予想通り将監小屋にも冬季解放部屋がありました。ストーブも解放されていて。利用代の千円を入れるポストもみつかりました。でも寝る方の部屋とは引き戸で隔てられていてこの戸を開放してもストーブの熱があまり伝わらない構造(本気でガンガン燃やせば別だとは思うけれど)でした。それで、今度は寝る部屋の中にテントを張らせていただき、またまた快適なテント場とさせていただきました。
<25日>
将監小屋から飛竜山まで尾根の南側をずっとトラバースして行くアップダウンの少ない道が続きます。コースタイムは2時間半、でもけっきょく5時間かかって飛竜山に到着しました。飛竜山の山頂は名前に反して平らです。テントが何張も張れる所です。
雲取山まで行くと下山する時間が無くなるので、飛竜から三条の湯に下りました。三条の湯は三条小屋と同値です。小屋の人に下の道までタクシーを呼べないかとたずねてあっさり断られて、てくてくと3時間、お祭りまでの林道歩きとなりました。
秩父の山では鹿が増えすぎて困るようで、犬を連れた猟師チームが鹿を捕りを終えて帰り出していました。てくてく歩く僕らの脇を小型のトラックが通り過ぎました。荷台には解体された鹿さんが乗っかっています。小さな声で「アノー」とか言ったけど、トラックは通りすぎてしまいました。
「鹿さんといっしょに乗るのはやだよね!」とか言って自分の気の弱さをちょっぴり悔やんで、慰めていました。またまた車、それもジムニーで中には運転手さん一人だけ。
『勇気だせ!』『勇気だせ!』と決意したかどうか?僕はジムニーの前に両手をあげて立っていました。 ジムニーの窓から人の良さそうな猟師さんが顔を出しました。
Ju: 「すみません、ぼくら乗せてくれませんか?」
運転手:「その荷物で乗れないよ!」
Ju: 「荷物はかかえるから乗せて下さい!」
運転手(猟師)さんは「いい」と言ったかどうか?定かではないのです。ぼくらはジムニーの助手席側の扉を開け、助手席を倒して後部座席にHo氏、Ma講師と乗り込み、In氏はザックを車の中にどんどん送り込んでしまいました。それでもって、In氏はザックにつけたピッケルをジムニーにガチンとぶつけたりしていました。In氏には気配りというかデリカシーのネジがズレている所があるのですが、この状況では強い味方のように思えてしまいました。
3時間の歩きはジムニーの中での30分の押しくらまんじゅうに変更、ぼくらはアットいう間にお祭りのバス停の所にある食堂の人となっていました。(J記)
January 01, 2006 山の本
あっという間に大晦日。2005年は雪の八ヶ岳、夏の北ア、沢にデビューしたのが山の思い出。3776mにも立て、満足の年でした。来年もよろしくお願いいたします。
「読んでなかったの!?」といつもパーティを組んでいただく方には言われてしまいそうですが、この休みは『山で死なないために』/武田文男著を読んでいます。情報は古いので良くなった点と退行してしてしまった点があると思いますが、得るもの多々、です。特に過去の情報に精通すべしという点に共感をもてます。もう一点非常に気になっている点があって、他のパーティの遭難(とくに雪崩れや落石地点)に居合わせた場合、二重遭難の危険を冒して人命救助にあたることの判断の難しさです。自分の力ではするべきではないようにも思われるし、見捨てることはシーマンシップならぬマウンテナーシップ(?)が泣くようにも…。またパートナーが難所で怪我をした場合に他のパーティに応援を依頼すべきかという点。みなさんどう思われますか?
***
自分は知識をたくさん持っているよりも、どんな場所にも対応できる知恵と技術を持っている方が大事と普段考えています(というよりも脳の容量の問題でそれしか方法がない)。それは”明確な課題をクリアする”ことに焦点を当てた場合は結構正しいと思うのですが、いったん”山で死なないために”という視点で見ると、危険極まりないことに気づきます。すべての状況の中で何がその時点の最優先課題なのかを見出すことは困難だからです。「危険が最も危険なのは、それが危険であると認識できないことだ」というくだりは確か菊地俊之著の『最新クライミング技術』に出てきた言葉だと思いますが、まさにその通り。その認識率を上げるために、情報=知識を集積することは役立ちそうです。そしてその情報を実感もって吸収するためには、百名山制覇のようなスタンプラリー登山も悪くないと思うようになりました。また小さな山でも常に「安全だろう」登山ではなく「危険かもしれない」登山を心がけたいと思った次第。そういう意味では例えば百名山も、各山に気をつけるべき技術項目のようなものがあるとよいのかもしれないです。
なんで急にこんなことを書き込んだかというと、雪山シーズンを前にして、危険に対する認識度合い、行動判断、緊急時対応を、いっしょに山へ行ってくれる方と極力擦り合わせておきたいと思ったからです。当然十分な打ち合わせや普段からの意見交換でなされるべきことではあるけれど、知識ベースとして著作の情報を共有しておくことで、顔を合わせて行う議論と確認作業を濃密にすることができるのでは、と。最近Timtamで提案されたビレーヤーズグレードの考え方を見ていて、そんなことを考えたのでした。
確かにすべての危険を回避していては行動できないし、生きて帰れればよい、山で死ねるなら…、という気分になってしまうことが自分自身あるのですが、これは大きなイマジネーション不足で。現実にはちょっと足をくじいたり、切創をつくったり、行動が予備日を超えて伸びるくらいのことも、自分がその立場に立てばものすごいダメージです。自分はそういうことすらできれば一生避けて通りたい。でも山には登りたい。だから所々弱気な発言をするかもしれないけど汲み取って欲しいし、逆に無謀なことを言っていたら諭して欲しい、より確実な方法があるなら選択したい、と思います。よろしくお願いいたします。
本ですが、『いまだ下山せず』/泉康子著もお薦めです。著者が冬の槍ヶ岳付近で行方不明になった仲間の捜索活動に奔走した記録です。この本を読んだのが丁度1年半前、すぐに山岳遭難救助保険に加入しました。^^; まだ読んでなくて、ぜひ読みたい本→『生と死の分岐点』/ピット
シューベルト著、 その続編と、『山で~』の続編。他に「自分とザイル結ぶならアレは読んどいてくれ!」というのがありましたら、ぜひご紹介ください。「今年雪山講習に初参加します!」という方がこれをお読みになっていたら、上記文中に登場する本、ぜひ手にとってみてください。(Naito 記
December 15, 2005 たぬき山と携帯電話
12月10日土曜日、夜7時に集合場所の八王子駅に着いた。
改札口出た正面にHata講師と今回のメンバーのR氏とSさんとAさんが待っていた、さっそくHata講師の車に乗り込んだ。H講師車は白っぽいベージュ色のワゴン車で四輪駆動、中央のシートを倒すとダイニングテーブルが出て来るというすごいやつだ。
「昨日スタッドレスタイヤを履いたばかりだ」とだれかに「伝えてる」のが聞こえた。
あきるのインターから高速に乗り高坂サービスエリアに八時着、もう一台のMura氏の車とそれに同上のBさんとTさんを待つことになった。Hata講師はMura車に電話をかけていた。車に電話をかけるなんて一昔前までは意味の通じないフレーズだが、みんなが携帯電話を持っているから可能なのだ。
「もしもし、今どこですか。」Hata講師が切り出す。
「今嵐山を通過中だからもうすぐ着きます。ごはん食べて待ってて。」Mura氏からの答えが返る。
「了解です。」ということで一行はサービスエリアの軽食コーナーへと移動した。食券を買って、それぞれが自分の食べ物を手にし始めたころ。Mura氏からHata講師に電話が入った。
「間違えました。今寄居パーキングを過ぎてるから、行き過ぎです。」とのこと。
「ハァ?」っとまだ理解出来ないHata講師。
「本庄児玉まで行って戻ります。」
「ハイ!」Hata講師はようやく状況がつかめて、ゆっくりの食事をして待つこととなった。二十分ほどしてまたHata講師に電話が入った、「あと五分で東松山インターです。インターを出た所で待ちます。」だって、けっこう早かった。ただちに高坂サービスエリアを出発、五分後に東松山インターに到着、二台の車が合流した。
Mura氏車は軽自動車で、四輪駆動、下り坂は130Kmが余裕で出る。しかし、上り坂は最速で60Kmである。いつも普通車に置いていかれるのでトランシーバーが二台積んである。そのうち一台が東松山でHata講師車に渡された。けれど、Hata講師の後続車を気遣う丁寧な運転のおかげでトランシーバーを使うことなく、11時にわたらせ渓谷鉄道の沢入(そうり)駅に到着した。着いた途端の11時に、タイマーでセットされていたらしく駅の電気が消えてしまった。後はヘッドランプの世界だった。
沢入駅はログハウス風の建物で待合い室の床はウッドデッキだ。シラフを出してすぐ仮眠しよう、と思ったら寝たのはBさんだけだった。Tさんが720ミリリットルの芋焼酎を出してきた。
『若い女の子が芋焼酎かいな?』と思った、『僕の人権意識は希薄???。』
人数が多いからアットいう間に飲んじゃって、みんなシラフにもぐりこんだ。厳冬季用のシラフを持ち込んだHata講師とBさんと将来はTimtamの冬山行を背負って立つだろうR氏、年寄りと言われたくない年寄りのMura氏、と最年少25歳のSさんはがんばった。他は早朝2時ぐらいの寒さに耐えられなくて、いつの間にか、沢入駅舎から抜け出し、駅舎から30メートルほど離れて暖房をかけていたMura車の中でヌクヌクする人となった。
朝まだ暗い6時に起きて思い思いの朝食を食べて、二台の車は沢入駅を出発、林道の中間点の「たぬき山」の取り付き(地図に書いてないし案内表示もない)にMura車をデポ、一週前ほど前に家で転んで、立てかけてあったちゃぶ台の足にぶつかって、肋骨が折れちゃったTさんがHata講師の車を運転して三境山の登山口に廻送してくれることになった。Tさんはわたらせ渓谷鉄道に乗って、温泉行ったり美術館に行ったりする「関東甲信越小さな旅」をするのだそうだ。朝から温泉行くなんて経験がない僕はちょっぴりうらやましくなる。
「午後1時にトランシーバーの電源を入れてね!」とMura氏が言った。
「携帯の電池がすぐ無くなるから携帯の電源も1時に入れるわね!」
「運転、気をつけてね。」
「そっちも気をつけてね」Tさんの見送りの言葉を背中にHata講師の先導で7時30分に出発した。
林道をしばらく行き、右から出合う「たぬき山」に向かう涸沢に入る。道はない。
「沢沿いに行くと最後が急登になるから、右の尾根をとらえましょう。」とHata講師。尾根上には二センチほど雪が積もり、以後三境山まで雪の上を歩くこととなった。雪が深くないのでスパッツはいらないが、すごく寒くて手袋や耳の隠れる帽子なしでは歩けない。
道なき尾根を登って「たぬき山」の山頂着9時
「予定より早く着きそうですね。」Hata講師が言った。ちょっと間を置いてから
「待ち合わせ場所に来る道は何本もあるから・・・Tさんがどの道から車を廻送して来るかわかんないから・・・Tさんを夜まで待たせちゃうから・・・???」聞こえるでもなく言ってて、みんな聞こえちゃった。
Hata講師はTさんの携帯に電話したけどつながらない(相手は電源を切っている)。それで、メールを送ろうとして、
「アレ、もう電池がなくなちゃった。夜、車で充電したのに!!」と小さめの声で言った。
「それでは私ので」とBさんが携帯電話を出したがやはり電池切れ表示、なんと、AさんのもSさんのもR氏のも電池切れ表示が出て使えなかった。Mura氏のは電池切れ表示は出ないけど圏外表示が出てる。
「フォーマは山じゃまだ使えないな!」Mura氏は彼から何度か聞いたセリフをくり返した。
「携帯をお腹の中で暖めておきましょう!」Hata講師はそう言って、パーティを出発させた。
三境山に向かう道なき尾根上には所々古びた赤テープの目印が見付けられて少し安心した。10時に尾根がT字にぶつかって県境尾根に出た。尾根の南側に日だまりをみつけて大休止をした。何人かが携帯電話を試すも電池切れ表示が出続けるどころか電源が切れてる人もいた。
「三境山の登山口に下りたら、僕がツエルト張って待ってて、みんなは林道を歩いて下山するのがいいんでない。」Mura氏が言った。
「私もツエルトあるから、みんなで待ってましょう。」とHata講師、
「私も持ってるわよ!」とBさん。
パーティに三つもツエルトがあるのが判明して一安心、T字にぶつかった尾根で道を右にとって歩きだした。五分ほどで分岐あり(A分岐とする)。地図を読んで右の尾根を行き30秒で小ピーク、ここに分岐があってそれは左にとれば・・・左に大きな尾根はなく細い尾根が一気下っている。
「とりあえず、下ってみましょう。」とHata講師が先頭に立った。3分も下りないうちに、
「間違いです。左に見える尾根がそれですね。」と説明した。
県境尾根に出たと思ったのは間違いだった。さっきのA分岐まで戻り、左の尾根を数分行って再度T字にぶつかった尾根が本物の県境尾根だった。県境尾根は地図上に登山道の記載はないのだが、道はしっかり踏まれていた。三角点を示す石よりちょっと細い四角柱の石が百メートルおきにきのこが出て来るみたいな感じで設置されていたし、太い赤テープの目印もしっかりとつけられていた。ついでに、『→三境山』と書かれた手書きの導標も見つかった。Aさんがひかえめに小さく、でもはっきりとした口調で
「メール送れました。」
と言いました。みんなに聞こえたみたいで、笑顔はよけい笑顔になっていました。Aさんはやさしくて律儀な人なのです。
三境山着は11時だった。コンロの火をたいて、Bさん持参の甘酒を作って体を温めたけど、この日来てる寒波はただものではないらしくて、寒くて寒くて、
「12時には着いちゃうけど出発しましょう。」Hata講師が言ってくれたから、なんかうれしかった。
三境山を下りたら、すぐに右に分岐があるはずなのに見あたらなくて、行きつ戻りつしながら、地図を読んで
「分かりました、もう一つピーク越えるんだ!」とHata講師が説明した。10分ほどでもう一つのピークを越すと、『←三境山・登山口→』と書かれた手書きの道標を発見、りっぱな踏み後を20分も下りたころ。
「Tさんの車来てたら感動だね!」とMura氏が少し大きめの声で言う。
それから5分下らないうちに、白いHata講師車が見えて来た。Hata講師が車の窓ガラスをたたいた。
Tさんが中から出て来た。(J記)
December 12, 2005 22年の時を隔てて
<1983年 夏~初秋>
お盆休みに北アルプスの立山から槍ヶ岳までを単独でテント縦走をしました。多数の人が同じピークで休憩し同じテント場で宿泊することを繰り返すので、その人達の間に次第に仲間意識が出来て来るようです。僕らもいつの間にか見ず知らずの六人が集まって一つのパーティみたいにメンバーシップを持って行動するようになっていました。新穂高温泉に下山した時には、その六人で山岳会を作ろうじゃやないかという話しにまで盛り上がっていました。
でも僕はなんとなく物足りなかったのです。残りの五人は北アルプスの縦走で様々な素敵な体験に出会えてうれしくて仕方ないけれど、学生時代はワンゲルにいた僕にとって、それはいい感じではあるけれど、もう何回も出会った場面でしかなかったのです。例えば初めてブロッケン現象を見てみんな大興奮なんだけど、僕は
『ア、ブロッケンだ!』ぐらいしか思えないんです。それで、
『ぼくは彼らの山岳会には入らない!・・・これからは、縦走でなくて沢登りをやるんだ!』という決意を、帰りの電車に乗る時には、固めていたのです。
家に帰ってひさしぶりに山と渓谷誌(1983年9月号)を買いました。
『ネパールのニルギル南峰への遠征を終えて帰国したIwa氏が沢登り教室をの開催する』とインフォメーション欄に書かれているのを発見しました。人に教わるなんて気はなかったのに、なぜか、魔がさしたのか
『ママヨ!』という感じで参加してしまいました。それは、9月の第一週の日曜日でした。丹沢の大日沢という所に行ったのですが、ロープを出すようなハラハラする場面なんかなくてワンゲル時代の沢歩きと同じ感じで終了しました。
9月の二週になって仕事が軌道に乗り出すと僕はいつのまにか山に行かないフツーの社会人に戻っていました。日付は忘れたけど、9月半ばの日の夜八時ごろ、仕事から帰って夕ごはんを食べてウィスキーの水割りを作ってコハク色の液体の中で氷を踊らせてカラカラと音なんかさせて
「ウーン・・・サントリー」なんてつぶやいたとたんに、例のIwa氏から電話がかかって来ました。
「日和田山で岩登り教室をやるから来ないか?」というものでした。僕は、彼が営業で電話して来たことには気付かず、
『なんて親切な人だろう』なんて思って、参加を快諾していたのでした。
1983年の9月23日の秋分の日に行われたその教室が僕の初めて日和田山の岩場行となりました。Iwa氏と後にIwa氏夫人となるYuukoさんと、それに日本で初めてゴアテックスの輸入販売を試みていたSada氏の三人が指導者で、講習生はぼくと、後に「童人トマの風」という山岳会を作るTeji氏と雑誌「岳人」の現役編集者のNaga氏の三人でした。
子供岩でロープワークを習って男岩の南面でリードアンドフォローのクライミングをして。暑さを避けて、男岩北面でトップロープのクライミングをするころに、にわか雨が降ってきました。Sada氏の提案で女岩の西面(ハングだから岩が濡れてない)に移動しました。日本でのフリークライミングの試みが女岩の西面のハングで行われてまだ一年と八ヶ月くらいしか経過していないない時代でした。その時代の潮流に乗って、Sada氏は女岩西面の各ルートをクリアしたばかりでした。それで、彼はうれしそうにルートの説明をしてくれました。毎週通って、半年で登れたという話しが印象的でした。
ここで、そのころの岩登り事情ちょっとだけ思い出して記してみます。EBというクライミングシューズが時代を席巻していました。EBを買えない人は陸上用の軽い運動靴を使っていました。人口登攀で登られていたルートをアブミを使わずに登るフリー化ということが盛んに行われていました。確保のシステムは原始的でシットハーネスをつけてにエイト環でビレーするというのが最先端でした。メインロープのハーネスへの連結がブーリン結びから八の字結びに変わろうとしていました。もちろんフリなどというムーブは一般に知られていなくて。指立て伏せ毎日数十回、電車のつり革に指の第一関節だけかけて持ってついでにつま先立ちしながら通勤、片手懸垂毎日数回なんてトレーニングをして正対で腕力に任せてガシガシ登って、フリーだフリーと言っている人が僕の周りに何人もいました。
さて、1983.9.23も夕方近くとなり、雨も上がりました。女岩西面の中央左側のテラスまでは今日の参加者に丁度良いということでみんなでテラスまで登ってそこに立ち上がるまでをワイワイとトライしているうちに暗くなって来て、講習会は終了となりました。山道を下り高麗駅に着いて、電車待ちの時間に、参加者みんなで20回の指立て伏せなんかして盛り上がっていました。
僕は、その後22年もの間、日和田山の岩場の女岩の西面の各ルートを登ってみるチャンスがなかったんです。実は、何度か近くまでは行ったのですが、誰かがトップロープを張って占領していて、順番待ちの人やギャラリーが多くて、
『僕なんかがトライするのはまだ早い!』なんて感じで臆しちゃってすごすごと帰って来るしかなかったのです。
<2005年 初冬>
おととい(2005.12.10)の土曜日に、なぜか引きずられるように思い立って、女岩西面を登りに行きました。混んでいたら名栗方面に移動して小岩井サンセットロックという所に行くつもりでした。この日は天気は快晴で暖かいクライミング日和でした。ところが、ふしぎなことに、あるいは超ラッキーなことに男岩も含めて人影がまばらだったのです。信じてもらえないかも知れないけれど、なぜか、女岩西面は僕ら(4人)以外には1日を通して人が来ませんでした。
「中央ルート5.10d」の上にトップロープをセットしました。こうすれば「右ルート5.10b」と「ど真ん中ルート5.11a」の三つが登れます。もう一は、「鼻ハング5.10d」の上にセットしました。鼻ハングのトップロープのセットは難しいです。ぼくのトップロープは人に見せたいぐらいの自信作でした。
始めに「中央ルート」に登りました。下から三分の二ぐらいの所でテンション、3度ほどトライして断念しました。次が「鼻ハング」、右手のガバで止まって、左手を一つ上の小さいホールドでつないでチョンチョンという感じで鼻の付け根のガバをとります。うまくやらないと体が反時計回りに回転して剥がされます。次に右手でその上の縦のピンチをとって、そのすぐ上に左手が・・・出せなくて、力が尽きて断念しました。 少し休んで右ルートにトライしました。ガバが続くフリのルートでなんなくクリアしました。トップロープですがフラッシングです。調子に乗って再び中央ルートにトライ、今度は抜け口のすぐ下までスーット上がれたのですが、そこでジタバタしてテンションして、一休み、そしたら右手の小さなホールドが見えて、それをとってワンテンションでクリアしました。
いい調子になって来たので。鼻ハングのトップロープをはずして、左ルート5.10b(日本のフリークライミング発祥のルートです)にセットしなおしました。例のテラスまで慎重に登りました(22年前に登れてるから自信あり)。ホールドをつかまずテラスの上にバランスで立ち上がります。そっとそっとつま先立ちになって、左手を出っ張りに添えて、右手をクラックの中に入れます。クラックの一番下から10センチくらいの所に左に引けるガバを発見、そのガバをつかんで左足をアウトサイド置き、右足を切って左手を伸ばして、下に引けるガバがとれて、体を振って右足をアウトサイドに置いて、左足を切って右手を伸ばすと、もう一の下に引けるガバがとれて、もう一回体を振って、抜け口上のテラスにある最終のホールドを、左手で探しに行きました。見えないから手探り、左、真ん中、右と探して、右の方にわりと効くホールドを見付けて、それに頼って体を引き上げ、一気に登り終えました。(J記)
<先輩の言葉>
やれば出来るというのは 間違いだ
どんなにがっばっても出来ないことが ある
願っていればそれに近づくというのが 正しい
選択肢があれば 近い方をとる
そしてまた選択肢があれば 近い方をとる
そして だんだん願いに近づいて行く
いきなり チャンスがやって来る
願っていれば 見逃さない
December 06, 2005 岩登り教室誕生の物語
<1996年の秋>
縁あってフランスの地質探査会社の日本支店(神奈川県に会社があった)の山岳部と知り合いになり、そこの部員三名といっしょに伊豆城ヶ崎海岸・富戸エリアで地質調査を行った。トップロープを張って岩登りをするが彼らの地質調査のやり方だった。9年前のバブルの時代は仕事も遊びもバブルだったと思う。
その地質調査のおかげで富戸エリアの岩登り教室という講習会がうぶ声を上げた。
・奥武蔵の日和田山の岩場の男岩西面のステミングフェースをクリアしたぐらいの人が練習するのに丁度いいルートが並んでいる。
・南隣の入り江(バンブーエリア)、そのまた南隣の入り江(○○エリア)と移動すれば硬軟様々なルートをさらに求めることが出来る。
・岩と海と、遠くの見える大島ということで、景色が良い。
・東から南に開けた入り江で晴れれば冬でもポカポカ暖かい(夏は暑すぎる)。
・入り江の浜がが開放的な広さ(テニスコート1面くらい)を持っている。
・富戸駅から歩いて20分の距離にある。
・富戸の民宿街は伊豆高原のそれと比べてひなびている(さびれているのかな?)。
・岩場の高さが10メートルほどで威圧感がない。
・トップロープが張りやすい。
・城ヶ崎海岸駅や伊豆高原駅が起点になる岩場から遠いので人があまり来ない。
以来、翌年の秋より8年連続で富戸エリアの岩登り教室が開かれて来た。伊豆の首都圏からの遠さが問題である。朝7時に東京駅を出発すると、岩場到着は11時になってしまう。講師が早めに行ってトップロープを何本か張っておくことで対応しているから夕方までに8本くらいは登れる。けれどその後に、往路と同じ時間(4時間)をかけて帰ってしまうのではもったいない。一泊して温泉三昧して翌日も岩登りをすればいいというだれでも考えるところだ。
それで、その後も城ヶ崎の岩場をいくつか偵察した。
・門脇崎エリア・・・つりばしあり、ロケーション良い、観光客が多い
・ファミリークラックエリア・・・ロケーション良い、観光客が多い、クライマーが多く混雑、トップロープ張りづらし(リードしてロープを引き抜く登り方が暗黙の了解になってる)
・シーサイドエリア・・・レベルの高いクライマーで一杯、レベルが高くないクライマーはは固まる
・あかねの浜・・・よそそう、高さあり
そういうわけで城ヶ崎では今一つ良いエリアが見つかっていなくて、他の場所への転戦しようかという案もあった。しかし、これもまた、いい所はみつかっていない。
・伊豆大仁の城山・・・正面壁はマルチピッチで上まで登りたくなるのでボツ。山頂直下のクッキングワールドはルートはいい感じだが、大仁の町を真下に見下ろすロケーションは高度感がありすぎるし、広場がなくてエリアがせまい、何人かのガイドが講習会をやってるらしいのでそれとバッティングするとにっちもさっちもいかなくて、車がないとアプローチが大変などの理由でボツ。チューブロックエリアは難しすぎてボツ。
・沼津・鷲津山の岩場・・・ロケーション良い、南面の岩場で暖かい、ルートが多い、いいかも?
・湯河原・幕岩・・・ロケーション良い、暖かい、ルートが多くて良さそうだけど、休日が大混雑なのでボツ。
9年前に例の地質調査会社の山岳部員の案内で富戸の他にもう一カ所行った場所があった。富戸エリアがいい所だとわかった後だったのと地元の山ヤさん達に案内されてるがゆえの油断のためにそのエリアがどこだったかわからなくなっていた。いつかチャンスがあったらそこが何処だったか同定したいと思っていた。
この12月3日(土)に富戸エリアの岩登り教室があって参加した。講習の最後の方でそっと富戸エリアを抜け出して、マイカーで城ヶ崎海岸駅前の駐車場に向かった。
・城ヶ崎海岸駅から歩いて行った。
・防風林の藪に一筋に踏み跡がついていた。
・入り江の浜に降りるのにはしごを使った。
・高さがあまりなくて
・トップロープで登られていた。
・入り江の浜が広かった(テニスコート反面くらい)。
・硬軟様々なルートがあった。
・日曜日なのにだれもいなかった。
・遊歩道から遠く観光客に見られなかった。
そんな記憶がたよりだった。
いがいがね駐車場の方に向かってとぼとぼと歩き、道の右に踏み後を探した。踏み後は見つからずに喫茶ジュピターの前の海に向かう道の入り口まで来てしまった。しかたなく海に向かう道に入り、遊歩道に出た。南下する方向に遊歩道を歩き、入り江をみつけると釣り人の残した踏み後をたどり海まで出てみることをくりかえした。
三つ目の入り江がそれだった。9年前と同じようにボツボツと錆の出たジュラルミン製のはしごがかかっていた。はしごを降りてすぐ左に四級プラス程度のルートがあったはずだけど無いみたいだ。9年前の記憶は半分は合ってたけど、半分は別の記憶と入れ替わっていた。(J記)
ふるさとに 大きな大きな坂があった
ふるさとに 家はなく友もなく
幾星霜のち ふるさとに来た
ふるさとに 小さな小さな坂があった
December 02, 2005 ラッキョウの思い出
食べ物に好き嫌いはないと言い切ってしまいたいのだが、甘酸っぱいものはちょっとだけ苦手である。酢と砂糖を合わせるあの味だ、酢豚の味と言えばわかっていただけると思う。もちろん食べられないわけではない。
子供のころ、なんでも食べるぼくだけど、甘酸っぱく味付けしたラッキョウだけがダメだった。ところが、そいつが月に一度くらい小学校の給食のメニューに登場して来るのだ。給食用のアルマイトのお皿に大きなラッキョウが二個とあと何だったか思い出せない食べ物が盛りつけられて出て来るのだ。そういう日は、噛まずにそいつを丸飲みすることで全食クリアーする食いしんぼのプライドを守ったものだった。
小学校の帰り道、自動車がようやくすれ違える程度の道の、学校のフェンスの対面に小さなペット屋(小鳥屋)さんがあって、そこにいる九官鳥やオウムなんかを飽きもせずずっと見ていて、いわゆる道草を食うことがよくあった。
ある日、そのペット屋さんの向かい側の学校のフェンスの前に台が置かれていて、その上に日本ザルが鎖につながれて座っていた(たぶんそのサルは売りに出されていた)。サルの前で手を上げると、目の玉をおデコごとつり上げて見上げて来るのが面白くて暗くなるまで観察していたような気がする。
ほどなくして、給食にラッキョウが出る日がやって来た。担任の田中耕三先生は新任の若い男性で、その日は音楽の吉田 雅夫先生(こちらも若い男性)によく可愛がられる高部ルミ子さんと北井光子さんのグループとそれをねたんだ高柳葉子さんと佐野貴子さんのグループの間のトラブルに巻き込まれていた。給食の時も田中先生にまったく余裕がないわけで、ぼくは易々と十人分(20個)のラッキョウをザラ紙にくるんでランドセルの中にしまい込むことが出来ていた。
その日の放課後、ぼくのクラス(4年2組)の男子数名(エート、エート男子の名前は松岡 成人くんしか思い出せない)は校門から全速力でペット屋さんの前まで走って行った。ぼくは、ラッキョウを一つ取り出してサルの前に置いた。サルがラッキョウを手に持った。
『よく観察しよう』なんて思う間もなく、アットいう間に食べちゃった。
「皮むかないじゃない!」などと少年達は言ったか言わないか。二個目のラッキョウも三個目もそして最後の二十個目も、アットいう間に食べちゃった。
それから十二年経過して、ぼくは大学ワンダーフォーゲル部の4年生になっていた。その年の夏合宿は男子が平ヶ岳から大水上山まで、女子は平標山から谷川岳を経て巻機山までの縦走するというものだった。研究室の都合かなんかで男子の合宿に合流出来なかったぼくはそれを理由に女子の合宿に合流することになった。もう、そう決まった時は天にも昇るような気持ちで、ワクワクドキドキ・・・?。
それは8月3日のこと、土合駅から白毛門岳を越えて合流点の朝日岳に着、夜になっても女子パーティが来ないのでツェルトビバークをすることにした。朝日岳山頂付近は頂上から宝川温泉方面に5分も行かない所に水場があって快適なビバーク地、星は見えなかったけれど、朝の雲海はきれいだった。
8月4日、雲海が消えて、昼間になってもまだ女子パーは来ない。後輩の檍(アオキ)京子さんとか伊藤英子さんとか鐘ヶ江貴子さんとかに朝日岳の頂上で感動的に再会するという計画は、なんかダメになったみたいな予感がしてきた。これが男子パーティを待ってるなら下山してしまったんだろうけど、ボクの心は紫のまだら模様があるピンク色になっていたので、非常食を食べながらもう一日粘ることにした。
どうしてビバークで、どうして非常食なのかと言うと、4年部員は偉いことになっていて夏合宿ではテントや食料などの荷の分担がないのだ。それで、女子パーティに合流出来なければ食料などあるわけがないのだ。
8月5日夕方、非常食も食べ尽くしたぼくは下山しないで、もう一日朝日岳の頂上で待つことにした。それは女子パーに頼まれた小さな食料の包みを実は持っていて、それを食べたらもう一日は大丈夫と判断したからだ。夜になってその包みを開けたら、中身はカレーライスに添えるはずの八人分のラッキョウだった。8月5日の夜と、8月6日の朝と昼と、三食、ラッキョウを食べてたら清水峠の方から女子パーの戦闘機のような
「ファイトォ、ファイトォ・・・」の声がして、しばらくしてその実体が朝日岳に登って来た。1年生の原 澄子さんがバテバテで一日予定の半分ずつしか進めなかったのだそうだ。
頂上で、感動の再会と思いきや、なぜか檍(アオキ)博子さんが口にコンタクトレンズを含んでいて、思わずプッと吹いてしまい。這松の間をみんなでコンタクト探すことになった。三日も待ったこの瞬間は思い描いていたのとあまりに違う(四つんばいで這い回る)構図だった。
翌日以後、屈強の男子であるぼくが荷の分担することで女子パーの機動力は一気に増大、勇躍、巻機山への縦走が成功することとなった。そして、ぼくがラッキョウが大好きになるというおまけがついてきた。(J記)
<先輩の言葉>
山はかへる 人をかへる
人はかはる 山でかはる
November 30, 2005 近くていい山、
滝子山
秀麗な山様
展望の良さ
中央線の初狩駅から登って初狩駅や笹子駅に戻れる
訪れる人の少ない静けさ(三人しか会わなかった)
落ち葉の積もったフカフカの道
樹木の紅葉
展望のある草原
動物のいた痕跡、熊かな猪かな
蓑虫がつり下がってた
藪と岩の急登あり(初心者はロープがいる)
地図に道が書いてない
やぶこぎなし
歩行時間七時間
滝子山にその東尾根から登るコースに行ってきました。そこはすごく素敵なコースでした。行った人はきっとだれかに「よかった!」と話すでしょう。だれかがまただれかに口コミで伝え、その何人かは実際に出かけて行ったんでしょう。そんなことをくりかえすうちに地図にない道(踏み跡)が頂上まで途切れることなくつながり、それが『今日まで』残されて来たのでしょう?『今日まで』の意味について補足します。1950年代前半から1970年代前半くらいまで続いた登山ブームの時代がありました。その時代に、尾根という尾根に、それが登山道であろうとなかろうと踏み跡がつけられました。時去って、それらの踏み跡は、落ち葉とそれと共生するバクテリア類による土壌形成の過程で消し去られて行きました。滝子山東尾根の知られざる人気はその過程を『今日まで』許さなかったのではないか?ということです。
11月27日朝9時15分に初狩駅に集合の予定でした。しかし、中央線が三鷹でストップしてしまいました。I氏は新宿から京王線の高尾経由でやって来きました。I氏は開口一番にハーネスの特売情報を伝えてくれましたので、この稿を借りてその情報を流します。「昨日、秀山荘行きまして、ハーネス買(コ)うて帰りましてん、安かったですわー、五千円ですねん。ぶら下がって選んだんですわー。」とのこと。八王子市在住の、Mさんは中央線が動くのを待つしかなくて、幸いそれほど遅れずに電車が動き出して事なきを得ました。狭山市在住のEさん、は府中本町からタクシーで京王線の駅に出たのだそうです。
9時30分に初狩駅を出発しました。滝子山への一般ルートを歩いて行く途中(駅から10分くらいの所)の右手に神社がありました。
「安全登山祈願のお参りをして行きましょう。」とH講師が言い出しました。三年前にH講師と一緒に滝子山に来た時は神社なんて見向きもしなかったのに変です。しかたなく社の正面で鈴をならして一円のお賽銭を入れて、
『みんなが幸せになりますように、・・・、・・・、・・・、』なんてお祈りをしていました。
歩き出しから地図を見なかったのがいけなかったです。ぼくは、神社の建物の左手が東尾根の取り付きだったのがわかっていませんでした。その後も、現在地が地図上のどこかがわからない時間が長く続いて、完全に東尾根をとらえるあたりまでは
H講師に連れられている水鳥の雛の状態でした。
尾根は神社の所から北に向かってなだらかに続き、11時30分に北上する尾根が滝子山東尾根の下部にぶつかる所に着きました。そこから東尾根の上に乗るまでは三十度以上はあるかと思われる急な登りでした。ですが、多くの場面で、細い幹の木が丁度いい間隔で生えていてそれをつかんで登ることが出来ました。手の補助の分足で体重を持ち上げるのが楽に感じて、あえぐこともなくグングン高度を上げました。それはなんと百メートル登るのに十分のペースだったのです。
東尾根をとらえた所で大休止、例によってEさんが果物とおいしいお菓子をお裾分けしてくれました。
道を真西にとって(東尾根だから)小一時間ほど緩い傾斜を登りたまに下り、滝子山直下の三百五十メートルの所からはまたまた三十度以上はある、ちょっと岩っぽい、急な登りになりましした。踏み後があるから安心して進めたけれど、もし無かったらロープを出して慎重に進まなければならなかったでしょう。
午後2時30分、休憩した時間を引いて、取り付きから4時間30分で滝子山の山頂に到着しました。(J記)
November 25, 2005 箱根の山でヤブコギだい
湯河原駅の駅前広場を出て線路沿い方向に右に歩くこと2分の右手、線路沿いの敷地に公営の駐車場があります。一日中車を置いて千円です。この駐車場があるので、『湯河原駅にM氏車を置いてH講師車で箱根峠の登山口に向かう→神奈川県と静岡県の県境の山脈(道はほとんどない)を縦走して湯河原に下山→湯河原駅で解散→M氏車で箱根峠まで戻る→H講師車を回収』するという計画が出来上がりました。11月13日(日)がその計画の実施日です。
コースがほとんど藪に覆われているという前宣伝が効いて、前日近くまで参加メンバーは新入会員のA子さんにH講師とM氏の三人のみでした。
「女の子一人のヤブコギになっちゃうから行かない?」
という半ば強引な誘いに応えて、9月にバックアップ会員になったばかりのS子さんが加わりました。前日の11月12日(土)には北海道帰りのG郎君が参加を表明してきました。G郎君は夏の間、北海道の層雲峡にあるPホテルのフロントの仕事をしていてほんとは九月にはもどるはずだったんです。接客の仕事が好きで現実にその仕事が上手な様子だったのに加えて、何日も何日も、超深夜まで勉強して北海道と層雲峡あたりの地理を身につけちゃうようなタイプの人なので、初めてやったとは思えないほどに上手にフロントの仕事をこなして見せちゃったようです。それで、ホテル側の経営者サイドの人に本気で引きとめられちゃって、ホテルが暇になる11月になって、やっと帰って来れたんだそうです。夏は北海道の旅の最盛期、ホテルは毎日二千人以上のお客さんがいたそうです。G郎君がフロントの仕事してる様子を想像しつつ、その活躍をねぎらいたいです。
さて、湯河原を出発したH講師車は箱根峠から数百メートル手前の路側(箱根クラカケゴルフ場の南の縁あたり)に駐車しました。
九時に出発、車を置いたところから稜線に向かって、初めからヤブコギでした。二メートルを越える竹が十センチ四方に四本ははえているという高密度の藪でした。視界はまったくなく手(軍手をつけてる)と体でバリバリとかき分けて進むしかない状況でした。小さい支尾根をとらえて高い方へ高い方へと進み鞍掛山の山頂につきました。そこは、ちょっとだけ展望があって五百メートル南にある無線中継所の電波塔が見えました。
さらにバリバリと竹のヤブコギは続きます。その大半をH講師とG郎君が引き受けていました。入会して1年、バリバリの現役バックアップ会員のS子さんの出番があるだろうと思って期待していました。S子さんもやる気まんまんだったと思います。それで、S子さん、前を行くH講師に
「トップを変わりましょうか?」と申し出ました。
「竹が顔にはねるから、トップに立たなくていい。」とS講師は答えました。
『カックイイ…』と記者は思いました。
視界が開けて、無線中継所着11時、大休止をしました。そこから南東の尾根をとらえて、熱海から上って来る国道に降りました。国道は切り通しになっていて、側壁はほぼ垂直でコンクリートで護岸されている所だらけです。なだらかな斜面で歩いて国道に降りられるのはこの尾根だけ、もしこれをとらえることに失敗したら懸垂下降(だからこのコースは8mm30mロープは必携)で降りるか往路をもどるしかないのです。いくつか資料を集めそれと地図を読み込んで、事前にルートを見抜いて、それでもって見えないヤブの中でそのルートをとらえるH講師でした。彼のヤブの山踏破能力はすごいです。
13時、再び県境の縦走路に戻りました。きびしいヤブが続きます。五百メートル進むのに一時間くらいかかっていたみたいです。単調な地形で現在地がわからなくなって来ました。H講師は大木に登りました(真似してG郎君も別の木に登りました)。そして、右手に小さな人口湖を見てとって、その北西と南東側の縁の二方向から現在地を割り出していました。
15時に地図上の908.2mピークに到達しました。実はそこは本当の908.2mピークの50メートル手前に埋められた意味不明の四角柱の石(上に十文字の刻みあり)だったのです。その場所は視界もなく、これ以上縦走を続けると時間切れになることが確実になって来ていました。サブリーダーのM氏が、湖の北西の縁が切り通しになってないのはさっきの木登りによる目視でわかっているのだから人口湖に向かって進路を変更しようと提案しているのが聞こえました。
『ヤブの中を戻るのはやだな、でも仕方ないな!』と参加者はみな思ったと思います。
リーダーのH講師は縦走路の南方向側の偵察をM氏に依頼しました。偵察が済むまで、メンバーは大休止です。ところが、大休止にはなりませんでした。M氏は偵察から10分もしないで戻って来たからです。
「このちょっと先はパラグライダーの練習場になってる。そこから簡単に道に降りられるよ!」と報告して、下の前歯の凸凹の歯並びのギザギザを見せてニタリと笑いました。
『やったやった、ヤブコギから解放された』
大休止の後、出発、すぐに本物の908.2mピークの三角点を発見、そこから30メートル先は竹が借り払われて草原の斜面となり数機のパラグライダーが飛び立つ練習をしていました。コーチらしい人に聞いたら、
「風が強いから飛び立つことはしないよ」
ということで、ちょっとがっかりしましたが、とにかくヤブのない草原を歩けるのがうれしかったです。10分ほど西に下り国道に出ました。
「車の往来が頻繁だから、みんなで行かない方がいい!」と言って、メンバーをそこに待たせて、H講師は一人歩いて車の回収に向かいました。
小一時間ほどしてH講師車が到着、H講師車に乗り込み、奥湯河原温泉の日帰り入浴施設「こでん」でヤブコギの汚れをきれいにしました。入浴時間は一時間くらいでした。それでも女性二人は時間が足りないようでした(と思ったら違って、隣の煎餅屋さんに行っていたのでした)。同じ湯河原の日帰り入浴施設としては湯河原の東にある「ゆとろ」が有名だけれど、ここ「こでん」はほとんど知られていないらしくて、空いていて、落ち着けて良かったです。
湯河原駅に戻り解散。A子さんがざらめ煎餅を二枚づつみんなに配っていた。ざらめ煎餅が大好きなんだそうだ。
車で帰るH講師と次の日は幕岩に行くというM氏とG郎君と別れて、17時30分に車中の人となりました。(J記)
November 22, 2005 街の子さんと雪の山
この八月から山を始めた街の子さんは、中学校の林間学校で山みたいなトコロに行って以来○○年間、まったく山というトコロに行ったことがなかったそうな!それでもって、山以外のアウトドアスポーツの経験も、まったくなくて、ただ、ただ、自分の生まれた街で過ごしていたということだ。
時として思い余って、車に凝り出しちゃって、ポルシェを乗り回したことがあったんだそうな!
「ホント・・・ウソ・・・(意味不明)」だそうな!
それで、その街の子さんは八月中旬の時点では一つも山の道具は持っていなくて、またまた思い余って、山を始めることになった八月末、初めて買った山道具は沢登りシューズと毛糸の靴下だそうだ。 九月になって軽登山靴と雨具と磁石とヘッドランプを買い、ザックはどこかで借りて来た。オット、一昨日の鷹取山の岩場で見たらカラビナ二つとスリング二つ持っていた。またまた、「ホント・・・ウソ・・・(意味不明)」だそうな!。
さて、この街の子さんが本格的な雪山登山を始めようと思ったらどうなるのだろう?ガイドさんに連れて行ってもらえばたいていの山には行けちゃうけれど、装備は自前で揃えなくてはならない。
Timtamのホームページの「山の道具」のページを開いて必要な装備をコピペしてみよう。ついでに安くみつもって値段を計上してみよう。
登山靴(最も重要なので奮発して、最新のソフトブーツにする)///\50,000
スパッツ(ロングスパッツ、前開き、ゴアテックス加工)///\4,000
サングラス(プラスチックの耳掛けのやつ)///\2,000
ヤッケとオーバーズボン(冬使用のフードつき、ゴアテックス加工)///\25,000
雪山用帽子(ゴアテックス加工)///\5,000
目出帽子(フェイスマスクでもOK)///\3,000
オーバー手袋(ミトン型の安価…ICIオリジナル)///\3,000
毛糸手袋(暖かいやつはけっこう高い)///\4,000
毛糸手袋予備(日本の雪は湿ってるから予備が必要)///\4,000
クロロファイバイー下着上下(濡れても暖かい)///\6,000
アイゼン(十二本爪アイゼン…カジタ:国産)///\15,000
ピッケル(縦走用65cm→身長170cm対応…カジタ)///\15,000
ピッケルプロテクター(これがないと電車内で顰蹙を買う)///\400
テルモス(魔法瓶のこと、500cc入る小さいタイプ)///\2,000
日焼け止めクリーム(2月くらいから必要になる)///\300
-----------------------------
計138,700円だけど、これ以上にもっとお金はかかるはずだから、なんだかんだで200,000円はぶっ飛んで行くだろう。だから、『中高年のお金持ちで暇のいっぱいある人でないと雪山には行けない』なんて結論が出てしまう。事実、現在の山は夏も冬も中高年のお金持ちで溢れている。
変だよね、どうして30年くらい前までは中高年でなくて青年達が山に溢れていたんだろう、その理由はいくつかあって
1、登山人口が多かったから山の道具を先輩や友達から借りたり、借りもらいしたりしやすかった。
2、そのころはヒマラヤ登山をみんなが目指していたから、夏から冬山装備(皮製の重登山靴、厚手のウールのニッカボッカ、ウールの厚手のカッターシャツ、雨具は冬用のヤッケとビニールポンチョの併用する)を揃えてた。
3、冬はスキー人口が多かったからスキーの用具を転用出来た。
4、装備が悪いからそんなに多くの人が雪山に行ったわけではなかった(雪山に行くと称してスキーに行っちゃう)。
5、装備が良くないから体力の落ちて来た中高年は雪山には来なかった。
6、などなど・・・。
話しを戻して、例の街の子さんは中高年ではないと自負している。それだからそんなにお金をかけて雪山の装備は買わないのだ。体力もないし、経験も少ないし、装備もないし、この冬は岩登りでもやって(岩登りは乾燥した晴天が続く冬が旬だから)るのが正解だろう。なんてことを伝えると、かえって雪山へのあこがれで舞い上がってしまって、はてさて、なんとか方法を考よう。
登山靴→軽登山靴なら持ってる。
ヤッケとオーバーズボン→雨具上下なら持ってる。
雪山用帽子→実家に戻って両親や親戚がスキーに行った時に使った耳の隠れる毛糸の帽子を調達する。
目出帽子→目出帽子が必要になる山には登らないことにするか、マフラーで代用する。
毛糸手袋予備→こまめにオーバー手袋を使って手袋を濡らさなことにする。
クロロファイバイー下着上下→ウールのセーターとナイロンストッキングで代用する。
アイゼン→六本爪アイゼンなら4,000円で買える。
ピッケル→スキー用のストックを実家で調達出来るかも知れない、だめなら\2,000くらいで買う。
テルモス→実家にもどり台所をさぐって調達する。
サングラス→親戚のキザなおじさんから調達する。
日焼け止めクリーム→親戚のおしゃれなおばさんから調達する。
そうすると買わなくちゃいけないのが
4,000円…スパッツ
3,000円…オーバー手袋
4,000円…毛糸手袋(暖かいやつはけっこう高い)
----------------------
計11,000円で雪山用具がそろうことになる。
これで、東京の近郊の山(東京に雪が降った週の週末が狙い目)から北八ヶ岳までは十分にこなせる。アルペン的風貌の岩っぽい雪山でなくて頂上近くまで森に覆われているフカフカ雪の山を楽しむといいよ!
またまた&また、「ホント・・・ウソ・・・・(意味不明)」だそうな!(J記)
November 11, 2005 岩場への復帰大作戦
こんにちはスキーヤーのYosidaと申します。Timtamの会員ではないのですが、M浦さんからの依頼を受けて投稿します。よろしくお願いします。
私は11月の終わりから翌年の5月まで、各地のスキー場に出かけて行くとあるスキークラブの運営委員をしています。私達のクラブには夏になってもスキーをする人もいますが、その時期にはクライミングをする人が多くいて、私もその一人です。夏と冬でやることが違った方が面白いと思うからです。
今年の1月にポールの練習をしていたらいきなり腰が痛くて歩けないほどになってしまいました。医師の診断は「腰椎閉塞症」でした。腰椎がつぶれて椎間板が足の神経を刺激して痛くなったりしびれたりするというものです。スキーのやりすぎが原因だろうと医師も私も思っていましたが、150名(実動は60名)いる私のスキークラブの会員(内70名もSAJ指導員資格の保持者がいるんですよ)のだれも私と同じような症状になった人がいないのです。
クライミング関係の友人のKitadeさんに話したら、彼のクライミング仲間に私と同じような症状になった人が何人かいるとのことでした。激しいトライとそれにともなう衝撃的な墜落をくりかえすクライミングのビレーをするとその衝撃がビレーヤーの腰に瞬時に集中して、それで腰を痛めやすいというのです。そういえば昨年の夏場はKayさんとかYos君とかけっこう体躯の大きなクライマーのビレーをよくやっていました。彼らはルートの研究をしたり休んだりする時間をかなり長くとりながら日暮れまで飽きることなくトライを続けるパワーマンです。私は2~3本トライすると出来上がってしまってついつい大好きな昼寝をしてしまいます。目が覚めていきなりビレーした時の激しい墜落・・・、思い当たる瞬間があります。
3週間の入院と数ヶ月のリハビリとおとなしくする生活が続きました。この11月になってようやく数十分は山道が歩けて、トップロープでならクライミングが出来るまでに回復しました。たぶん5.10aくらいは登れそうなので、その辺が登りたいだろうM浦さんやKitaoさんを誘いました。バックパッカーのKitaoさんは紅一点、場をほのかに明るくするタイプの人です。さらに5.11が楽勝だけどシャイでなかなか登らないMoriさんを誘って万全を期しました。こうして、なんともやさしい雰囲気、間違ってもランジなんてしない4人のメンバーで越生の黒山鉱泉の所にある聖人岩に行くことになりました。TPOに合わせてメンバーを構成するのはスキークラブ運営委員である私にとっては得意の分野なのです。
さて、11月5日土曜日、聖人岩行の当日がやって来ました。
朝6時に流山のガンバウォール前の駐車スペースに3台の車がほとんど時間差なく到着しました。1台は私、1台はM浦氏、さらにもう1台はKitaoさんを乗せたMori氏車でした。車がついたのに気付いて出て来たガンバウォールのオーナーの渡辺さんと挨拶を交わして、2台の車をガンバの前の駐車場に置かせてもらい、渡辺さんの見送りを受けて、私の車1台で出発しました。運転は私です。助手席にM浦氏、そして後部座席にMoriさんとKitaoさんが乗っています。MoriさんとKitaoさんがなんとなくウマが会っている感じなのを見逃さない座席配置です。カーナビの行き先を黒山鉱泉にセット、自慢のスキーヤらしい切れ味鋭い運転で飛ばしました。バックパッカーのKitaoさんが自然のフィールドでのいろいろな体験をトウトツと話し、寡黙なMoriさんがいつもより多く相づちを打ちます。前の座席の二人は前だけ音を大きくしたFM放送を聞いて黙しています。
2時間かからないで黒山鉱泉に着き、東吾野に向かう峠越えの道方面に数分行った所の路肩、デリカワゴン4WDの後ろにスペースを見付けて駐車しました。デリカワゴンのリアーウインドウにM山塾と書いたステッカーを発見しました。M山塾は4年前までM浦氏が所属していたと聞いています。
「ヤバイ、M山塾が来てるから知り合いがいるかも知れない」とM浦氏はつぶやくように言っていました。なんでヤバイのか言わないけれどMoriさんとほぼ同じくらいシャイなM浦氏だからたぶんクライミングしている姿を見られたくないのでしょう。ロープや登攀具をザックに詰めて、沢ぞいに10分ほど登り、沢から離れて急な登りをさらに10分で聖人岩につきました。聖人岩は高さ20メートル幅70メートルでわずかにオーバーハングしている石灰岩の岩場です。岩場の下一帯は8メートル×70メートルの横長の広場になっていて快適です。カチャカチャと登攀具を準備してる音がする方を見たら、M山塾の人が二人見つかりました。
「いっぱいいなくて良かった。」とM浦氏はつぶやいて、その二人に声をかけていました。
その二人が5.8のルートにとりき、もう一つの優しい5.7のルートにも先行パーティがいたので後から来た我々はウォーミングアップするやさしいルートがなくなってしまいました。Moriさんは例によって寡黙でおとなしくて、なだめないと登ってくれないので、ここはM浦氏の出番だとおだてて、岩場の真ん中にある「おっとりマミちゃん5.9(これはからい)」を登ってもらいました。ビレーは私がしました。
『M浦氏の登り方なら大丈夫』と考えてのことでした。沢登りを得意とする彼は激しく落ちるようなことはしなくて静加重静移動のクライミングに徹しているからです。M浦氏は細かいホールドを使ってレイバックしたりしてなんとか無事にリードを終えトップロープを残してくれました。そのトップロープを利用して登らせてもらったけれど、残念ながら何回もテンションをかけてしまいました。昨年、「おっとりマミちゃん」を簡単にオンサイト出来たのに残念です。クライミングは半年も休むと休む前の二段階下のグレードがやっと登れる程度に力が落ちることを身をもって証明してしまうことになってつらいものがありました。
おだてに乗ったM浦氏のリードは続き、「ダイエットシュガー5.10a(これは甘い)」、「風の子カンテ5.10a」とトップロープを張ってもらって登りました。「風の子カンテ」ではテンションを数回繰り返して、腕の筋肉が限界になってしまいました。Moriさんはといえば、相変わらず寡黙で、私が登ってトップロープを引き抜いた後にKitaoさんの新品のロープを持って同ルートに行きKitaoさんのビレーでリードしてトップロープを残しKitaoさんを登らせていました。1日1本登るか登らないかという彼のペースはどこへ行ったのでしょう???。
我々のグループが「風の子カンテ」にいた頃、M山塾の2人が右隣の「梅ごのみ5.10b」を試登していました。試登が終わりレッドポイントする時に、Kitaoさんのロープで登ってもらいトップロープにして残してもらいました。M山塾の二人に「ありがとう」とお礼を言っても彼らはなかなかその場を離れませんでした。「梅ごのみ」のよく見えるあたりでコーヒーなんか入れてくつろいでいました。どうやらM浦氏の登りを見た後で近況報告を交換しようと思っているようでした。それで、二人の方から我々に話しかけて来たり、
「M浦さんの華麗な登りがみたい!」なんてプレッシャーをかけたりして来ていました。M浦氏は
「加齢な登りは出来ても、華麗な登りは出来ないから」とかなんとか答えていましたが、トップロープを張ってもらった以上登らないわけにいかなくて、「梅ごのみ」のトライを開始しました。ホールドの位置のアドバイスがM山塾の2人から飛んで、なんとか期待に応えてノーテンションで登り終えました。私は
『昔の仲間の前でノーテンションで登れて良かったね!』と心の中でつぶやいていました。M浦氏もさわやかな笑顔でそのつぶやきが聞こえたと伝えてきました。
卓上カセットコンロのボンベが使えるガスバーナー(ちょっと大きいけど車の時はいいですよ、カートリッジが安くて、手に入りやすいから)でお餅を焼いて(餅焼き網持参)食べたり、カップラーメンを作って食べたりコーヒーを入れたり、暖かい秋の山の中でくつろいで3時に岩場を後にしました。
その足で黒山鉱泉館に行って日帰り入浴させてもらいました。私は温泉が大好きなのです。温泉を楽しむ秘訣は肩まで湯につからないことです。温泉の達人は足浴とか腰浴をしながら心がどっぷり温泉につかっている状況に出来るのです。次に、越生の「一里飴」本舗の直営売店に寄りました。そこで、車を置かせてもらっているガンバウォールへのお礼を買いました。その後ちょっと渋滞したけれど、3時間かからずに流山に戻りました。(Yosida記)
November 07, 2005 クッキングワールドと鷲津山の岩場
晩秋から早春にかけて、冬型の気圧配置が多くなります。冬型の時には冬の北西の季節風が吹いて、日本海側に雪や雨を降らせ、太平洋側には晴天をもたらします。その太平洋側にある低山は樹木の葉が落ちて、青い空が見えて、暖かな日がさして、蚊やブヨのいない、快適空間に変わります。冬こそ岩登り&日だまりハイクの季節なんです。
11月3日(木・祝日)は曇りのち夜から雨の予報でした。朝6時、M講師率いる岩場偵察隊4名は東名高速を沼津に向かってトコトコ(軽自動車なので制限速度は80Km)走っていました。御殿場、沼津間は事故のため通行止めの表示が出ました。厚木で進路変更して小田原厚木道路から熱海に出て、さらに伊豆の脊梁山脈を山伏峠で越えて大仁には10時を過ぎて着きました。
大仁から林道に入り城山山頂付近の路側に車を止める頃に曇りの天気予報とか好天の特異日文化の日とかいう期待は裏切られてしまいました。空から大粒の雨がジャンジャン降って来たのです。仕方なく、雨具を着て、岩登りの用具は車に置いて、城山の山頂経由でクッキングワールドの岩場の偵察に向かいました。
高さ数メートルの岩場のくせに終了点は城山の山頂の景色を借景するので高度感がありすぎでした。眼下に大仁の街と鹿野川の流れを見て身がすくみます。
「ヒエー!」とか
「超コェー」とかそれぞれに発声しておりました。岩場の取り付きは日だまりになるような広場がありませんでした。残念!ルート図を出して確認しました。
『5.9が一本、5.10aが二本5.10bが一本で残りは5.11以上のルートかな・・・。』
『支点の整備状況は非常に良いな・・・。』
『白っぽい火山岩(噴出岩)で軽石よりはやや堅いかな・・・。』
『角の尖ったホールドはほとんどなくてスローパーみたいなのっぺりしたやつばかりだ・・・。』
【初心者対象の講習会が○日と○日にあります。】なんて看板が出ていました。地元のクライマーらしき人が二人いたから聞いてみました。
「ここの岩場は混んでますか?」「ここで講習をやってる個人のガイドさんが何人かいて、その講習のある時は混んでますよ」とのこと。
「二三人で登りに来てみるにはいいとこかもしんない。けど、チャートクライマーには向かないかな!」今回の偵察メンバーの一人のT氏が感想をもらすと、みな暗黙で同意したらしく、
「次に行こう!」とのM講師の言葉と城山山頂に戻ろうとするメンバーの歩き始めはどちらが先かわからないくらいでありました。
ちなみに偵察メンバーの岩登り技術を育んだ、奥武蔵の日和田山の岩場や東吾野の岩場、奥多摩のつづら岩や越沢(コイサワ)バットレスなんかは堆積岩のチャートの岩場です。チャートとは○○ツァイトという外国語がナマってチャートになったそうです(だからチャートは日本語です)。海の中の珪酸虫という虫が堆積して数億年を経て出来る岩です。珊瑚等の化石である石灰岩のカルシウムが珪素と置き換わっても出来るそうです。恐竜の時代の中生代やシーラカンスの古生代あたりに出来た岩で堅いものが多いです(風化すれば柔らかくなるけど)。
城山を後に国道○○号を沼津に向かいました。沼津アルプスの末端の山である鷲津山を目指します。国道414号線を北上し、ガイドブックに詳しい記載がない中なんとなく岩場のありそうなあたりで右折して、静浦小学校校門前の路側に駐車しました。北側に小高い山があって岩場らしきものが見えます。小学校の敷地の北の辺に沿ったの道を東に向かい、T字路に出てそこを左に曲がり、坂を登って行くと舗装路は行き止まりました。その、行き止まりからさらに上に向かって山道が続いていました。その山道を登ること数分でケルンを発見、たぶんそれと見抜いて左に踏み後を辿りました。十分ほど急な登りが続いて、いきなり視界が開けて、岩場の下の広場に出ました。
西日があたって暑いくらいの明るい広場で、四人の地元クライマーが登っていました。広場の北東側の正面は高さは15mくらい幅50mくらいのメインの岩場です。右に左に偵察していくつかルートを確認しました。
火山岩はリュウモン岩(白色)、安山岩(灰色)、玄武岩(黒色)の三つに大別されますのでたぶん安山岩だではないかと思われます。城山と同じ岩に見えますが、鷲津山の方が堅そうです。
ちょっと地元クライマーがいるだけなのに臆しちゃった、我らチャートクライマーはメインウォールから左に1分ほど行った所に、だれもいない三級の岩場(高さ10m)でまずはウォーミングアップしました。岩場の上からは海が見えます。広大な海と漁港と沖行く船の白い航跡の作る景色は城山のオドロオドロしい景色に震えた我々に癒しを与えてくれるものでした。
三級の岩場からさらに三分ほど行った所に涼しい日陰の岩場を発見、5.9と5.10aのルートがあるのでトライしました。「偵察で怪我はしたくない!」とかM講師はつぶやき彼の自慢のクワガタ虫型の高速セットが出来るヌンチャク(クイックドロー)をゾンデ棒(雪崩捜索用)の先にテーピングテープでくくりつけ、上の支点にプレクリップしました。
プレクリップ用具は海釣り用の釣り竿で自作するのが良いのですが釣りをやらないM講師はゾンデ棒を利用するのは回生のアイデアであったらしくて。
「これがあればトゥエルブだってサーティンだって登れちゃう!」と笑顔満面、得意満面。
『ただのチョンボ器じゃない・・・』と言おうとして止めた、M講師ももう歳だ、少しは労ってやらねば。
二つのルートを四人が交互に登って、メインの岩場の左のはじの5.10aを登って帰ることにしました。例によってプレクリップして登ったのですが、プレクリップして良かったです。5.10aなんてぜったいウソで歯が立つ者なし。けっきょくプレクリップ人口登攀で終了点まで行きヌンチャクを回収して終了16時となりました。
「安山岩にサンドバックされちゃったね。」
「岩が柔らかいからグレード変わっちゃうんだね。」
「こんどの土曜日は石灰岩の岩場に行こうや。」
「そうしよう、そうしよう」などといいながらもときた踏み後をスゴスゴと戻るチャートクライマー達はそれなりに意気盛んです。(J記)
October 31, 2005 マイカーVSタクシー
10月30日(日)の箱根外輪山縦走のハイキングに行って来ました。
10月29日の昼すぎから雨、夜にも雨が残りましたが、早朝には上がって来ました。6時20分M講師の車に乗せてもらって港区発、天気は完全に曇りとなりました。首都高から東名そして小田原厚木道路を経由して小田原に7時30分すぎに到着しました。駅の近くのファミレスで朝食を食べて、集合場所の小田原駅改札口に向かいました。集合時間の8時20分には今回のメンバー男性2名女性3名がそろいました。
メンバーはH講師とM講師の二台の車に分乗して箱根湯本に行き、そこにM講師の車をデポ、H講師車1台(8人乗り)に全員が乗り込んで御殿場方面に向かいました。
ここで、二台のマイカー利用して下山口に一台を置きもう一台で登山口に向かい、下山した後に下山口の車で登山口の車を回収する方式について書いておかねばなりません。この方式は交通の便が悪い所に入下山口を求めることが出来るので、訪れる人が少ない静かな山を楽しめる可能性が高くなるというすぐれものです。同じことをタクシー利用で行うことも可能ですが、帰りのタクシーの手配が課題になるのと、格段に交通費が高く(タクシー代はマイカー利用のガソリン代の二十倍をゆうに超えます)なるのがつらいです。
*この方式には交通事故というリスクがあることは忘れてはなりません。*
H講師車は乙女トンネルを抜け金時山への登山口をとらえました。ところが、登山口の駐車スペースが鎖で封鎖されていたのです。向かいの和食レストランに駐車場を使わせてほしいと頼みに行ったのですが、断られてしまいました。やむなく、登山口から御殿場方面に200メートルほど行った所の右側にある広めの路側に駐車しました。道は国道1号線で車の通りはものすごく多いのです。路側への駐車は大きな心配の種となりました。
登山口から登り始め、乙女峠を経て一時間強で金時山の頂上に到着しました。山頂は反対側の林道経由の最短コースから来たハイカーでいっぱいです。ざっと五十人いや百人はいたかな?箱根山と富士山は雲の中で見えず芦ノ湖とその周辺の箱根の温泉街とゴルフ場はくっきりと見渡せました。紅葉は色付きまであと一週間はかかりそうです。金時山からは明神ヶ岳、明星岳へとほとんど人に会わない静かな縦走路でした。富士山こそ見えませんが相模湾まで見渡せて、絶景の中の稜線漫歩です。
遠くから見ると稜線上の草原の中に道があるように見えるのですが、近づくと背の高いしの竹の藪の中を行く道でした。このしの竹を束ねて乾かし、毎年八月十六日に箱根の大文字の送り火の薪にするのだそうです。明星岳の中腹には大文字の形をした草原がありました。
乙女峠から湯本まで行つもりでした(コースタイムで9時間)。明神ヶ岳の山頂で午後三時を回っていたので、明星岳まで行って宮の木にショートカットすることにしました。ヘッドランプを出すころに宮の木バス停に下山しました。湯本までバスで帰るということでバスを待っていたら、近くの駐車スペースにいたタクシーの運転手さんから声をかけられました。
「お客さんたち、フリーパス持ってるの?」
(箱根には自由にバスに乗り降り出来る乗車券がある)
「ゥニャッ、持ってないです。」
「どこまで行くの?」
「湯本。」
「湯本じゃ込んでるからダメだ・・・ブツブツ・・・」
ぼくらは到着したうれしさでタクシーの運転手さんとの対応がおろそかになっていました。空のタクシーがそこにいたことは超ラッキーで、いずれぼくらから声をかけただろうに、運転手さんの方が早まって先に声をかけて来ました。
「・・・湯本までタクシーに乗っていかない?」
「だって五人いるよ。」
「五人でもいいから!」
「一人五百円でいいよ、バス代より安くするから!」
というわけでずいぶん安い値段で、定員オーバーまでさせてタクシーに乗っけてもらうことになりました。
湯本までのバス道路は渋滞中でした。運転手さんは何回も近道をして数百台は抜き去ってしまいました。あそこのホテルに長島がよく泊まるとか、今日の売り上げが二万二千五百円で、そのうち半分は会社に持っていかれるとか、ゴルフが趣味で箱根にいるとか、昔はタクシー御殿を建てた人もいるがいまは年金と合わせて食べられる程度しか収入がないとか、娘が埼玉のやつかに住んでて、自分は栃木の出身で栃木に帰る時は浅草から東武電車だとか、箱根駅伝が1月にあってずいぶん稼がせてもらってるとか、二月と三月は暇だとか、ひたすらしゃべりまくっていました。ぼくらみんなであっけにとられて話しを聞いているうちに湯本に着きました。運転手さんありがとう。(J記)
タクシの利用も マイカのそれも 光と陰ある 箱根の紅葉
October 15, 2005 北岳の話し
「山登りをやってます。」というと、
「エベレストは登ったことありますか?」と返される。
「とてもとてもぼくなんかが行ける所ではありません。」と答えると、
「じゃあ富士山はどうですか?」となる。
「富士山なら登ったことがあります。」というと、
「いい趣味をお持ちでうらやましいですね。」などど言って次ぎの話題に転じられてしまいます。
一とか百とか千とかの数字にこだわる人が多いです。谷川岳に行くと朝の土合駅で千回おじさんに良く合いました『智恵子一番、谷川岳二番』『谷川岳1000回、786回目』などと書いたガムテープを服に貼り付けているのですぐにそれとわかりました。千回おじさんが谷川岳千回を達成した時はNHKテレビで報道されました。報道によれば休むことなく谷川岳二千回登山に取り組んでいるとのことでした。現在は二千回登山を成功させ三千回登山にいどんでいるようです。
数字にこだわれば数字に拘束されるわけで、千回という達成感やテレビ報道されることなどと引き替えに谷川岳以外の山々に登ることで得られる別の山々の恵みを得る自由を失ってしまいます。少なくとも今の私は数字にこだわった山登りはしないように努力しようと思っています。それでも自然の岩場の5.11を登りたいなんて願望が消せなくて、意志の弱さになげくのです(不惑の歳はとうに越えたはずなのに)。
富士山は一番高い山で、そこに登ったから二番目に高い山に行こうと思いました。十九歳の七月(1969年)のことでした。南アルプスの北岳(3192m)がその山だと、誰に聞くともなく知っていて、その山を目指しました。ブルーガイドという登山のガイドブックの南アルプス編を買い込み、北岳へのルートを研究しました。池山吊り尾根からボーコンの頭を越えて北岳に登り大樺沢を下るコースが玄人ごのみでいいなどとある丁寧な案内文(コースガイド)があって、そのとおり行くことにしました。
大樺沢は雪があるというので先輩からピッケルを借り、二尺四寸のキスリングにビニロンの三人用のテント、シラフ、一泊二日の食料などを詰めて同級生三人で出かけました。中央線の夜行電車で甲府に行き、山梨交通のバスターミナルにあったベンチで仮眠しました。翌朝、広河原行きのマイクロバスに乗って深沢下降点下車、野呂川まで百五十メートル下って、吊り橋で対岸に渡り百五十メートル登り返してようやく吊り尾根コースの登山道をとらえました。池山御池小屋を過ぎ、ボーコンの頭に達したころに夕方となりました。当時はビニロンとか綿とかウール主体の縫製品、ホエブスにハンゴウに生米に、水2リットル、弁当箱くらいの大きさのラジオ・・・なんていう装備でしたし、よけいな荷も多くてずいぶんと時間がかかってしまったのです。ボーコンの頭の這松の茂みの間にテントが張れそうな所を見付けてテント泊しました。酒もほとんど?飲まない年齢、理系の少年ばかりの話しべた、夜行の寝不足もあって19時には三人ともシラフの中で爆睡してしまいました。
朝が白む前に起きました。テントは薄黒い雲海の上にありました。東の空が紫になり雲海はピンク色から茜色に染まりはじめていました。テントから出て、ビニロンのヤッケを着て、寒いはずなんだけど暖かくしていっぱい寝たからか寒さを感じなくて、ずっとずっと、雲海の色の変化を見ていました。黄色に光りまぶしく太陽の上端が顔を出して、雲海を朱色に染めました。赤い海はほんの数分、こんどは白い海となりました。太陽が登りました。太陽のすぐ右隣に富士山が並んでありました。朝です。
テントを撤収して、難関と言われた八本歯の悪場も楽勝に越えるころ、太陽は空高く昇りいつのまにか雲海も消えていて正面の視界はでっかい北岳に八割も覆われていました。真正面に北岳バットレスの岸壁が三千百九十二メートルの頂きから垂直に六百メートル切れ落ちて大樺沢の雪渓の上に至っているのが見えます。あんな岸壁を登る人がいるそうな。
八本歯のコルに重荷を置き頂上を往復して、ぼくらは大樺沢の雪渓を下り始めました。トップを行くK君がいきなり逆さまになって滑り落ちて行きました。頭が下になってキスリングの上に乗っかっています。キスリングが雪車になってスピードがグングン上がりかけていました。「K!」と叫んでぼくも尻で滑って追いかけました。雪渓の上に漬け物石みたいな落石が所々にあってKが頭をぶつけないか心配です。スピードが出てきたのでぼくはピッケルを使って本で読んで知っていた滑落停止をしました。滑落停止で止まったんではなくて傾斜が緩くなって止まりました。大樺沢の源頭は出だしは四十度くらいの急傾斜ですが三十メートルも行かないうちに二十度に満たない緩さになっているのです。K君も頭を下にしたままで止まりました。怪我はしていませんでした。今から思えば三十メートルも滑っていないのですが、三百メートル滑ったみたいな気持ちになって雪渓の上に立ちました。足がカタカタ震えて背中が曲がって真っ直ぐに立てませんでした。三十分ほど休憩したら、元気が出てきて、何事もなかったように大樺沢を下り、広河原に出てマイクロバスの車中の人となりました。(文:M浦)
October 14, 2005 モミソ沢とホームページ
先週の日曜日のモミソ沢の講習会にTさんがゲスト参加されました。Tさんは素敵なホームページを作っておられて。モミソ沢の記録をそのホームページにアップしたと連絡してくれました。Tさんの了解を得てTimtamの沢登りのアルバムからリンクを張りましたから見て下さい。モミソ沢のページを見たら、アドレスバーにあるアドレスの下位のスラッシュ以下を消してリターンキーを押してTさんのトップページに行ってみて下さい。Tさんがいろいろなジャンルの山に行っている方だとわかります。山行記録を見ていると「木風舎」「イエティ」「風の谷」などの山岳ガイドが開催した講習会にいくつか参加されていることもわかります。Tさんは自分の山の行き方をほぼ確立していて、どの登山教室とかどのガイドとかにこだわらないで自分の行きたい山で講習会を選んでいるのです。
Tさんのように行きたい山で選んガイド登山をするスタイルが確立されてきているように感じています。日本山岳ガイド連盟とアルパインガイド協会とが合流して環境省の傘の下で日本山岳ガイド協会として正式に発足してもうすぐ3年、日本の山岳ガイド達のガイド技術のレベルが安定していて信頼出来るものになっている証しのように思えてうれしくなります。
ガイド山行に参加するのに行きたい山で選ぶのではないタイプの人がいることを付け足しておきます。Otさんの講習は絶対に行く、Esさんのそれはよさそうなとこがあったら行く、Yoさんの講習には二度と行かない、なんて感じで何人ものガイドとお試し山行をして、それで、お気に入りのガイドを選んで行くタイプです。Yaさんの講習なら高尾山の山歩きから横岳西壁の冬季登攀までみんな参加しちゃう。ついでに海外の山までどこまでもついて行くという感じです。熱烈なファンクラブみたいなのかな・・・?。
Timtamは登山教室、山をガイドするというより山の技術を伝えることに比重を置いています。初心者の方に技術を系統的に伝えて、いずれ自分で行けるようになってもらおうというものです。若い登山者をたくさん育てたいなんてもくろんでいるのです。それで、Timtamが一般募集する講習会は初心者の方が対象となるように注意深くレベル設定がなされます。今回のモミソ沢もそういうレベルでしたから、たくさん山に行っていて初心者ではないレベルにあるTさんはゆとりを持って、記録をつけ、写真を撮りながら、アケビまで見付け(食べちゃった)ながら、楽しく参加していただけたものと自負しています。(文:M浦)
October 11, 2005 体育の日三連休と秋りん
1964年10月10日午後1時、東京千駄ヶ谷の国立競技場を舞台に東京オリンピックの開会式が始まりました。ぼくらはその開会式のテレビ中継を見ていました。貴賓席の皇后様が隣にいた天皇陛下をつついて空を指差しました。
「空だ!」と叫んで、ぼくらはいっせいに家(港区に住んでいました)の外に飛び出しました。見上げる青空に五機のジェット機が五色の輪を描き出す途中でした。以来、10月10日は国民の祝日の体育の日となりました。四十年を経て10月10日は何度も何度も晴天だったために好天の特異日と言われるようになりました。
三年ほど前にハッピーマンデー法というのが成立しました。成人の日と海の日と敬老の日と体育の日はそれぞれその日のある週の月曜にシフトして土日月の三連休となるのです。体育の日三連休には、一泊か二泊の沢登りに行くのがいいですよ。産女川、米子沢、恋の岐川、虎毛沢、中門沢、葛根田川、大深沢・・・水の流れと紅葉のマッチングが最高です。
月曜にシフトしない祝日のことに寄り道します。正月元旦、春分の日、秋分の日は暦の上で確定された日です。建国記念日も暦が関係していて旧暦の1月1日らしいです。みどりの日は昭和天皇の誕生日、文化の日は明治天皇の誕生日、12月23日は現在の天皇の誕生日、勤労感謝の日はもしかして大正天皇の誕生日かも知れませんが未確認です(ちなみに皇太子の浩宮様の誕生日は2月らしいです)。子供の日は憲法記念日とならんで20年ほど前に出来た法律で三連休に確定されています。
さて今年の体育の日の三連休、関東地方の天気は良くはありませんでした。秋雨という人もいますが正確には秋りんのためです。夏の初めの梅雨と同じ理由で夏の終わりにも停滞前線が日本の上に乗って、梅雨のような雨期(秋りん)となるのです。台風に蹴散らされて目立たないことが多いので、秋りんはあまり知られていない天気です。
7日の金曜日の夜からしとしと雨、8日未明に上がりましたが、夜からまたしとしと雨、9日の午前中に上がりましたが、10の未明から本降りの雨で朝9時に上がり、午後1時に再度振り出してしまいました。
三連休の一日目は日和田山の岩場に行きました。岩の下半分は濡れていて、上半分の一部のみが乾いていました。ぼくら5人と他には3人しかいないので、男岩南面を全占拠してロープワークの練習をしました。途中でピッチを切ってハンギングビレーをするのとダブルロープを引くことをしました。重箱というルートの所だけが乾いていたので午後はそこにトライしました。15時には終了しました。
二日目はモミソ沢の沢登りです。本降りの雨の中で行けるとこまで行こうということで沢に入りました。意外にも水は少なめで濁りもなく、そのうち雨も上がって、楽しく遡行することが出来ました。ほとんどの滝にフリークライミング用太いステンレスのボルトが打たれていて、神奈川県の登山指導センターあたりの講習会用に整備されているようでした。最後の大滝は上の方の抜け口が難しいです。A0しないで抜けられたらたいしたものです。この大滝の難しさとそれを越えるたために支点多く打たれていて安全にその難しさを楽しめるのがモミソ沢の人気を支えているのだと思いました。
三日目は広沢寺に岩登りに行く予定でしたが、雨なので、人口壁(ストーンマジック)とモミソ懸垂岩とに分かれて出かけて行きました。ぼくは懸垂岩の方に行きました。雨が上がって2時間後だったのですが、懸垂岩はけっこう乾いていて。Ⅳ級程度のルートを岩登り初めての人(21歳)と岩登り三回目の人(21×2歳)と登りました。懸垂岩も太いステンレスボルトが打たれて、初心者の岩登り講習用に整備されていました。午後1時にまた雨が降ってきたのでおしまいにしました。懸垂岩は水無川の河原にある側壁です。夏の暑い日に水浴びしながら登るというプランを思いつきました。(J記)
October 04, 2005 丹沢・早戸大滝から本間の頭
Ht講師がTimtamにデビューしました。東京近郊の山をたくさん歩いて来た経験を生かしてハイキングとスノートレッキング部門を担当してくれることになったのです。その第一回目の講習会は丹沢観光センター~早戸大滝~太礼の頭~円山木の頭~本間の頭~丹沢観光センターという環状コースをハイグレードハイキングするというものでした。さっそくその講習会に潜入して来ました。以下、その取材記です。
中央線の高尾駅改札口に朝8時20分に集合とあったので参加要項に指定された電車(中央特快)に乗って高尾駅に到着しました。電車を下りたら、なんかオーラを感じたのでその方向を見たら、
『いたー!』あの“時代遅れ沢ヤ”のIn氏だ、
「おはようございます。」とボク。
「ハイ、出口はどっちやろ思いましてん、電話しますわ。」、In氏は携帯電話のダイヤルをヒトサシ指で押しながら答えた。
「南口に行った人を集めていてくれ言うてはりますわ。」
南口で下りると新入会員のHmさんが待っていた。チェックの上着にうすいベージュのズボンをはいてシックな感じのステキな女の子だ。In氏が“歳なんぼ!カレシイテル?”なんて聞いたらヤバイかんじのたぶん20代。
(注)In氏はこの日はそういう質問をすることはありませんでした。どちらかというと、いつもよりズット無口で、オーラーも少なめでさわやかでありました。
他の人は北口に行ったらしい。In氏の携帯に電話が入った。
「南口で待っとれいうてはります。ホナ、しょんべんしてきますわ。」
『トイレと言えばいいのに・・・』と思った。
南口にHt講師、M講師、In氏、Hm氏、Yoさん、Hmさん、Enさん、それにもう一人の新入会員のYaさん(街の娘)の7名ががそろい、Ht講師とM講師のマイカーに分乗して丹沢観光センターに向かった。約70分のロングドライブだ。
マイカー二台に分乗する方式を最大限に展開するのがHt講師のハイキング講習会の良い所で、10月末の箱根外輪山とか、11月の天城山とか、12月の足尾の山なんかはどれもマイカー分乗方式がとられている。下山口に車を置いて来てから登山口に回り、下山後に登山口の車を回収するという方式だ。マイカーでアプローチすることでたくさんの「静かな山」「地図をたよりに自分の知恵で登る山」に日帰りか前夜発日帰りで出かけて行けることになる。ガソリン代や高速代の実費を参加者全部の頭数で割って精算してくれるからものすごく安上がりだ。問題は交通事故、タクシー分乗とは異なるリスクがあることを参加者みなが承知していなければならない。
丹沢観光センター前に車を置き、早戸川ぞいにつけられた登山道を登って行く。整備されていない道なので、途中で早戸川を横切る箇所が何回も出て来て大変だった。細い丸木橋を四つんばいになって渡ったり、靴を脱いで水に入って渡ったり、石を投げ込んでそれを踏んで渡ったり、けっきょく新入会員のHmさんとYaさんは靴の中にどっぷり水が入ることになってしまった。Yaさんは腰までびしょぬれで『キャピキャピ!』とはしゃぐしまつだ。
2時間ほどで早戸大滝に出会った、100メートルもありそうなでっかい滝だ、丹沢の滝じゃないみたいでびっくりした。滝の左の急な道を登って行った。Ht講師はHmさんをロープを結んで守っていた。
『やさしい感じがいいんだワン!』ぼくはつぶやいた。
早戸川を離れて、踏み後のような急な道を登ること90分で太礼の頭に到着、大休止、Hmさんがコーヒーをドリップしてくれて。M講師のベークライトのお椀で飲んで、『おいしい、おいしい!』でありました。
円山木の頭を越えて本間の頭まではりっぱな登山道だった。『高速道路みたい!』なんて安心していたのはほんのつかの間だった。本間の頭から通行止めの看板を越えて丹沢観光センターに向けて廃道を下るのだ。
廃道はしばらくは廃道らしくないやさしい感じのゆるやかな下りの小道だったけど、鹿よけの柵の縁(横に出てる針金注意)を行くようになるあたりから、踏み後がまばらにななってきた。それでも赤いリボンが行くてを示していたけれど、いきなりリボンがなくなってしまった。
「チョット登り返します。」とHt講師。
「道のパターンが変わったらそこでは注意が必要です。」と説明してくれた。
皆を待たせて、偵察して、「ここの尾根を下ります。」とのことだ。
『リボンないのにどうしてわかるの?』とぼくは思った。しばらく下るとリボン発見、『すごいな!』。
踏み後のあまりない尾根を下るうちにだんだん暗くなってきた。
「ヘッドランプつけて下さい」とHt講師、
「私、そんなの持ってません」とYaさん、
「予備を持ってるから大丈夫」とHt講師、、
『ヘーッ、予備持ってんだ!』と思ったボク。
真っ暗な中をヘッドランプの明かりをたよりに下ると沢に出た。『もしかして、沢を下るの?』と思っていたら、
「チョット待って」と偵察に行き、すぐに戻って
「コッチ、コッチ」とHtさんが言う。
Htさんについて行くと水に入らず沢が渡れて、ちょっとヤブに入ったと思ったら、そこからしっかりした道になって、10分も歩かないうちに丹沢観光センターに到着した。18時20分だった。(J記)
September 28, 2005 ヒゲフジさんからの電話
いきなりヒゲフジからぼくの携帯に電話がかかってきた。彼は大きな交差点にいて携帯電話を使っている。友人のトビシマさんに電話したらしいけどぼくに電話がかかってしまった。
「今、○○町、△△橋の方に歩いてくから、セブンイレブンの前で待ってて」
「ヒゲフジさんぼくはトビタだけど」
「アッ!」といってプツンと切られた。
すぐに電話が来て、
「アー、すみません、間違えてかけちゃって、来週の火曜にまた□□ウォールに来るんだけど、来ませんか?」
ちょっと前から人口壁に興味があったぼくはヒゲフジの誘いに乗ることにした。
次の週の火曜日、地下鉄の○○町で降りて、△△橋方面に歩いて、コンビニまで来たら、大通りを渡って、橋をわたって、そこから携帯電話でヒゲフジを呼ぶと、半袖、タンパン、サンダル履いて、迎えに来てくれた。いかにもあやしい倉庫みたい所が目指す人口壁だった。入り口で2000円を払い、非常階段みたいな鉄の階段を3階まで登ると更衣室があった。着替えて下りて行くとロープワークの講習があるという。店番のオニイサンに
「ハーネスを着けて下さいと」言われて、自慢のシットハーネスを出して。
「これでもいい?」と聞いたら、
「ウウウ!」と悩んで、
「安全環つきのビナをここと、この上の所につけて使って下さい。」なんて、言ってくれた。
実は、店番のオニイサンに、ぼくはロープワークはバッチリ出来るんだと、使い込んだシットハーネスの渋い輝きでアッピールしたかったんだけど、「ウウウ!」だった。グリグリとかいう山には持って行くには重たい器具を使ってトップロープの確保の方法を習ったら講習は終わりで後はフリーに練習して下さいとのことだった。
ヒゲフジはドコと思えば、三メートルぐらいの低い壁の前にへたりこんで、右手を上げたり、左手を上げたり、車のハンドル回すみたいにしたりしていた。いきなり両手ででっかい手がかりを持ったら上の手がかりに右手が伸びて、足がごそごそ動いて、左手が伸びてその上の手がかりをを持って、足がごそごそするうちに左手がジタバタしてきて。ポテッと落ちてはにかんだように笑って、こっちに来た。
「やさしいから、これやってみな!」
「ヒゲフジのまねすればいいの」
「両手で持ってからスタートだよ」
「両手は持てるけど、足を下の足がかりに置けないよ」とぼくがジタバタしてると、
「スタート核心だね!」とヒゲフジはつぶやいた。
ぼくがあきらめて壁から離れたら、すーっとカッコイイ感じの痩身の男が来て、ネコみたいな足の動かし方しながら登りだして、テナガザルみたいにぶら下がってたりなナマケモノみたいゆっくり動いてなかなか下りて来ない。やっと下りたと思ったら、また別の痩身の男が現れてこれも長い間下りない。やっと下りてそいつは同行の痩身の女性と話し始めた。カッコよさでハートマークのその女性がいきなり進み出て、テナガザルナマケモノでさっそうと登ってて、・・・。
なかなかぼくが行くタイミングが来ないけど、スキを見て行って、両手持ってジタバタして、そいでポテッと落ちたら、また例のやつらにあと3人ぐら似たようなのが加わって、それぞれがテナガナマケしてなかなか壁から離れてくれない、ぼくはと言えば気持ちが臆して来て出番がとれないのと。2回しか登って?ないのに腕の手首から肘のあたりの筋肉の力がなくなってしまっていた。2000円払ったから仕方なし、二時間はねばってやるぞとは思って、根性、根性、ウー!根性。
「経営者としては会社帰りにやって来てボルダリングの上達に地道に専念する人を多く作りたいのだろう。だから、初心者が来たらそういうボルダリングがちょっとうまい人になりたいと思わせる必要があるんだ。だけど、ぼくみたいにちょっと太ってて、体が硬くて、運動神経が鈍そうなタイプで、初老だとしたら、うまくなる可能性はかなり少ないからその人達は意識はしてないだろうけれど、『はじいちゃう感じ』になるんだろうな。」
二時間の時間が経つのを待って、
「オヤジのヘルパーさん帰っちゃう時間だから、先に帰るよ!」
とヒゲフジ達に介護が必要になった父のためという半ば本当(回避しようと思えば回避出来る)の理由を言って、○○町の駅を目指した。途中のコンビニに「酒」と書いてあったので立ち寄って、ワンカップのお酒の高い方のやつ(225円)を二つも買って、地下鉄がすいてたら飲むことにした。(文:T)
September 27, 2005 高尾山森林走遊学大会スタッフ参加の記
9月24日(土)朝9時30分に京王線の高尾山口に到着、駅前に大きな駐車場があったので、それっとばかりに駐車スペースに入ったら係員のおじさんが二人もやってきて言うことに、「前金で千円です。」
“ヤバイ百円じゃない、ケド、もう停めちゃった、千円払うっきゃないか。”と思ったけれど、なぜか勇気が出てきて、
「そんなに長く停めないんです。」とぼく、
「それじゃここ出た所に停めときな」とおじさん、
“アー、良かった”
駅前のロータリーの出口の所に右に寄せて車を置き知ってそうな顔を探すと、SiさんとKaさんは名前がわかって他に数名の男女がいて歓談中。
「おはようございます」と挨拶したら、Siさんいきなり
「Yさんがウチの会(横須賀山岳会)に来たんで、どこにいたと聞いたらTimtamにいたっていうからTimtamなら知ってるからと思って入会させたんですよ。若い人、少ないから良かったですよ!」
“ゲッ!横須賀山岳会にトラバーユ?ヨーロッパとかヒマラヤ帰りのモサ連中のおじさん達の中入って大丈夫じゃないんじゃない?ヤバインジャン?”なんて思ったけれど、
「Yさんはけっこうしっかり歩けるから」と良い所を伝えるべく話しをした。
「そうでしょうね若いから」とSiさん(62歳)は若いを連発。
“マア仕方なし!”
10時に16名ほどのメンバーがそろい、マイカーに分乗して国道20号を相模湖方面に向かう、大弛峠の手前一キロメートくらいの所に普段はゲートの閉まっている林道入り口があって、右折して林道に入ると五百メートル行かないうちに林道左手の林野庁のビジターセンターに出会う、そこが本部である。本部の展示スペースに集合、本日の作業内容を確認しているころ、屋外は本降りの雨となる。台風が接近し秋雨前線を刺激して明日の昼まで激しい雨が続くという予報だ。
いっこうに中止という話しが出ないから、変だななんて思ってたら、この高尾山走遊学大会は雨の特異日の9月の最終週に毎年行われていて、これまで9回の大会の歴史のうち3分の2は雨の中の開催、だから、雨の中を走るのを楽しみにしてるランナーがリピーターに沢山いるほどの雨大会なんだそーなの話しあり。
“ガンバンネバナンネシ!”とカクゴ&覚悟!
参加賞(パンフレット、広告、ドリンク二本、Tシャツ)の袋詰めや床のシート張りなどが始まったけれど、我ら元気者隊はコースを示す矢印看板が木に結べるように紐をとおす作業をの後は豪雨の中外へ出た。工事現場で使うブルーシートをタープとして空に張りそれを8枚も連結して大きな雨よけ広場を作成、作成が終わるには僕はぼろいの雨具のおかげで全身ずぶぬれ状態になってしまっていた。
元気者隊は車に分乗して森林マラソンのコースに出た。コースを示す矢印看板を木に結び、水たまりは水路を掘って水を流し出し、へこんだ道に土をかぶせ、滑りそうな丸太は砂で磨いてコケを落とすなんて作業が続く。ボランティアでみんな参加してて、すごく生き生きと作業してるみたいでうるわしい感じがする。NIAJ(Timtamの所属する山岳ガイド協会の下部団体)会員の義務だから仕方なしなんて思って来てる人はいないみたいだ。100人近い会員がいるのに20人弱しか来てないわけが見えてきた。“チョッピリいやだけど、ボランティアの気持ちをしっかり持って、来年も来よう”などと思うほどに元気者隊の方々に感化されてしまった。でも、ぼくにはボランティアでなくてコミニケーションアップ(後述)という大事な目的があるのだ。
夕方五時に作業が終わり、20号線を高尾方面に戻る竹林亭という高級料理屋の看板を右折し林道を行くこと10分の所にある林野庁のりっぱな宿泊施設に到着した。施設の場所を確認してから、ぼくは車で高尾山口駅前のコンビニとガソリンスタンドまで往復した。寝酒とつまみを買いガソリンを満タンにして、メール圏内に戻っているのでメールチェック、
“来てる、来てる、あの街の娘のYaさんから、そして、In氏から、Hm氏から”いそぎ、返信を書く。ぼくは返信をいっぱい書く人なので時々ヤギさんの歌のような連続返信になってしまう。
“クロヤギさんからお手紙ついたシロヤギさんたら読まずに食べたしかたがないからお手紙書いたさっきのお手紙お話なあに!シロヤギさんから・・・”頭の中をヤギさんの歌が数回くりかえすうち、車は宿泊施設に戻っていた。
夕食の弁当は大きな鮭が入っていてうまい。酒類は飲み放題で、ボランティア山ヤ軍団はそろそろ饒舌になり始めていた。NIAJ会長のAm氏は焦って、みなを招集し今後の予定等の打ち合わせをさせた。NIAJの顔である今井通子氏が登場、「走遊大会の参加者(マラソンは700人、ハイキングは7名)が地元で買い物をすれば、それが廻り廻って森を守るお金になる・・・」などと挨拶をする。
NIAJには今井通子氏等の海外遠征のスタッフから山岳ガイドに転じた人が多くて、海外遠征で富士山よりずっと高い所に行くタイプのせいなのか、みんな太っててマッキンリー13回登頂のOk氏とか前記横須賀山岳会のSi氏やKa氏もフトメンアジツケ体型をしている。ちなみに、ぼくは普通体型だ。唯一(有)ミゾーの社長のMi氏だけは痩身だ。アイスクライミングバイルミゾーの開発者らしい。
打ち合わせが終わり、救急薬品とかタオルとか給水用の水とかコップなんかの荷物の積み込みが終わったら山の人らしい車座になっての宴会が始まった。お酒に弱いぼくは、少し飲んで早々にシラフに入る宴会の盛り上がりは深夜12時まで続いたらしいけど朝早く起きて眠かったぼくは宴会の轟音をものともせず9時には寝てしまった。
9月25日(日)の朝が来て、
朝食弁当食べて(昼食弁当もまったく同じものでマイッタ)、車で本部に集合、ミーティング無し、各自持ち場に移動。ぼくはコースの矢印看板の追加設置と緊急用の車の運転とその車が置いてある所でランナーの道案内が仕事だ。看板が不足し本部に取りに行くアクシデントありスタート直前まで看板の設置作業が続いていた。
12時森林マラソンスタート、10分でトップがぼくの持ち場を通過、続々とランナーが通過する。
「ごくろうさまです!」とか
「ありがとうございます!」とか声をかけられる。
“ぼくらスタッフは真っ赤なTシャツを着ているからそれとわかりやすいんだろう。ぼくらばボランティアだって知っているんだな!”なんて思ううちにラストの赤十字Tシャツを着た人が通過した。
矢印看板を回収しながら日陰沢の給水ポイントに行くと、リタイアした人が一人いたので、車で本部に送る本部で次ぎの指示を待っていると、骨折事故があったらしいと無線が入る。本部はぼくに給水ポイントに戻るように指示した。ポイントに戻るがそこには人がほとんど残っていなくて、女性が2名車の中で待機していた。「骨折事故があったらしい」と伝えぼくもそこに待機した。
30分ほど待機していたら、マラソンコースを担架とそれを運搬する数名のスタッフが下りてきた。救急用品入りのバイクに乗った東京消防庁の人2名到着。パトカーで警察官と追加救急隊員の計7人到着。パトカーの底が擦れてガソリンタンクに穴があき走行出来なくなるアクシデントあり。警察の人はその職務で住所と電話と職業とかを聞かなければいけないようで怪我人から付き添って来た人までいちいち聞いて回っている。そうこうするうちに軽自動車ワゴンタイプの救急車が到着し担架ごとそれに乗せて病院に搬送した。
怪我した人は30歳ぐらいの男性で伸長は168センチ体重が86キログラムである。他の細身のランナーに負けじと走り、雨の山道で滑って転んだら骨折するだろう体型である。救助活動指揮したSi氏(もと警察官)を車に乗せて、氏の車の所まで送り、2台で本部に帰る。途中で交番に寄り挨拶をする、警察OBのSi氏の気配りが光っていた。
本部に帰り、反省会をして、
「怪我人が出たことは残念だが、この手の大会では怪我人が少ない方である」なんて今井通子氏に聞かされて、“ヘーッ”なんて思った次第。
暗くなりかけた夕方6時にぼくは本部を後にした。会長のAm氏とか事務局のSaさんとかOkさんとかはたぶんあと1時間くらい最後のかたずけがあるだろう。最終かたづけメンバーに入るほどこの組織(NIAJ)でコミュニケーションアップがまだ出来ていないぼくなのだ。山に行く者のコミニケーションアップの大切さは十分に分かっているつもりなので今後も地道にやって行くべと再確認した。(J記)
*コミニュケーションアップ=山に行く者どおしが人間的なつながりを深め、情報交換をし、互いに学び合い、事故ある時には助け合って行ことに機能させるための意図的な仲間作りのこと。
September 15, 2005 それなり沢ヤのカレーライス
東北の沢に沢登りに行きました。岩手の大深沢です。
○子チャンとベテラン沢ヤ氏とぼく(ぼくはソレナリの沢ヤ)がメンバーです。盛岡駅に集合したころ○子チャンから朝寝坊して新幹線に乗り遅れたと電話が入りました。
「なんとか追いつくから先に行っていて!」などと言ってる。
「無理すんなよ!」と言って電話を切る。
「フン!・・・どうせ来ないな!」と見切りをつけてタクシーを拾い車で行ける所まで行く、それから、少し荒れた山道(廃道みたい)を歩いて大深沢の入渓点をとらえる所に広場があって
一日目のキャンプ地としました。そしたらその広場まで地図に書いてないけど大きな林道が来ているのを発見、車で地元の人が数名キノコ取りに来てるありさま。今日半日の廃道歩きはなんだったんだろう。
テントを張り終えたころ○子チャンが登場、なんでもタクシーの運転手さんに泣きそうな顔して事情を話したら、途中でメーターを止めて広場まで走ってくれたとのこと。
「カワイコタイプはいいな!」
「広場で会えなければ引っ返すつもりだったの!」
「アンネー・・・」
○子チャン登場でいきなり元気になったぼくとベテラン沢ヤ氏でありました。ぼくらはぼくらのタクシーと○子チャンの二台のタクシーの運転手さんに複雑な思いで感謝しつつ、再会を素直に喜びあったものでした。
大深沢くらいの大きな沢(沢の中で一泊、沢を抜けて大深岳の肩にある大深山荘という避難小屋に一泊)に行くとなるとベテラン沢ヤ氏とソレナリの沢ヤの連携のようなことがあると非常に強力なパーティとなります。困った時にお互いに意見を出し合い、科学的に考えて合理的な方を選びながら原始の川をさかのぼるためのルートを決めて行きます。どちらもがお互いの意見を尊重しあい地図をながめ、滝を見て考える姿はウツクシイです。そして、話し合う内容が聞こえ、パーティの皆が次の動きを予測出来るので、一人のトップリーダーが黙々と決めちゃうのより安心感があります。
二日目の行程を終えて、沢床から数メートル上の平らな台地をみつけ、鋸とアイスバイルを使って整地してテントを張り、薪を集めてたき火をして、夕食の準備を開始しました。二日目の夜と三日目の朝の食事担当は僕です。ベテラン沢ヤ氏と○子ちゃんにおいしいと言われたいと素直に思って得意のカレーライスを作ることにしました。
ビリー缶(イギリス製のビリー缶というたき火にかけられる鍋)に生米を入れ沢の水でといで米の高さの二倍まで水を入れて、たき火にかけます。グラグラ煮えて三分、火の弱いところに移動して残り十二分、それで火から下ろし、十分以上蒸らしてライスの出来上がり。
ジャガイモとニンジンを薄く短冊に刻み、タマネギは大きく切ってビリー缶に入れ、浸るくらいまで水を入れて強火で一気にジャガイモが柔らかくなるまで煮ます。その間に、焼き豚のブロックをきざんでおりました。
「アンネー、この肉、腐りにくくていいね」
なんでもアンネーから始まるベテラン沢ヤ氏がのぞきに来ました。どうやら腹が減って、つまみに来たようです。
「もうすぐだから待ってて!」
と僕が言うと、けっこう上品な彼はおつまみすることなく、○子チャンと連れだって岩魚釣りに出かけていきました。彼は魚釣りはしないタイプのはずなのに
「ムムム・・・!」
つけあわせにサラダ、水で戻すだけの海草サラダ、ビリー缶の蓋に盛りつけ、干しエビをトッピングしておいしそうに見せる。それにクノールのカップスープ(きのこクリーム)。
水を足して分量を整え、それが煮えたら肉を入れて、すぐにカレールー(ハウスジャワカレー)を入れてOK。各自持参の食器にごはん盛り、カレーをかけて出来上がりました。やつらがカレーの香りひかれて戻ってきていたから、すぐに
「いただきます。」
「ごはんだごはんだ」などと歌って、
「アンネー、アンネー」と前聞いた話しをくりかえす彼。
そしてニコニコしながら
「おいしい、おいしい・・・」と言っている彼女・・・
ぼくはシェフになった気分!(文:それなりの沢ヤ)
<トリビア>
根菜は常温で長く(数週間も)保存出来て栄養が豊かなものが多いです。数日山に入る場合の食料に適しています。
その昔、帆船で大航海をしていた時代に船に積み込んだ食料は根菜類でした。タマネギがなければアメリカ大陸の発見はなかったのかも知れません。アメリカ大陸に上陸した船員達が持ち帰ったのはジャガイモ(南米原産)でそれはまたたくまに世界に広まり、ヨーロッパにはジャガイモを主食にする国まで登場しました。ジャガイモの主成分は澱粉ですが意外に多くビタミンCが含まれています。しかもジャガイモのビタミンCは熱を加えて調理しても壊れないというすぐれものです。ジャガイモはその属するナス科(トマト、ナス、ピーマンなど)の特徴で同じ畑に連作出来ません。連作出来るるのはさつまいも、連作すればするほど品質が上がります。肥料もいらず、草取りだけしていれば大きくなるという荒れ地で栽培出来る救荒植物で栄養も豊かです。最も栄養が豊かなのはニンジン、ニンジンの赤い色はカロチンというビタミンAのかたまりのような色素から出来ています。ヤマイモは日本原産の芋らしい。サトイモは稲作始まる前の日本の主食だったらしい。レンコンは根でなくて茎だから長く保存出来ないかも知れないけどシャキシャキしてうまい。ニンニクはスタミナをつけられそう。ニンジンンとタマネギとヤマイモは生で食べられるのがうれしい。
カレーのレシピ
ニンジンは皮をむきません、皮を捨てるくらいなら食べてしまおうということです。さすがにジャガイモとタマネギは皮をむきます。タマネギはすぐに煮えるのですが、ニンジンとジャガ
イモはなかなか煮えないので、街でする様にブロックに切り分けず、2mmほどの厚さの薄い短冊に切り分けます。こうすると早く煮えて柔らかくなるので、時間短縮&燃料節約になります。肉類は夏場は痛みやすいので、シーチキン缶詰とか焼き豚とかハムを入れて、カレールーを入れて出来上がり。
つけあわせにニンジンをステッィク状に切って小さなチューブに入ったマヨネーズを横につけて出すといい(ビタミンタップリで口内炎が予防出来ます)。
September 14, 2005 八月の岩登り
八月の始めに岩登りに行きました。場所は奥武蔵・日和田山の岩場です。埼玉県地方は真夏日、8時30分に西武線の高麗の駅に集合、駅舎の日陰を出たとたんに汗が噴き出しました。いっしょに行った中学の林間学校以外は山道を歩いたことがない街の娘(こ)が大汗かいてついて来る、熱中症にならないかと心配にになって、「暑いでしょう!」なんてよけい暑くなるような言葉をかけてしまった。答えずに口をへの字に曲げてついて来る。いっぺんで山なんか嫌いになるだろうな?
アーア、嫌われちう、嫌われちゃう、けど行くしかないよぉん!
岩場に着くとすこし涼しい、それは小さな泉が岩場の隣で湧いていて、その水がわずかな流れの谷を作っているから。でも、岩の上は炎天下、鉄板焼になりながらトップロープをセットして、日陰の岩を選んで登りました。どうやら街の娘さんは元気を取り戻したようです。
モシカシテ、また来てくれるかもしれない、かもしれない、だから夕方まで、楽しいルート厳選しながら登ったんだよぉん!香取線香もいっぱい炊いたよ!
それでその次の週(八月)は、早朝六時から登り始め、気温の上がり始める十一時には帰っちゃうことにした。同じく奥武蔵・日和田山の岩場。ボルダリングジムしか岩に登ったことがない街の成年男子といっしょ。同じこと考えてる二人組が早朝の女岩西面にいた。ぼくらは男岩の西面を貸し切りで登りました。西面だから午前中は日陰です。今度は大丈夫と思ったら、室内壁のテクニックが外の岩場のホールドに合わせられなくて苦労させちゃったみたい。
ヤバシ、ヤバシ!、もう来ないかも、
それでまたその次の週(まだ八月)は、早朝六時から登って十一時に帰っちゃうパターンで、武蔵五日市・天王岩(涅槃の岩場とも言う)。沢好きな山の娘と縦走好きな山の青年男子と。虹鱒釣り場の駐車場から徒歩三分で便利養沢渓谷の川原から十メートル高い所だから沢床ほど涼しくないにしても少しだけ川風が吹いていて少しだけ涼しい所、この岩場は北面にあるみたいです。午前中は日陰になってました。
岩登りは秋から冬を経て春までがいいです。なかでも、冬がいいのです。日本の太平洋側の気候区は冬になると冬型の気圧配置に伴う晴天が続きます。脊梁山脈で降水して乾燥した空気が岩を乾かし晴天のもと乾いた岩の岩肌のぬくもりを感じながら岩登りを楽しむことが出来るのです。
日陰で蚊と戦いながら登るのでなくて、夏のきらめく太陽の下で堂々と岩登りしようと思ったら、三千メートルのアルプスに行くのがいいです。素敵なベースキャンプも魅力です。
涸沢から滝谷ドーム壁
奥又白池から前穂北尾根Ⅳ峰正面壁
白根御池から北岳バットレス
長治郎雪渓熊の岩から剣岳八峰Ⅵ峰フェース群
(私達のTimtamも来年の八月に剣に行く予定)
なんていう人気ルートに行くのがいいです。
人気ルート以外は落石や浮き石が多く、打たれているハーケンやボルトが30年以上経過して劣化したり欠落したりしています。ガイドブックなどに書かれたグレードより数段難しくなっているので気をつけましょう。だから、人気ルートだと思って間違えたルートを登るとかなり手強いことになります。ルート知ってるうまそうなオーラーがただよう人の後から登る作戦に出るのがいいみたいです。ただし、その場合、上に人がいるので落石に要注意です。
夏場は小川山廻目平に行く人も多いです。
5.10アンダーのルートと言えどもかなり手強いので、上手な人にくっついて行く作戦に出るのがいいみたいです。廻目平の夏はそんなに標高が高くない分チョチ暑いです。(J記)
September 12, 2005 夏に涼しい、日原・岳嶺岩
連日30度以上の暑さが続いています。北アと南アとか一万尺の山が涼しいけれど、遠いから気軽に行けない。気軽に涼を求めるなら丹沢や奥多摩の沢登りがいいけど台風来たり、大気の状態不安定による豪雨で水量が多くて気軽には行けない。
どっかいいとこないかな?
あったあった、それは奥多摩の岳嶺岩!日原川の河原にそそりたつ石灰岩の岩塔に10本ほどの人工登攀(A0~A2、下段に解説あり)のルートが作られている。ドードーと流れる日原川の流れから10メートルと離れてないから涼しさは沢登りと同じ、思い切り涼しくなりたい場合は川で泳いじゃうのがいい。岩の回りにはキャンプ地がいっぱい、たき火も出来ます。ニジマスとヤマメが釣れる(入漁券を買う必要あり)。東日原のバス停から徒歩30分、岩場から徒歩5分で水洗トイレあり。最近のクライマーのバイブル的ルート図集の日本百岩場(関東編)に小さく掲載されているだけなのでほとんど人がいない静かな岩場なのがいい。
南の岩塔の南面には、A0ルートが3本、フリーでも登れないことはない(5.8~5.10程度)南面だから、朝と夕方と曇りの時に登ると涼しい。
南の岩塔の北面に、左にA2のルートが1本(最上部のボルトのハンガーが欠落していてそれにスリングをかけて登るのでA2としました)、中央から右にかけてA1のルートが三本、壁の前は平らな広場になっている。北壁なので日がささなくて涼しいがちょっとジメジメしてて蚊が出そうだからカトリセンコウを持って行こう。
その平らな広場の北側に岩塔が二つあり、西側の岩塔に岳嶺岩名物の小ハングルート(左側)と大ハングルート(右側)が二つ名並んで作られている。どちらもA1なんだけど、小ハングルートのハングの出口の所のボルトで手の短い人用に打たれたやつが欠落して
今は遠いところの一本残ってるだけなので、この一本に手が届かない人は少ない手の短い人はチョックレンチ(引っかけるカギノテのついた長さ20センチほどの鉄板の棒)などの道具がないとリード出来ない(A2のルートになっちゃう)。
A0~A2の解説
Aはアーティフィシャルとかエイドの略で人工登攀という意味です。
A0はハーケンやボルトにカラビナをかけそのカラビナをつかんで登っちゃう技術、ハーケンの穴に指を入れてつかむのはし墜落すると指がもげちゃうので出来ないからカラビナを
かけて持つ。
A1はハーケンにアブミと呼ばれる縄ばしごをかけ、それを足がかりに登る、アブミを二つ用意して次々にかけかえて登って行きます。岩がもろくなくてボルトやハーケンが効く所ならボルトやハーケンを打ちながらどんな所でも登れちゃいます。
A2はそのハーケンやボルトが加重の方向によっては抜けちゃうような場合とか、岩角にフックをかけてそれにアブミをかけるような不安定な人工登攀をいいます。
ロープにブルージック結びをかけてそれを足場にして登る自己脱出とか大木にスリングをタイオフしてそれを足場にして木登りするとか、この一手が届かないなんて場合に岩の割れ目にチョックをはさんでそれにスリングをかけて登っちゃうとか、工夫次第でなんでも登れちゃうのがA0~A2の技術です。
A0~A2の技術を伝える所がだんだん少なくなって来ました。 Timtamでは年に2回(7月始めと9月始めあたり)ほどその講習会を行っています。人工登攀は雨が降っても出来るので雨天決行、台風の場合は中止。(J記)
September 09, 2005 レンタルシューズ物語
おとといM講師がレンタルシューズを買いに行くというのでついて行きました。総武線で新宿に行きそこから山の手線に乗り換えて新大久保着、夕方の5時半ごろにICI石井の本店に着きました。
ちなみに、M氏は買う物によってお店を変えているのでICI石井ばかりを利用しているわけではありません。先月は高田の馬場のカモシカスポーツで沢靴(キャラバンの赤石)を買っておりました。先々月はICI石井のお茶の水店で雪崩ビーコンの修理が出来上がったのを受け取っておりました。雪崩ビーコンは7年前に買って、今年の冬に不調になって4月に修理に出したものが無料で新品と交換されました。ドイツの会社(オルトボックス)らしいですね。
もう一つちなみに、ICI石井が新大久保に本店があり、IBS石井は鶴見に本店があります。風のうわさによると、石井兄弟のお兄さんが多摩川から西にお店を展開してIBS石井、弟は多摩川から東にお店を展開してICI石井とシェアを分けたらしいです。そこで問題です、石井の茅野支店はIBSでしょうかそれともICIでしょうか?(答えはこの文の最後に)
M氏はICIの本店に入るなり三階のクライミング用品売り場に直行、レジの人に知り合いの人を呼んでもらうという行動に出ました。プロの山岳ガイド対応の価格でシューズを売ってもらおうという魂胆のようです。おとなしくてひ弱な感じのする(ゴメン)M氏がこんなにズーズーしいとは思わなかったです。「断られたらドーシヨー!」なんて思いながらドキドキしてるんはずですが自信タップリに見えます(たぶん、演技してるんでしょう・・・?)。
幸いにも知り合いの人が奥から出てきました。五十代の中肉中背でエライ感じのする人です。お食事中だったらしく口をモゴモゴさせています。M氏はエライ感じの人氏になにやら話していました。エライ感じの人氏もなんとなく好意的です。そいでもってクライミングシューズを注文しました。紐しめ式でなくて、やわらかめで皮が伸びて調節幅が大きいからレンタル用に向いているということでファイブテンのモカシムという靴を三足(USサイズ6半、7、7半)買いました。
今回のは女性用のレンタルシューズです。男性用の大きなサイズの靴を買うのは難しいみたいです。27センチで8半がフリークライミング仕様のサイズだから大きいサイズはあまり売っていないのです。
エライ感じの人氏にお礼を言ってレジを後に、店内を一通り見てまわり、
「登山用品はみんな高いからすぐには買うなレンタルを最大限に利用した方がいい!」などとM氏はいきまいておりました。ガイド対応価格で買えたことで鼻高々(調子にのらない方の君のがいいんだけどな)。(J記)
Timtamのレンタルシューズは難しい所を登るわけではないので大きめです。日和田山の岩場で1日履いていても痛くないサイズ(USサイズで表記)
でラインナップされています。
22~23 センチ・・・5半
23~23.5センチ・・・6半
23.5~24センチ・・・7
24~25 センチ・・・7半
25~26 センチ・・・9半
26~26.5センチ・・・10
26.5~27センチ・・・10半
27~28 センチ・・・13(通称ジャンボ)
多摩川の西にあるみたいなんですが答えはICIです
September 06, 2005 静かなロマンチックな山
駅から近くて、頂上の展望が良くて、麓に駐車場が整備されているとか、日本何百名山に数えられるとかいう山、つまり人気のある山にはどうしても行ってしまうのです。
いっぱい人に出会います。「こんにちは」また「こんにちは」とくりかえし言ううちにほほえみを忘れた「こんにちは」になっています。中高年の団体が20人ぐらい前にいます。おじさんの大きな野太い声がボンボンと響き、おばさんのファルセットが止まることなく続きます。タバコの臭いがします。カランコロンに指数2をつけて熊よけの鈴の音がします。○○さんはそういう団体が来ると立ち止まって、少し離れて歩きたがりました。でも残念賞!、待ってると、次の団体がきちゃいます。シタゴゴロが少しあるぼくとしてはロマンチックなシチュエーションが破壊されて冷たい汗が背中を流れて・・・アア・・・片思いは悲しい!
人気のある山の人気のあるコースはたくさんの人に踏まれて道が広くなり、岩だらけになっていたり、深くえぐれていたり、しっかり階段が作られて破壊を食い止めるべく整備されたりしています。道標も完備され、りっぱなトイレがあったりもします。
人気のある山には人気のないコースから登るのがいいです。鎖場ありとか、迷いやすいとか丸危とかエアリアマップに書かれているコースから登るともっといいです。人気のない山に登るのも同じくいいです。
そこは、静かなロマンチックな山です。時々ヤブが道を隠したり、岩場にボロボロに錆びた鎖がたれていたり、橋が朽ちて落ちそうになってたり、なんてことがあります。そんな所を自分達の知恵を使って乗り越えて進んで行くのは楽しいです。土が残っている道はフカフカして感じがいいです。たまに人に会っうとニコニコしちゃいます。
そういう静かなコースの山歩きを総称して名前をつけたいです。今まで聞いたことのある名前は
「ハイグレードハイキング」
「とっておきの山」
「静かな山の山歩き」
「エコノミック夏山登山」
「ワンデリング」
「トレッキング」
なんてのです。どれも今一歩の表現力です。いいネーミングがないかな。(J記)
<2010年9月の注>最近「バリエーションハイキング」と言うのを聞きました。
September 05, 2005 3K(サンケイ)
kitanai=きたない=ダーティ
kitui=きつい=ハード
kikenn=きけん=デンジョラス、
これを3Kと言うようです。
山登りは3Kです。中でも、沢登りは3Kの代表みたいです。
1K・・・着替えてからでなきゃ電車に乗って帰れない。家に帰って洗濯してもとれないほどダーティ(ドロの汚れと生臭い臭いのする)な衣服をまとい。
2K・・・夏でも涼しい沢の中にいるのは短い時間で、ムシムシするような藪をかきわけ登る方の時間は異様に長いかも、ヤブコギはハードなのです。
3K・・・激しい雨が降ってしまえば、初心者向きの沢がドードーと流れて渡渉を阻み、滝は瀑布に変わり、デンジュラス、逃げるのがせいいっぱいの沢に変わるのです。
これじゃ若者は来ないよ、ダンスを踊るように美しくて、スマートで、電車の駅から20分も歩かない場所にあって、厚いマットに守られて超安全で、クーラーがガンガンにきいているクライミング(ボルダリング)ジムにいっちゃうわけだよな。外岩には行くかも知れないけど沢には来ないよな・・・グチグチグチ・・・。
4月から7月までで、表丹沢、西丹沢、奥多摩の沢を6本、8月には武蔵五日市・水の戸沢、安達太良山・杉田川、奥多摩・逆(さかさ)川、奥多摩・水根沢と沢登りに出かけきました。けっこう沢で人に会いました。男性より女性の方に多く出会いました。風のたよりに女性の沢登りが静かにブームになっているとのこと。
人に管理されない自然の中で遊ぶのに沢登りに勝るジャンルはないことを、もしかしたら、街のオフィイスで大半の時間を過ごすだろう彼女達だからこそ気がついたのかもしれない。
沢登りは楽しかったですかと水根のバス停で出会った女性に聞いたら。
「デスニーランドより楽しい!」と答えが返ってきた。
デスニーランドさんごめんなさい。(J記)
September 02, 2005 ブナの根じゃなかった
安達太良山の山頂は曇りでした。大気の状態が不安定というやつで積雲が頭上にいっぱい広がっていました。台風の大雨で地上が冷えているので、不安定といっても雷雲に発達するまでもなく曇り時々小雨という天気でした。ケーブルカーを使えば1時間かからなくて下山出来ちゃうのですが、ぼくらは杉田川を遡って来ていて麓に車が置いてある関係で表登山道を2時間以上かけてトボトボと下りて行きました。ケーブルのない表登山道ではまったく人に会いません道はよく整備されていますが、所々でヤブに覆われたりしてプリミティブな感じがします。
平らな道に急な段差がありました。段の上にブナの根の細いやつが一本這っていました。無造作に踏みつけたらなんかクニュッとした感じがしました。そしたら根がいきなり、ぼ、ぼくの右足に向かって動いたのです。カマクビが見えて口をクワーッと広げて『シャー!』って音はないけどそう聞こえる感じで右足に噛みついてきました。「イタイ!」と思ったけど、痛くない!足の裾の布を噛んだけど、その布の下に足がなかった。カマクビは反転、二つの目が見える。『ギ、シャー!』って感じで、こんどは左足に噛みついた「今度はやられた!」と思ったけど、痛くない!左足に履いた運動靴のゴムの所を噛んだだけ。「ギエェー」とこんどは僕が叫んで飛び退いた。「追っかけてくるぞ!」と思って覚悟したらヘビ君は道の下り方向に向かって猛スピードで行ってしまった。
人通りの少ない登山道だからへび君油断してたね。踏まれちゃって痛かったでしょう。ぼくの全体重62キログラムを受けて骨が折れていないといいね。君の無事を祈るよ!(J記)
August 29, 2005 ダカーポかな
安達太良山に車で向かいました。渋滞を避けて早朝6時に東京を発ちました。
集合時間は15時10分であんまり時間があったので途中のドライブインでCDを買いました。ダカーポベストアルバムというやつです。岬めぐり、今日の日はさようなら、宗谷岬、卒業写真、この広い野原いっぱい、いいことだけ考えよう、いまはもう秋、翼を下さい、野に咲く花のように・・・昭和40年代の歌が続きます。なつかしくて涙して、2回くりかえしたら二本松インターチェンジに着きました。
集合場所の本宮駅の駅前商店街は白昼の土曜なのにシャッターの下りている所ばかり、氷ミルクなんて書かれているなつかしめの店に入り、冷やし中華(具沢山、真っ赤なトマトが印象的)とイナリ寿司二つ(飴色のオアゲにテンコモリのゴハン)食べて、おでんのくしコンニャクを手に店を出ました(値段は東京と変わりません)。
ダカーポの「今日の日はさようなら」の歌(森山良子さんより明るい感じがいいんです)が頭の中を何度も何度もくりかえしていて消えない、昭和25年生まれのぼくでした。(J記)
August 12, 2005 八合目をめざす。
池袋駅の西口、なぜか西口に東武線の東口に西武線のホームがある。その西口から徒歩3分、芸術劇場の前から岩手県の主立つ駅に向かう夜行バス、イーハトーブ号が出る。
22時37分池袋西口バス停留所にバスが着いて、22時40分に出発した。路線バスに乗ったような気分がした。
国道17号を北上して、赤羽根バス停で停車、次に川口バス停で停車、今回の山行メンバー三人の内一人(残り二人は池袋乗車)であるIN氏が乗り込んできた。
「イーハトーブってのは宮沢賢治のアレですよ・・・」とIN氏
どんな話ですかと聞く間もなく川口バス停を過ぎたとたんに消灯の時間になっていた。三列でゆったりの一人座席のリクライニングを倒して目をつむった。話声はしなくてバスのジーゼルのエンジン音が静かだけれど強調されて聞こえて来た。
「ジーゼル、ジーゼル、ジーゼル、ジーゼル・・・」
クーラーの風が上半身を刺すようで寝つけなかった。毛布かぶって寝たり起きたりで朝を待っていた。寝てないようで寝てるからふしぎなもんだ。早朝5時に車掌さんはカーテンを開けた、バスの各駅への到着時間と乗り換え列車の案内を放送していた。池袋のコンビニで買ったパンを食べた。朝ごはんをいっぱい食べると山で調子がいいのだけど、パンは一つしか食べられなかった。6時19分北上駅着でバスを降りた。
目指す焼石岳は水場が至る所にあるので一リットルあれば足りるのは行ってからわかったこと、駅でニリットルの水を水筒に汲んだりでモタモタと荷を作っていた。タクシー乗り場では二十台くらいが待機中、のんびりしてるというか開き直っているというかそれなりのプレッシャーは漂っていた、。夜行バスが来てもタクシーに乗る人はいなくて車の列は動かなかったから、ぼくら三人は最初のお客さん、たくさんのタクシーの運転手さん達の羨望の眼差しに送られて客待ち先頭のタクシーに乗った。
日焼けして痩身、印象として五十代半ばの女性、お化粧なし、の運転手さんだった。ハンドルにピンクのチエックのカバーが着いてる。タバコの臭いがしない清潔な車内がいい。
「ゲトウ温泉までお願いします。」
「焼石に登るん」
「そうです」
「縦走するん」
「そうです」
「焼石は今最高にいい時ですよ。」
「運転手さんも山に登るの。」
「ミツビシがだめになって、それでパジェロミニ安く買って、一人でトコトコ登ってます。」
「どこの山が良かったの。」
「ここらへんの山はみんないいけどやっぱ鳥海山がいかったな。」
「空撮みる!」
いきなり車を止めたおのけいこさんはトランクから一冊の本を出してきて手渡した。空撮とは北東北の山厳選十コース・空撮シリーズ・山と渓谷社のことだった。
「ワー、イイ本だな、こんなのほしいな。」
「じゃや、その本あげるよ」
「いいの、もらっちゃって」
「みんな登ったからいいよ。」
そんな会話を交わすうちにタクシーは夏油温泉に着いた、手を振ってタクシーが帰るのを見送ってから、ゆっくりゆっくり、ぼくらは登り始めた。タクシーの運転手さんが名紙をくれていた。家に帰って裏がわを見た、大急ぎで書いたらしい文字列が五行(J記)
山が好き
朝ぎりが好き
宝石のような星が好き
八合目を目ざす
のろまの亀です (おのけいこ)
August 05, 2005 金明水避難小屋で青森の沢の話しを聞きました。
焼石山の縦走に行って来ました。写真を沢山撮って来たのでTimtam写真帳のWalkingの所にアップしてもらいましたので見て下さい。 宿泊地の金明水避難小屋、出来たばかりのとてもきれいな小屋でした。新たに金明水避難小屋に向けて沢からの道を切り開いているらしいのですが、そこから青森県の「八戸山水会」という沢登りと山スキーを中心に活動する山岳会の人のパーティが登って来ました。男子2名女子2名でたぶんみな50代ですが、バリバリに歩けそうな感じの人達でした。
ビールとか酒とかめちゃくちゃ沢山持っていて、宴会山行が最近のメインの活動らしいです。途中で摘んだ山菜のおひたしとか、「かやき」(煎餅汁用に作られている南部煎餅で地元でしか売っていない)で作った煎餅汁(なんでもいいから汁を作りせんべいを割って入れて数分煮たもの、煎餅汁用のせんべいはトロケナイ)をごちそうになったりで仲良くしていただきました。
青森にはいい沢がいっぱいあるよと話していてうらやましかったです。白神山地の沢がやっぱりいいとも話していたので、ホームページとか持っていないかと聞いたら、ホームページに書くと荒らされるから書かないそうです。
一つくらい紹介してとお願いしたら、「八森町、七号線を行きフナッコランドで右折、そのまま行って一つめ右折、道なりに行けるとこまで行って入る沢がいい!」「暗門の滝をつめる、滝が3、2、1とあって観光客はそこから帰るけどそのまま沢をつめて尾根を越えて下りて沢に出て左に行く、沢の名前は中のまた沢から逆沢という。八戸から出て二泊三日かかる!」(これは2005年7月号の山と渓谷に出ている白神山地の暗門大滝~西股沢~赤石川と同じものと思われる)
八森町七号線を行く沢と暗門の滝をつめる沢は同じ沢の話しかも知れないけど、酔っている人の話だから聞き取りにくい。地図とかガイドブックを買ってボチボチ調べてみようと思う。二泊三日、東京からだと前夜行になるでしょう。7月の海の日三連休と8月のお盆休みは虫が怖いからパス、9月の敬老の日三連休か10月の体育の日三連休のあたりに、行った沢をそのまま戻ることで帰りの時間をピンポイントで特定出来るようにすれば行けるかな?。(J記)
July 27, 2005 釜ノ沢・東俣遡行
笛吹川東沢より釜ノ沢東俣を遡行して甲武信岳へ!
7/23(土)天気雨のち曇り時々小雨
早朝のスコールにめげてしまい、しばし車中で仮眠。雨上がりを確認して「とにかく行けるところまで」と遅いスタート(9:00)。歩きなれた林道をのんびり歩く。つり橋を渡って河原に降りると先行団体が4組。天気もあまり良くないのに、さすがに人気の東沢、慌てて沢支度をして急ぎ出立。徒渉を繰り返したあと、今は廃道になった沢沿いの道をしばらく辿る。崩壊が進んでいるようで、緊張する場面もしばしば。山ノ神から河原に降り立つ。(10:30)
河原の岩 にクワガタ発見!アイスクライミングのゲレンデとしてよく通ったこの辺り。亡くなる直前の吉尾弘さんに出会ったのもここでした。さて、これからがホントの遡行開始。大きくて美しい流れの乙女の沢、青く輝く深い瀞、雨上がりにもかかわらず、澄んだ流れは癒しの極地です。二俣までは難なく遡行。(12:00)
釜ノ沢に入り、巻き道を探すのにちょっと手間取った魚止の滝。気持ち良くぺたぺた登る千畳のナメ。いくつかの滝をやり過ごし、西俣と東俣を分ける両門の滝。(15:00)
大きく深い滝壺は天然のプール(実際、海パン1枚で泳いでいる人がいた)ちょっと休憩が長かった!左岸から取り付き先を急ぐ。マヨイ沢との間、カンテというより尾根状を辿ってヤゲンの滝をクリア。広河原へ。(16:30)
ほとんどのパーティーがこの辺りでビバークするらしい。甲武信小屋までつめるつもりなのは私達と途中で抜きつ抜かれつの女性3人組のパワフルパーティーのみのよう。倒木が多くとても歩きにくい。河原を抜けると小さなナメ滝の連続。ソコソコ傾斜もあって少々2人とも疲れがでてきた模様。このあたりが一番苦しいかった。(言い訳:久々だったし・・・)遡行開始から既に8時間以上が経過。木賊沢との分岐、最後の30メートルの滝もヒイヒイ巻いてまとわり付く虫にぎゃ-ぎゃ-言って、やっとこさ甲武信小屋の取水小屋。冷たい沢水をポリタンいっぱいに詰め込んで最後の急登。子供の騒ぎ声がする小屋に到着18:30でした。
シラビソや樺に囲まれたなかなかに快適なテン場。使用料1人300円に水は50円/1L。安いよね!なんていいながら夕食もそこそこにあっという間の就寝でした。 《ナ~タのダンナ&ヨメ
記》
July 22, 2005 縦走・奥秩父・乾徳山~北奥千丈岳 7月16日~18日
いよいよ、2泊3日の奥秩父への縦走だ。先ず天気が心配、破線ルートも含むので、その辺はどうか、始めてに近いテント泊は・・・・。など、不安材料てんこ盛りそして期待もてんこ盛り、でもこれが登山だ。と気分は上々、いろいろ準備に追われる。始めてのドライ・フーズや追加のガスなどを買い込み準備したが、心配は水。心配を講師に話すと、「途中で水をとりましょう」と講師の発言。え?稜線上で?なにやら秘儀「お水取り」の技があるらしい。ますます面白くなってきた。
てな感じで、7月16日朝、自宅を出発。塩山駅に9:00に集合、徳和へタクシーで10:00位に「乾徳山」(2031m)へ登り始める。銀晶、金晶水で喉を潤し、最後のクサり場をよじ登り12:30分位に山頂へ。天気曇り、展望があまりきかない雨が降りそうだ。すぐに、西に見えるなだらかな「黒金山」(2232m)へと出発。道の様子が変わり、倒木が道を塞ぐようになった。あまり、歩かれていない様だ。そのまま順調に、「黒金山」山頂へ15:00時ごろ到着。天気やや快復ぎみ、振り返ると雲間に「乾徳山」のトンガリが見える。
今日、何処まで行くか協議。時間も遅いので、大ダオでテント泊にし出発。倒木ますます多し、だいぶ歩きにくくなってきた。16:00時大ダオ(1900m)に到着。背丈4~50センチの笹原でした。そこには、テント用として笹が刈り込まれた場所があり、テントを張る。こんなとこにも人の手が入っていると思うと、何故かホットした。
ひと段落して、さあ~秘儀「お水取り」です。講師「本当は北側斜面を降りる方が早いけど、南側に徳和川へ降りる道が有るので、それを利用して水を取りましょう」と指示があり。徳和川への笹藪(背丈位)を、カッパの上着と水容器などをもって降る。つまずいて尻餅をつくと、人が消えてしまうぐらいな厳しい笹薮だ。足元が全然見えない。カッパの上着ぐらい持っていないと、何かあってビバークになったとき、凍死も考えられるそうだ。笹薮を抜け、道からも外れ苔と樹木の樹海地帯に侵入。降ること30分、「聴こえますか」と講師。う~ん、よく解らないが、水音が地中2メートルの深さよりするらしい。さらに降りると、ハッキリ「ザ~ツ」とかなりな水量の水の音が地中より聴こえてきた。「お~!」と声が出てしまう。水が流れている、でも音はするけど、水の姿は見えない。石をどかそうにも、大きすぎで人力では無理、重機でも持ってこないと。さらに5分下がると、「有りました」と講師の声。ワクワクして駆けつけると、岩の間に水が流れているではないか、コップを岩の間に「ニュ~ット」差し入れて、飲んでみる「う~ん、冷たい美味しい水だ」、早速4~5?汲む。さあ~帰るが道が無い。大丈夫ですか?講師「真南に下がりましたから、真北に上がれば道は有りますよ」とのことでした。なるほと、簡単な話しだ。登りも難なく道を発見。
18:00時位にはテント場に戻り、夕食のしたくへ。「お水取り」の秘儀、なんか不思議な体験をした気分だ。この間、多数の薮蚊に遭遇、蚊が雲の様に我々の周りを飛び交い、休まる事が出来ない。こい雲が頭の上に出来ているくらいに凄かった。とくに刺しまくる訳では無いが、とにかく鬱陶しい。逃げるにはテントの中に入るしかない。食事は各自準備したものを食べる、私はドライ・フーズのリゾットを食べた。そこで、新しいスペシャル・メューが登場。イグチ・スペシャルだ。講師が歩きながら集めた、キノコ「イグチ」をラーメンの汁で味付けした、手料理だ。こんな、料理も縦走では出るらしい。当然わたしは、食べないようにしていた。同行のT君は少し食べた。講師は、全部たいらげた。汁全部を飲み干し、さらに頭部が赤い「滑りイグチ」まで食べて、舌がしびれるとか言って、そのまま全員で寝てしまった。「滑りイグチ」の写真は、T君が持っている。確かに危ない色をしている。寝たのは19:30分位だった様に記憶している。
5:00時起床。朝方、鹿の啼き交わす声がうるさかった。そのまま食事とテント撤収。その間、T君が不思議な話をした。昨夜鹿に足を優しくかじられたらしい。ほんとの話だ。鹿がテントに顔を近づけ、かまれた様子を熱心に語った。
今日2日目は今回の縦走のハイライト。いよいよ破線ルート突入です。6:00時ごろ大ダオから、北奥千丈(2601m)へ出発。笹薮の背丈が短いことを祈りながら、ほとんど10メートル毎の倒木の嵐を乗り越え前進。赤布、赤テープなどは所々に有るが、講師のナビゲーション力で突破。11:00時位に奥武蔵最高峰、北千丈岳に到着。
今日のテント泊を大弛峠とし、国師が岳(2592m)へ空身で往復。12:00時前に大弛峠(2400m)へ。道は整備され過ぎで、ほとんど木組みの階段になって、味気ない感じだ。これって登山?テント設営し、午後はお休み。講師とT君は、見晴らし台みたいな所に行くつもりが、再び北奥千丈岳に登ってしまったらしい。それくらい、山頂は近い。
大弛峠は、思ったよりひらけてません。一般地図では、シャワーやトイレと有りますが、それらしき近代的なものや売店もなく、水洗でないトイレと駐車場があるばかりでした。18:00時に小屋でオヤジに、頼み込み夕食を取る。1500円もした。オヤジに「乾徳山」から来たと話したところ、そのコースが一番面白いらしい。「最近縦走してくる根性のある奴が少なくなった」と、語っていた。少し自慢したい気分になった。19:00時やる事ないので就寝。2400mの夜は夏でも、寒い。テントの中で寒さに震え風邪気味となり、くすりをのむ。夏の縦走でも高山の夜は、冬装備が必要。講師の話しでは、山は一年中同じ服装で、冬に上に着込むのがいいらしい。
5:00時起床。いよいよ最終3日目。朝食テント撤収し、金峰山(2599m)へ出発。少し風邪気味、ボーットしている。朝日岳(2579m)を通る、天気快晴展望が素晴らしい。富士山、南アルプス、八ヶ岳、北アルプス方面、歩いて来た北奥千丈岳など、360度の大パノラマだ。梅雨明けだろうと思った。だらだら登りで金峰山へ。岩峰に立つ、ここも展望が素晴らしい、五丈岩に登りしばし遊ぶ。後は、降りだけと思っていたが、金峰の降りは結構厳しい岩尾根歩きだった。岩尾根歩きだけで、1時間ちかくかかり、神経を使う。振り返ると、かなり厳しい山容をしていた。大弛側と大違いだ。その後は普通の山道がかなり続き、大日岩でボルダリングのまね、大日小屋と富士見平小屋を通って、12:00に瑞ガキ山荘に到着。山荘で昼食をとり、今回の縦走は終了。私にとって、新しい体験連続のお腹いっぱいの縦走でした。
学んだこと。
1:服装は夏でも冬の下着や厚手のものを持つなど寒さ対策必要。
2:水は途中で見つけられる。(技があれば)
3:テント泊は高山では寒い。
4:キノコ「イグチ」は食べても安全かも。
5:短いスボンで行ったところ、集中して虫にかまれた。長ズボンで行こう。POWER UPした虫達には、虫よけスプレーはきかない。
6:破線ルートなどは2万5千分の一の地図が必要。磁石などで現在位置を確実に把握すること。
7:講師がついてると、どうしても連れて行ってもらう感覚になってしまう。
8:これが最大の収穫ですが、縦走の面白さを手に入れることが出来ました。
ブロクに始めて書き込みをしました。みなさんに縦走の楽しさ、チョツトした厳しさが伝われば幸いです。T君へ、「滑りイグチ」の写真を公開してください。 (中村文一)
July 14, 2005 かくれんぼと山登り
この国会で少年法が改正されそうです。
日本の少年法は少年を罰するという発想より、社会に戻って、受け入れられ生き甲斐を持って生きて行けるように支援するという目的で作られています。戦後の混乱期、飢えていた少年達は盗みを中心に多くの犯罪を犯しました。例えばそれが孤児だったとしたらそれは生きるための盗みの可能性が大です。孤児となったのは少年のせいではありません。その少年を罰することより、社会で自立出来るようにすることの方が再犯の可能性は少ないはずです。そういったことが起点になって制定されたので、日本の少年法は世界一といっていいくらい少年に甘いのです。ですが、それはそれなりに犯罪者の増加を抑える効果があったのです。現在の少年法は日本が世界一犯罪の少ない国となった大きな要因となったと考えられています。
改正して少年に少年院に送致しやすくなるなどの罰が与えやすくするわけですが、罪を犯すほどに痛めつけられた少年には罰が怖いから犯罪を犯さないと取引する思考力のゆとり少ないです。聞けば、少年の罰を重くして犯罪が減った諸外国の例は無いようです。では、改正しない方がいいのかといわれても少年犯罪に日夜苦しめられる側の人がなんらかの手だてを求めることを止めることはないでしょう。
少年法が出来たころ(1945年から1965年あたりまで)近所の少年達は年齢を超えて集まり遊んでいました。缶けり、工事現場や工場探検、大きなおはじき、ジントリ、チンパ、はじめの一歩、土手の草滑り、下水道やお屋敷への忍び込み、すずめの巣とり、昆虫採集、四つ手網、エビガニつり、肉弾、エスケン、トランプ、ガラガラ(坂道を下る戸車が車輪の車)とか厚紙をゴムで飛ばす鉄砲とか鳩小屋などの物作り、・・・数週間流行すると別の遊びに移って(野球とかくれんぼは定番だった)行きました。
野球が流行っていました。幼稚園の子がバッターボックスに立つと、空振りでも1塁に走り、アウトでも、2塁にすすみ、いつかベースを一周してホームに戻ります。ですが点にはなりません。よその家にボールが入るとチェンジでした。かくれんぼも面白かったです。みつかる前に鬼の背中をドンすると、もう一度鬼です。やっと全員みつけかけたころ、最年長に近い(ガキ大将)の子がどこからともなくしなやかに現れてドンします。3度も鬼になると泣きそうになるけれど、歯をくしばって家には帰らない(帰ると遊んでもらえなくなる)、あんまり多く鬼になるとヤケ鬼と呼びます。ヤケ鬼が出そうなころ、ガキ大将はなぜか初めに見つかってくれます。そして知られずして意図的に次の鬼になるのです。なぜか、1960年代の終わりくらいからそういう子供達が空き地に集まって遊ぶ姿が消えました。そして、その子達のためにあったかのような少年法も変わります。
山登りと関係ないみたい話しです。けれど、少年時代の遊び(大冒険)と似た気持ちを山で感じてるのは私ばかり(年齢がバレルね)ではないみたいです。沢や岩場でみかける中高年のおじさんにあの頃と同じ表情をみかけてフフフとなるのです。(J記)
July 07, 2005 星が降る
梅雨があけて、安定した晴れの日が続くころ
高山に花がたくさん咲く
雪がとけてからまた雪が来るまでわずかな時間しかないから
小さいけれど目立つためにせいいいっぱい鮮やかに咲く
次から次へと花をみつけては何かを感じていた素敵な人がいたっけ
ぼくはといえば、きれいな花がハアキレイダと思うくらいでドーシヨーモナイ
山頂、それは早池峰の山頂、にツエルト張って夜が来た
足の下まで星、星、星の山頂で、大きな天の川、流れ星
ぼくだって感動した
今年の梅雨あけ東北の焼け石岳に行く
星が降るといい (J記)
July 04, 2005 オンエア
「山登りは競わないからいいんだ」と思っています。山に出かけて行って、競って登ってる人を見かけることはほとんどありません、それでもナントカで一番目という山に登りたいとか、岩登りだったら5.10bのが登れたら次に5.10cが登りたいなどとより高くより困難を競う気持ちの片鱗に出会うことはよくあります。少なくとも、ぼくはそういった気持ち(競うとか比べるという気持ち)をけっこう多く持っています。
振り返れば、競う山登りに囲まれて育ちました。未踏峰の登頂競争、未踏ルートの登攀競争、そして条件付登頂競争(厳冬期、無酸素、アルパインスタイル、最年少、最年長、女性初、五大陸最高峰、5.11→5.12→5.13→)。でも、ぼくは、なるべく競わない方の山登りの側にいたいと思うのです。競ってもかなわないというのと。自分より上位にいる人をうらやみ、自分より下位にいる人を見て安心するような感覚は好ましくないと思うからです。
オンサイトというクライミングのルールがあります。初見、ノーフォール、ノーテンションで岩登りのルート(クイックドロースリングが下がっている)をリードでを登ります。オンサイトをしてみたいなと思ったり、それが出来てうれしいと思ったりする時に、このルールが競技会用に作られているということを見逃さないでほしいと思います。オンサイトの競技会で観客は
・クライマーの数メートル(トップロープでないから長い)もの墜落を見てハラハラドキドキします。
・クリップという動作を同じ支点で2回見なくて済みます。
・クイックドローをかけに行かないために力が温存されクライマーのよりアクロバチックな動きを楽しむことが出来ます。
オンサイトはクライミング競技会をショーアップすることに役立っているのです。
オンエアクライミングというのを提案をします。オンエアというのは放送の用語で「本番」という意味です。
初見、ノーフォール、ノーテンション、まではいっしょです。
リードですがなるべくリードアンドフォローして懸垂下降で下ります。
プロテクションをセットしながら登るマスタースタイルでなければなりません。
オンエアクライミングはあまたある整備の手が行き届かない岩場ルートからマルチピッチのビックな壁そして沢登りにも対応出来る方向にあります。それは競技会を意識するのでなくて、自然のルートの良さを楽しむ方向でもあります。(J記)
June 24, 2005 身のこなし
人の体には200の骨と400の随意筋(自分の意志で動かせる筋肉)があります。ピアニストが一本一本の指を自在にあやつれるようにトレーニングによっては動かしにくい骨がバラバラ(独立して)動かせるようになります。
ハンマー投げの室伏選手は第5頸椎を右に第7頸椎を左にとかいった感じで背骨の一本一本が動かせるとのことです。それが出来るから背骨の必要に応じた箇所を大きく動かせることになって、それが出来ない人より弾性のエネルギー(筋肉の伸びの二乗に比例)を何割も増して大きくすることが出来るのです。
「身のこなし」…こなしを漢字にすると「粉し」なんだそうです。
身のこなしが良くなる→身をよく粉にすることが出来る→身をバラバラにすることがよく出来る→全身の随意筋をなるべくたくさんそれぞれ独立してバラバラに動かせることが出来るようになる。
さて、山登り、特に沢登りはいきなり未知の何かが飛び出してくる冒険の要素が強くて、右から左から上から下から、次々とあるいは同時に繰り出してくるそれら(冒険の要素)をヒラリヒラリとかわしてクリアして行かねばなりません。だから身のこなしがいいことは重要なアイテムなのです。
どうしたら身のこなしがよくなるかというとそれはトレーニング!・・・。山に行く人の場合だったらたくさん山を歩くこと(下りの歩き方は重要)とたくさん岩場(整備されたゲレンデ)に通うこととなるでしょう。
冬は岩場で身を粉し、夏は沢で身のこなし!(J記)
June 23, 2005 できることとできないことのバランス
東京オリンピックはその後の日本人のスポーツに対する感覚に少なからず影響しました。日本中にスポーツ根性ブームが沸き上がり、昭和40年代の小中学生のスポーツ能力は軒並み向上、例えば、50メートル走の記録を現在と比べると平均で0.3秒も早いそうで、いっしょに走ると5メートルを超えて差がつく勢いです。「巨人の星」「アタックナンバーワン」のように汗と涙のトレーニンシーンがたくさん漫画に描かれて人気でした。なんと、「アタックナンバーワン」は、最近、リニューアル放映されています。
東京オリピックで金メダルをとった女子バレーボールの監督だった大松博文さんは「なせばなる&オレについてこい」という言葉、それをうらづけるような運動能力はたいしてないし引っ込み思案で無口で地道に紡績工場で働く少女が睡眠時間までけずりハードな練習続けて連勝に次ぐ連勝、ついには金メダルに至るまでの物語(選手一人一人のエピソード)は人々の心をゆさぶりました。
東京オリンピックで男子バレーが銅メダルをとったことを知っている人は少ないです。男子バレーの会場ではカメラリハーサル(女子のための)はあっても本番の試合はほとんど放映されることはなかったのです。カメラリハーサルに協力してるのに男子は放送されないし、男子のボールのスピードは回転レシーブでは間に合うはずもないのに男子も回転レシーブをすればいいなどと言われてもうカッカカッカ頭にきていた男子バレーの選手の中に全日本男子の監督になった松平康隆さんという人がいました。彼は「なせばなる」の言葉を否定しました。男子バレーのアタッカーは身長が2メートル以上ありしかも高い運動能力持っていなければ世界では通用しない「だれでも、なせばなるなんてうそっぱちだ、天才が死ぬほど努力してようやく金メダルに至るんだ」と言い放ち、自ら全国を回って天才的な選手を集めて育て「世界一のセッター」「ABCクイック」「一人時間差」「フライングレシーブ」など様々にマスコミ受けする用語を生み出しながら(曰く”テレビに放映されて皆から応援されなければ勝てない”)、それで、きわどい接戦を奇跡的に乗り切りミュンヘンオリンピックでようやく金メダルに至りました。
時を経て松平さんと男子バレーの活躍は忘れられ、大松さんの言葉の方は残っているように思います。能力に乏しいものでも一生懸命に努力すれば大きな成果が得られる(=なせばなるorやれば出来る)という考えです。しかし少なくとも身長2メートルという天才なくしてバレーボールの全日本クラスのアタッカーになれないだろうことは一目瞭然、松平さんの言葉の方に分があることは科学的に証明出来そうなことです。
それで山登り・・・「出来ることと出来ないことのバランス」と20年も前に先輩に言われたのを思い出して、今頃になってフムフムと思うのです。(J記)
June 22, 2005 越沢バットレス
6/19にF氏と奥多摩の越沢バットレスに行ってきました。
鳩ノ巣駅から歩きで数十分ぐらいで、岩場があります。暗いけど綺麗な沢沿いにある静かな場所です。1パーティのみが取り付いていました。
まずは、右ルートから取り付きました。右ルートといえば別名「スベリ台」。最後のピッチに名前の通りのスラブがあります。でも、全くツルツルではなく、よく探せばホールド,スタンスは見つかって何とか通過。無事終了点へたどり着き、2回懸垂して基部に戻ってきました。
次は、第2スラブルート、またまた、すべり台のようなスラブがあるルートです。そのスラブは3ピッチ目にあります。そのスラブを越えれば終了点です。終了点までは、右に迂回するルートと直進ルートがあります。今回は、直進ルートに挑戦。長いしホールド細かいしでとても大変でした。結局、疲れてスリングをつかんでしまいました(残念)。何とか終了点にたどり着き、懸垂で降りてきたらもう4時。もう登るのには遅いので、暗くなる前に帰路に付くことになりました。
結局この日は私たちを含めて4パーティのみでした。鋸ルートの話(過去にロープ切断の事例)もあってなんとなく、怖い感じの岩場ですが、ルート的には意外に面白いと思うので、もうちょっと登られても良いような気がしました。(文:I)
June 20, 2005 大切に残された古いパソコンの仕事
Timtamの葛飾事務所には2台のパソコンがあります。
メインコンピューターは大きなデスクトップ型で三代目(初代FM7-BACIC、ニ代目FMV-W95、三代目FMV-WMe)です。
サブコンピューターはノート型でニ代目(初代BIBLO-W98,二代目BIBLO-WXp)です。サブコンピューターは携帯電話の回線を使ってホームページの内容更新をして来ました。
サブコンピューターの二代目に気づかない性能が入っていました。メインコンピューターにつながれたADSLのランケーブルの端をその差し込み口に「プチンとつなぐ」とそれだけでインターネットにつながるのです。携帯電話の回線では送るのが大変だった容量の大きな画像などで転送を急がないものはADSLの端末のある場所まで移動すればいいわけで大変ラッキー(一般にはあたりまえなのかも知れませんが)な性能です。
パソコンの変遷は異常なほど早いです。FM7のベーシックで一ヶ月もかかって作ったプログラム、それにカタカナで氏名を入力して事務処理の手間の削減を目指していた時代、その時代のワイアードットプリンターで打った印刷物が、わずか数枚だけだけどTimtam葛飾事務所に大切に残されています。(J記)
June 15, 2005 青いビニールの傘
小学校の1年生のころ、傘を買ってもらいました
布で出来たやつじゃなくてビニールで出来た青い傘でした
まだナイロンの傘がない時代でした
雨が降るのが待ち遠しかったです
何回か使うとすぐに傷んできて
新しい物をいとおしむ心は失せて
チャンバラに使ったり杖にして体重をかけたり
杖は折れ、骨も折れて、なぜか靴屋さんに直してもらいに行きました。
でも、僕の傘はいつの間にか、別の傘に変わりました。
時は流れて、青いビニールの傘は百円ショップで売られています。
着替えをばっちり持って雨の山歩きに行こうと思います。
片手が使えなくて危ないと言われるけれど、
近郊の低山なら大丈夫でしょう。
青いビニールの傘を持って行こうと思います。
ゴアテックスの雨具は持って行くけど使いません。
スパッツとかザックカバーも使いません。
濡れてドロドロになっちゃって街に降りて着替えます。(J記)
June 14, 2005 ガイド登山の取材をしました。
昨日=6月13日(月)、M講師が東吾野の岩場をガイドするというので、ビレーヤーとして同行しました。クライアント(依頼人=お客さん)はYさん60歳の女性です。
Yさんの登山歴を聞いたら、1980年代の初めからガイドの桑原さんとか清水さんについて幾多の岩場を登攀したとのことでした。穂高屏風岩の○○ルートとか、剣八ッ峰○フェース、ビンボウ沢から北釜尾根、フランスのミディ○壁・・・などなどの思い出話しが次々と繰り出されてびっくりしました。
東吾野の岩場に到着、M講師がリードしてトップロープに設定を変えてロワーダウン、そのトップロープをYさんが登るということが続いて5ルートをクリア、最後に、Ⅳ級プラスの途中でピッチを切れるルートをリードアンドフォロー(Yさん:フォロー)で登りました。
5.11を登ったこともあるというYさんですが、勧められてもリードはしません、ロープをエイトノットで自分のハーネスに連結することと、M講師をビレーすること以外のロープワークには手を出すことがないのです。そう、Yさんは、ガイドとクライアントという関係を守って山に登るスタイルをキチット確立しているのです。
Timtamは登山教室で、自分で(ガイドとか先輩に頼らないで)山に行けるようになるためのノウハウを学ぶ所です。だから、講師と受講生の関係がガイドとクライアントの関係になるべくならないように講習会が運営されます。そういうTimtamの中にいるのでYさんのクライアントに徹する姿は新鮮であり、それが現代登山の一スタイルとしてしっかり確立されていることを認識させられました。(J記)
June 11, 2005 雨で岩場への個人山行が中止
梅雨入りしたそうですが、東京の葛飾は曇っているけど雨は落ちて来ていません。今日から行く山(三つ峠の個人山行)が中止になったので、たぶんそのメンバーの人達は住まいの近くの人工壁に行きそうです。
ぼくもひさしぶりに流山の「ガンバウォール」に行ってみようと思います。1980年代前半に床面125平米、高さ9mの人工壁が流山に日本で最初ぐらいに作られました。オーナーの渡辺さんが自分の家の庭に全額費用(1500万円)を負担して作りました。
以来二十数年、山岳ガイドの桑原氏とかフリークライマーの大岩夫妻とか山の文筆家の柏瀬祐之、現Timtam代表の松浦氏などけっこう著名な人が出入りするんだけどあまり知られていなくて空いていて(過大に広告しない)、会員の仲がいいアットホームな雰囲気を作るような工夫を随所にこらして丁寧に運営されて来ました。
しかし、その敷地が常磐新線の南流山駅の開業に伴う道路拡張工事の用地にかかるということで、今年度いっぱいで閉鎖されるだろうとのこと。ちょっとさびしくなります。近くに移転するなどしてなんとか存続してほしいと心から願っています。(J記)
June 08, 2005 また山においでよ!
毎日11時間も日曜も休まずビルの一室にこもって仕事をしていたけれど、
今はどうしていますか?
仕事をする君は鉛筆みたいでした。
鉛筆は体を削られながら芯をとがらせて仕事をして行くからです。
削っても、削ってもなくならない鉛筆になってほしいです。
削ってもなくならない鉛筆になるためには、
削られた部分を修復しなくてはなりません。
仕事の発注者に翻弄されて疲れ切ってしまわないようにしてほしいです。
休日は大切な鉛筆の修復期間です。だからなんとしても休もうよ。
仕事は勤務時間内で終わらせようよ。
遅くまで残って仕事をしない方がいい仕事が出来るはずだよ。
残業しないで帰っても、酒飲んで寝ちゃうだけでは鉛筆は太くなんないよ
また僕らの山においでよ。(J記)
June 07, 2005 台風4号
6月7日、9時、日本のはるか南、南大東島の南東に台風4号があって、北へ毎時10Kmの速度で移動しています。中心の気圧は950ヘクトパスカル、中心付近の最大風速はは40mです。 東京の都心は激しい雨にあうとそれが地にしみ込まないためにかん水しやすいのです。日比谷のあたり皇居のお堀が溢れたり、神田川とかが氾濫したりします。そんな川の近くの地下で仕事する親しい知り合いがいて台風のたびに心配しています。
ちなみにTimtamの葛飾事務所のあたりはずっと昔のキティ台風の時に床上浸水したそうで、1mほど土盛りした上に立っている家が多い所です(現在は雨水専門の下水が完備してるから大丈夫?)。
昨年は山と渓谷の6月号の沢登り特集記事でTimtamの沢登り教室の年間予定がなんとほぼ半ページにわたって掲載されたんです。それで、いっぱいいっぱいゲスト参加の申し込みがあったんです。だのに、だのに、決まって週末にやって来る台風のおかげで教室中止tとか雨にふるえながら教室決行が相次ぎました。今年はそうならないでほしいものです。
激しく雨が降るといきなり沢登りは難しくなります。水が濁るかどうかが遡行を中止するかの目安といいますが、それでは少し遅いように思います。長く雨が続いたら水が濁っていなくても慎重に行動しましょう。(J記)
June 01, 2005 広沢寺の岩場
5/29に広沢寺の弁天岩に行ってきました。
到着したのは10時頃ですが、既に沢山のアルパインという感じの人たちが練習していました。ほとんどのルートは、大体4級ぐらいだったと思います。終了点もしっかりしていて数も多く、日和田のように終了点の取り合いになることも少なかったです。ルートは結構長くて50mロープ一杯あります。リードして、50m目一杯懸垂してと良い練習になったと思います。
一応、スラブですが一般ルートでは、それほどツルツルではありません。ガイドブックには「初級者の練習に最適」と書いてありますが、その通りの感じでした。
私の家からも比較的近く、バスの数も多いので、また訪れたいです。(文:I)
May 30, 2005 雨の月曜日
軒下に干してあった沢登りの道具が少し濡れてしまってショックを隠せないスタッフの面々でした。でもスタッフが集まる月曜日はネコの「ビビ」が喜んで大はしゃぎするのでなんか楽しくなります。「ビビ」は1歳になりました。昨年の5月の末に事務所の玄関にカラスに追われて逃げ込んで来たのです。生まれたてで手の平に乗るサイズでした。カラスから守るべく中に入れたのがきっかけでTimtam葛飾事務所の飼い猫となったのです。キジトラ模様の女の子です。
Timtamの事務仕事、山と渓谷と岳人への広告の原稿を作ったり、ホームページを8月の予定などを入れて更新したりしているうちに午前の部が終わり、午後は装備の点検と整備が行われるみたいです。
「今日のtimtam」の右にあるAboutというリンクボタンに気がつかなかったと先日の葛葉川でHさんが言っていました。彼のごとくという方々はAboutを見て下さい。Timtamのプロフィールが書かれています。 (J記)
May 27, 2005 三つ峠
5/21-22にF氏と三つ峠に行ってきました。
富士急の三つ峠駅から歩いて3時間、登り一偏の辛い登山道を登り切ったところに、ドーンとそびえたつ大きな岩場がありました。すでにたくさんのパーティが取り付いています。
まずは手始めに、右フェースから。ガイトブックには4級とか5.8とか書いてあるんですが、中間支点は古いハーケンだし、落石,浮石は多いしで怖い怖い。フリーでなんて言ってる余裕なしって感じです。そんなこんなで、やっと登って終了点に到着。そこのテラスから見る富士山は見事なものでした。
二日目は、左フェースの亀ルートから高度感抜群でスゲー怖い八寸トラーバースを何とか通過。(ホントは、八寸トラバースの前ピッチの方が難しく、もっと怖いんです)
そのあとは3級で簡単と思いきや、ルートを間違えて撤退。気を取り直して、三つ峠の一番人気ルート中央カンテに取り付きました。さすが人気ルートだけあってまとまりが良く面白いです。終了点到達後長い懸垂下降をして、気が付いたら、もう三時近く、下山もあるので、岩場を後にしました。今回は、珍しく?登山口にあるお風呂に入り、さっぱりして山行の締めとしました。(文:I)
May 23, 2005 残雪の守門岳
山歩きが大好きな、ボルダリングジムのスタッフさんに、守門岳(すもんだけ)に行きたいと言われました。
彼女はひめさゆりの花を見たかったらしいのです。ぼくはぼくで、昔から守門&浅草という山域が気になっていたので、たしか・・・ちょうど今くらいの時期に守門岳に行く計画をたてました。
始めての守門は単独行となりました。残雪と新緑と、ひめさゆりはないもののちょっとずつ咲き始めた花々と、そして山々に囲まれた雰囲気がよかっったです。
あれからどれくらいたったのだろう、昨日、守門岳に登ってきました。前よりも多く残雪があってほとんど雪の上を歩いて頂上まで行けてしまいました。頂上(佐渡が見えるというけど見えず)で古い友人のA氏と再会、なぜか?明大山岳部OBの山本篤氏といっしょでした。「前日に浅草岳を登り、トンネルが昨年の新潟中部地震以来不通になっちゃっていて、会津をまわりはるかに300キロメートルも車で移動して今日は守門岳に来ました。『浅草岳は良かったです。もう一度来たいです。』」とのことでした。
来年はきっと浅草岳に来ようと思いました。(J記)
May 13, 2005 生と死の分岐点
「生と死の分岐点」という本があります。岩登りをする人の間では、結構有名な本見たいです。内容は「過去に発生した事故を検証して、それを防ぐにはどうした良いか」といったものです。著者はドイツの人で、挙げられる事例は海外のものがほとんどですが、大変参考になるというか、気が引き締められるというか、とても良い本だと思います。
ロープが切れたり、カラビナが壊れたり、結び目が解けたりといった事例が淡々と説明されています。正直読むと凹みます。こういうことは、あまり考えたくないことですが、面と向き合って行かなければならないことだと思います。(文:I)
May 11, 2005 小川山
ゴールデンウィーク後半に小川山に行ってきました。
キャンプ地の廻目平は、眺めも良く水も空気もきれいで、とてもよい所です。クライミング目的で滞在する人以外にも、多くのオートキャンパーで賑わっていました。
そして何と言っても、焚き火が自由なのがこのキャンプ場のうれしいところ。「焚き火をしてない人はいない」と言っても過言ではないぐらいです。みんな焚き火を囲んで宴会?をしています。Timtamも、Yさん,Hさんが色々準備してくれたので、とても楽しい焚き火宴会となりました。
小川山といえば岩登りのメッカという感じでしょうか。広大な場所にそびえたつ無数の岩壁、マルチピッチあり、ボルダリングありで,いくら遊んでも遊びきれない感じです。私もスラブを登ってきました。ツルツルの面から必死にホールド,スタンスを探して登ります。それだけでも怖いのにボルトの間隔が遠いのでなおさらです。でもそれで、嫌になるのではなく、また登りたいとか思っちゃうから不思議です。
今回は連休で混雑していました。今度は空いてる時を狙って行きたいです。(文:I)
April 15, 2005 フリークライマーと火事場の馬鹿力
フリークライマーと器械体操選手を比較すると、筋力は同等だけれども、体格はクライマーの方がほっそりしているんだそうです。
複数の理由が考えられるようですが、その中のひとつに、フリークライマーは筋力を最大限使える能力があるという理由を挙げています。
通常人間の筋力は、持っている力の7~8割ぐらいしか使えないんだそうです。
何故かといえば、それ以上使うと体を痛める可能性があるから。言わば保護機能みたいなものでしょうか。
非常時は、その機能が外れて「火事場の馬鹿力」が発揮できるのだそうです。しかし訓練を積むと自発的に最大限の力を発揮する能力を持つことができ、フリークライマーは、他のスポーツ選手よりも、その能力が優れているんだとか。
私の勝手な推測では、「クライミング中は、本能的に恐怖である落下と闘っている訳なので、体にとってはいつも非常時。そのうち自然にその能力が向上しちゃうんじゃないかな」なんて思っています。
ただし、自発的に力は出せても、体に負担はかかるらしく、怪我もし易いらしいです。皆さん練習はほどほどに。(文:I)
April 13, 2005 道具の手入れ
ゴアテックスの雨具は、手洗いして陰干し最後に撥水スプレーを掛けたほうが良いとか、ザックも陰干ししたほうが良いとか、ザイルは、たまに水洗いして陰干した方がよいとか言われていますが、私はどれもやってません。本当はやりたいんですよ。でも日曜日、山に出かけて帰宅は夜。次の日仕事だし疲れているしで、せいぜい濡れているものを干すのと靴に消臭スプレーを掛けるぐらい。平日は何だかんだと忙しいのでそのまんま。そしてまた週末にそれらを適当にザックにつめて出かけてしまいます。
そんなことを毎週繰り返しているので、ほとんど手入れなんてしてないんです。手入れすれば、良い状態で長く使えることは分かっていんるんですけどね。皆さんは「道具の手入れ」ってしてますか? (文:I)
April 08, 2005 カロリーメイト
行動食としてカロリーメイトを携帯する人は、結構いらっしゃるのではないでしょうか。
Timtamの山行は、昼食のための大休止はありません。代わりに行動食でエネルギの補充をします。そのため、簡単に食べられて栄養があるカロリーメイトは、なかなか重宝する食品です。ちなみに私は、フルーツ味が好き。
カロリーメイトのメーカ大塚製薬のホームページには、1箱で400kcalで、30歳~49歳の男性が1日に必要なカロリーの1/6(1食あたりで計算すれば1/2)、ビタミン,ミネラルは、、1日必要な量の1/2,1/3が含まれていると記載されています。
ところで、某100円ショップで、どう見てもカロリ-メイトを意識してるんじゃないのっていう感じの商品を発見。味はまあまあ。ただ、栄養価がちょっと低いみたいです。
でも100円だしお買い得かも。(文:I)
April 04, 2005 パ、パソコン通信が!
1980年代前半、Timtamの前身の山塾サポートのそのまた前身のM講師の個人事務所で無名山塾の講習会を請け負っていた時代、登山教室の予定表とか参加要項は手書きだったのです。パソコンは富士通のFM7(ハードディスクの容量64キロバイト)とかNECのPC9シリーズの時代でワープロソフトが走ることは出来ませんでした。1984年にようやくワープロ専用機の東芝RUPOを購入(高価でした)、手書きから活字に変わりました。
それから21年、ワープロの発売停止の後もメインの受け付け業務をワープロによるパソコン通信で行って来ました(インターネットからパソコン通信のフィルターをかけるので、ウィルスをシャットアウトできるのが利点)。
国内最後のパソコン通信「ニフティサーブ」が来年の3月で終了します。富士通という会社をうらみつつもしかたなし、パソコン通信側にある21年蓄積された膨大な情報のインターネットへの移行業務を開始しました。
温故知新・・・???
ウィルス対策は万全の現システムに大敵が現れています。掲示板への迷惑内容(アダルト)の書き込みがそれです。それで、今朝、投稿に対して内容の確認をしてから公開する形に掲示板の設定を変更しました。掲示板に投稿してから公開まで1日程度の時間がかかります。携帯電話でも読み書きが出来るTimtam掲示板なので、大切に扱って行きますのでよろしくお願いします。(M記)
April 01, 2005 桜が咲きました
今日から4月です。東京には桜の開花宣言も出て春本番といった感じでしょうか。
自宅近くの桜も一輪だけ花が開いていました。パッと咲いて、サッと散っていく桜は、その咲きっぷりが日本人好みだなんて話もあります。
寒くて辛い時期が終わり、暖かくなってきたところにパッと咲くからいいんでしょうね。これが夏の盛りに咲いたりしたら、私たちの持つ桜のイメージとはぜんぜん違っていたかもしれません。
山から見る景色も、苦労して登ったから素敵なのかもしれません。眼下に自分が登ってきた尾根が見えたりすると感慨深いものがあります。登りの辛さが、あってこその目前の景色。ちょっとロープウェイでは味わうことの出来ない体験ですよね。(文:I)
March 30, 2005 土合駅にビバーク
3/27の雪上訓練に参加するため前夜、土合駅にビバークしました。
自宅から在来線を乗り継いで乗り継いで約5時間。土合のホームに降りました。暗く飾り気のない、長い長いとっても長い階段を登り、今日の宿?土合駅改札前にやっと到着。
先客は、一人だけ。待合室のベンチに横になって、すでに熟睡中。私たちは、改札を入ってすぐ脇の通路に陣取ることになりました。ジュースの自販機もあるし、トイレはあるし、多分、飲料可の水道はあるしで、なかなか快適。
時折、電車が通過し、嵐のような音が響きますが、それ以外はシーンと静まり返っています。
簡単な夜食を済ませ、持ってきた焼酎を水で割ったり、お湯で割ったり、そのまま飲んだりしているうちに眠くなって、シュラフに包まっておやすみなさい。地面は平らだし、冬季用のシュラフを使ったこともあって、とてもよく寝てしまいました。
土合駅は、のんびりしているというか、趣があるというか、何かいい感じ。そんな訳で今週も、白毛門山を目指して土合でビバークです。。。(文:I)
March 25, 2005 登山とダイエット
山を登った後はとてもお腹が空きますが、果たしてどのくらい、カロリ消費をしているのでしょうか?
手元にある本で調べると、著者自らが被験者となって測定したデータが掲載されていました。それによると、行動時間 10時間の縦走で6900[Kcal], 7.5時間の同じく縦走で5300[Kcal],著者が子供と行った約4時間のハイキングで1500[Kcal]とあります。そして、フルマラソンの消費カロリが2000~2500[Kcal]。
個人差や山域で差はあるのでしょうが、本格的な縦走をすると、なんとフルマラソンの2倍以上!ちょっとしたハイキングでもフルマラソンに近いエネルギを消費するんですねぇ。通りでお腹が減るわけです。
マラソンよりカロリ消費が大きいのに、それ程、疲労を感じないのは、弱い運動を長時間続けているからなんだそうです。さらに、こっちの方がよく体脂肪が燃えるんだとか。
自然や景色を楽しみながら歩いていれば(時にはキツイ登りもあるけど)、知らない間に膨大なカロリを消費している登山って、理想のダイエット法かもしれませんね。(文:I)
March 23, 2005 北八ッ天狗岳に行ってきました
3/19-20に北八ッ天狗岳に行ってきました。
最初の予定では、黒百合ヒュッテ泊隊と唐沢鉱泉テント泊隊に分かれての山行だったのですが唐沢鉱泉テント泊隊リーダF氏が都合で参加できなくなったため、急遽、黒百合ヒュッテ泊隊リーダM講師と行動を共にすることになりました。
3/19の10時に茅野駅集合。駅前の駐車場で共同装備などザックにつめて、M講師とN氏の車に分乗して渋の湯へ。着後、各自服装や装備を整え、今日の目的地黒百合ヒュッテも目指し、正午前に出発。
メンバーは、黒百合ヒュッテ泊隊のM講師,ゲストのO氏、会員のY氏の3名と、唐沢鉱泉テント泊隊改め黒百合ヒュッテ テン泊隊のN氏,H氏,T氏と私の4名,合計7名です。今回、重~いダンロップ6人テント本体はT氏が自ら志願して持ってくれました。
この日は晴天で、オーバヤッケ(私は雨具)を着ていると暑いぐらい。「今日は日焼けするかなぁ」なんていってる間に、黒百合ヒュッテ到着。黒百合ヒュッテ泊隊は小屋前の斜面を利用して、アイゼン,ピッケルワークの練習。私たちは、テント設営となりました。もう設営も慣れたもので、あっという間に設営完了。その後私たちも練習に参加しました。練習場所は、広くて斜度もあって、雪の表面が平ら、かつ少し硬くなって滑落停止訓練にはもってこいの所。いい大人がキャッキャ、キャッキャと訓練(ほとんど遊び?)していると、それ見てか(?)他のパーティーも練習を始めました。そんなことをしている内に、日も陰り始め時計を見たらもう4時。山小屋でビールを買ってテントへと戻りました。
周りは雪だけど、もう春分、日が長いです。テントの中はまだまだ明るい。なんとなく得した気分で酒を飲んだり、お茶を飲んだりできました。気がつけば、いつの間にか暗くなり、ヘッドランプのスイッチON。ヘッドランプの明かりのもとで、食事をして8時半には眠りにつきました。
翌朝、まだ真っ暗な内に起床。外に出ると、満点の星空。今日も晴れそうです。薄明かりが差してくる頃には、食事も終えて、6時過ぎにはテント撤収も完了。小屋泊隊と6時半に合流して7時前には出発しました。
今日のコースは、黒百合ヒュッテ→東天狗岳→西天狗岳=西尾根経由=唐沢鉱泉→渋の湯です。そのため幕営装備は担いで移動です。途中、冷たい風に吹かれてながらも、1時間後には東天狗岳に到着。空はうす曇でしたが、展望はよく、南アはもちろん槍、穂高に、もしかして白山かという感じの山まで見えて大満足。他の登山者で混み合っている狭い頂上で何とか記念撮影を済ませ、西天狗を目指しました。
東天狗でみんな帰ってしまうのか、西天狗は人が少なく私たちが頂上についたときは、ほか1パーティ。東に比べ静かで、ちょっと広め頂上で休憩し西尾根を下ります。
ここからは予想はしていたものの、全くトレースなし。小屋やテン場には人がたくさんいたけれど、この尾根を通った人は誰もいない様です。雪質は硬いもののやっぱりラッセルは大変。みんなで交代しながら進んでいきます。結構、斜面が急です。よく考えてみれば当初の予定ではここを登るはずでした。いやぁ、ここを登らないでよかった。途中、この尾根をラッセルしながら登ってきたパーティに遭遇しましたが。結構バテバテでつらかった見たいです。
あとは、このパーティがつけたトレースをたどれば唐沢鉱泉です。12時過ぎには唐沢鉱泉到着。でも渋の湯までには、もう一登りしなければならないんです。この登りがダラダラとしてつら~い登り。唐沢鉱泉でなんとなく縦走終わりって言ういう感じでいたのものだから余計に辛い。「つらいなぁ。つらいなぁ」と思っているうちにやっとこさピークを過ぎ、後は渋の湯までの楽な道。午後1時にはポンと舗装道路に出て、お疲れ様でしたということになりました。
今回は3連休、渋滞を避けるため、温泉も入らず帰路につきました。
幕営装備を背負って、アイゼン履いて、ピッケル持っての初めての縦走。少し不安でしたが何とか歩くことができました。ほんの少しですが、雪山に対する自信をつけることができた山行だった気がします。(文:I)
March 18, 2005 天狗岳
八ヶ岳 天狗岳は、私が初めて行った大きな山でした。
それまで、丹沢あたりをウロウロしていたのですが、次第に飽き足らなくなり、どんな訳だか忘れたけれど天狗岳に行こうということになりました。コースは、稲子湯から入って、天狗岳を目指し、その後、中山経由で高見石、石楠花尾根を通って稲子湯に戻るといった感じでした。
そのときは、風もなくとっても良い天気でした。青い空と初めて目の当たりにする大きな山、3000m近い山頂ならではの大展望。登山ってなんかいいなぁと感じた瞬間でした。
山中に泊まるのも初めての経験でした。山小屋に泊まったのですが、そこで同席した方が冬の天狗岳の話をしていました。余り良く覚えていないのですが(失礼)、アイゼン,ピッケルが必要でどうのこうのといった話でした。何だかよく分からないのだけど凄いことやってるんだぁと思ったのを覚えています。
その翌日、テント泊をしている人を見かけ、テントが欲しくなり、山行後日テント購入。テント泊山行を始めるようになりました。そのうち沢登をしている人を見て沢登がしたくなり、Timtamに入会。沢登には、岩登りが必要なんだということで岩登りも始めました。冬になったら当然雪山講習があるのでそれに参加。そして明日、何だか良く分からないけど凄いなぁと思った天狗岳への山行に出かけることになりました。
こうしてみると、飽きっぽい私が良く続いているなぁと我ながら感心してしまいます。
この前の赤岳は天候が悪かったので、今度は晴れるといいですね。(文:I)
March 16, 2005 エングラムを積め
最近、あるクライミングの本を読んでます。
分類は、技術書になるのかも知れませんが普通の本とは異なります。
一般的な技術書は、ロープワークやムーブの紹介に多くのページを割いているのに対し
この本は、どうやったらクライミングが上達するかに重点を置いています。
どういう内容かというと、ムーブの習得方法、クライミングに特化したストレッチや筋トレの方法、心理的な影響を克服する方法などです。ロープワークの説明は一切なしです。どちらかというとスポーツ科学書という感じです。
まぁ、いろいろ書かれているのですが、そのなかで各個人のクライミング能力を
エングラムと言葉で説明しています。
聞きなれない言葉ですが、要は各クライマが身に着けているムーブ量っていうことでしょうか。どんな理屈かっていうと、「慣れたルートであれば、ほぼ本能的に登れるが、これはエングラムが体を自動的に動かしているからだ。初見のところでも、エングラムに余裕があれば、そこからもっと適当なムーブを分析し体を動かすことができる。登れないところは、自分のエングラムに適当なものがない。また、疲労や恐怖感あるときは、自分のエングラムの中の一番練習したムーブだけしか使うことができなくなる。(そういえば、疲れてきたり、恐怖感があると動きがにぶりますね)だかから、エングラを積むっていうことは、クライミングを向上させることだ」って言う理屈です。
じゃあ、どうやってエングラムを積むかっていうと、疲れていないときに、簡単で安全な所で、ムーブを練習するのが一番なんだそうです。
それでは、「なにをどう練習するのさぁ」っていうことですがこれも実は、ちゃんと書かれているんです。が、それはまた今度紹介します。(ブログネタがなくなってしまうので。。。) (文:I)
March 15, 2005 ホンネとタテマエ
今日3月15日にM講師(以下M)の勤務する公立中学校では卒業式が行われました。教員としてMは32回目の卒業式への参加でした。Mはその32回の内11回は3年生の学級担任でありさらに11回のうち2回は卒業学年の学年主任でありました。Mとともに最低でも1年間105回以上の授業(1回50分)を共にすごして卒業した生徒は4000人を越えて数えることが出来ます。思えば遠くへ来たもんだのやつ(:M)です。
憲法にある等しく教育に関する条文そして教育基本法、それを受けて文部科学省は理想的な教育プラン(タテマエの部分)を作ります。学校現場はそれを具体化する現場(ホンネの部分)です。義務教育の中学校の教員はそのタテマエとホンネをジョイントする仕事がメインとなるみたいです。ガリレオの地動説裁判の判決の後に「それでも地球は動いている」と言ったエピソードの例をあげるまでもないことですがタテマエは次から次に現れるホンネにいずれ対抗手段を窮するようになるのです。
いじめられている生徒がいたとします。ホンネに近い方の友達や担任の先生が助けられないならばタテマエに近い方のの校長先生や教育委員会が助けられるわけがないのです。助けるために、親の取るべき方策は転校です。「孟母三選」こそホンネで成功した教育の本質と知るべしです。
タテマエとホンネの間にうごめくストレスは中学教員を痛めつけます。どんなに努力してもうまく行かない仕事があってそれでもその仕事をしに出かけて行がなければならない日が長く果てしなく続けば、食事をすることさえ困難になるほどのストレスというか心身症に陥いる方がフツ-です。そういった心身症は本採用の中学教員の10人に1人程度(アバウトに表現したMの経験値)を二度と中学校の教壇に立てない人に追い込んでしまうほどのものなのです。
リードして岩を登りせっぱつまってなんとしてもどこか支点にクリップしようとする時のホンネ、アルパインクライミングでハマッチャッテ時間切れビバークとなり衣食住の確保に全精力をそそぎ脱出を計る時のホンネ・・・など山登りはホンネが主体となる場ではないでしょうか?。「ホンネで生きたいと思うこと」がMのめちゃな(たくさんの犠牲を無視するかのように出かける年間50日以上を数える)山行を20年も続けるエネルギーの源になったと看破します。
March 14, 2005 北八ヶ岳・八柱山
天狗岳から縞枯山までは北八ヶ岳のメイン稜線というべきでしょうか?人が多くて、よほどのことがないかぎりラッセルするなんてことはないようです。ラッセルがあってもトレースの上に積もった雪のラッセルです。
縞枯山の北、北横岳を越して北に行こうとすると、人の気配が絶えてしまいます。2月半ばから4月始めにかけては、雪深く、夏道を追うことが出来ない山になります。その辺でよさそうな山がないかななんてエアリアマップを見ていたら雨池の西に八柱山というのを見つけました。富士山眺望の山との記載ありです。スノーシュー登山に最適の山と見抜きました。今週末の北八ヶ岳・天狗岳の講習会が予定通りに終わったら、予備日分の1日を使って偵察がてら行ってみようかな?なんて思っています。渋の湯あたりの温泉に浸かってしまってヒヨル可能性も大きいのですが・・・?
March 11, 2005 日和田山
岩登り入門の定番、日和田。何回訪れたか分からないぐらい通いました。
初めて訪れたのは、8月の平日で有給休暇をとって参加した記憶があります。真夏で蚊に刺されながら講習を受けました。
はじめは、子ども岩でトラバース。これがなかなかできない。同時に岩登りを始めて、そのときも一緒に受講したIM氏はスーッと簡単にできちゃって、なんだか複雑な気持ち。その後、ロープワークを教わって男岩に移動。
南面の一般ルートは、何とか登れて(もちろんセカンドで)良かった良かったと安心していたのですが、西面に移動したらまったく手が出ない。ルートは、いまやTimtam受講生の最初の目標となりつつあるステミングフェースだったような気がします。なんか、かぶってるし、どこを、どう持って良いか分からないし、IM氏は登っちゃうし、ほんと悲しいやら、悔しいやら、とっても落ち込んだ記憶があります。
それでも何回か日和田に通っていくうちに、登れるようになりました。うれしかった。このときは、「何でここが登れなかったの?」という感じでした。人間不思議ですねぇ。ちなみにIM氏は、最初の講習でM講師に絶賛されて、全然やる気の無かった岩登りに目覚めることになったのでした。
そんな訳で、想い入れたっぷりの日和田。明後日にも講習がありますが、晴れるといいですね。でも花粉が心配。(文:I)
March 10, 2005 ふしぎな瞬間
ワンダーフォーゲル部出身のM、現役時代もそのOB会に入ってからも「岩登り」をすることはありませんでした。でもひそかにあこがれ一度は経験してみたくてMはI氏の門をたたきました。1982年9月23日I氏はMとT氏(今は山岳会トマの風の会長として活躍しておられます)のたった2人の講習生を連れて日和田山の岩場で岩登り講習会を開いてくれました。
10年ものあいだ岩登りをすることをひそかに夢見て知らず知らずのうちに研究していたMは文書から知りえていた知識と実際のナマの技術が融合して、雲の中にあるようでよくわからずじまいだった岩登りの何かが、断片的な知識がカキーンと音がするように繋がり、いきなりクリアに「わかった!」のでした。そして、自分はこういうこと(「岩登り」(後に「沢登り」とか「雪山登山」が追加)を伝える仕事をするんだと思ったふしぎな瞬間でした。仲良くなれると直感し現実にそうなっていく友人に出会った時と似たような、「ふ し ぎ な 瞬 間」でした。
今週末の日和田山の岩登り講習会は、初参加の新入会員が2名いて、レビュー参加の1年生会員の4名と講師Mの計7名が現在のメンバーです。楽しい岩登り教室になるといいですね!
March 09, 2005 只今クリップ練習中
私は、リードの際のクリップが上手くありません。というか下手なんです。
クリップというは、ロープを支点のカラビナにかけることなんですが、カラビナはブラブラしているし、ロープは思うように持てないし、緊張しているし、とパチッと一発で決めることがなかなかできません。そんなこんなで、モタモタしていると体を保持している腕も疲れ、結局スリングや別のホールドをつかんでフリー終了。
クリップが上手な人(当たり前かもしれないが、クライミングそのものも上手)を見ると、ほんとにスムーズ。ロープをスーッと持ってパチンと一発で決める。とっても簡単そうにやっています。
そんな上手い人を目指すべく、現在、自宅で練習中です。やり方は簡単。壁にクイックドローを掛けてロープを持ってひたすらクリップを繰り返す。右手でパチッ,左手でパチッ、片足で立ってパチンという具合です。
この手の練習は、皆さん行っているらしく、自宅で,車の中で、職場で(?)と日々鍛錬しているそうです。
私も、頑張らなければ。(文:I)
March 08, 2005 タカマタギ山顛末記
5日(土) 午後3時、土樽駅に次々とメンバーが集まってきました。最初に講師のM氏がマイカーで到着、テント泊装備全部と不意の積雪に備えたレンタルスノーシュー6台で氏の軽自動車の後部座席は満席です。普通電車を乗り継いで身長180cm氏(雪山経験が豊かでみんどうみのよい優しい人)が先に到着。30分後の指定の電車で海外トレッキングツアーの話好き会員氏とその学生時代のポン友氏とネパールー等貧乏旅行経験豊富ゲスト氏がやって来ました。総勢5名のパーティの出来上がりです。
駅から徒歩20分魚野川の橋を渡った所の平標山登山口付近にテントを設営しました。テントから10mの所にM氏の車があります・・・テント泊入門はすなわちオートキャンプもどきです。
テント設営の後、付近をスノーシューで散策しました。初めてスノーシューを履くポン友氏と貧乏旅行経験豊富氏はおおはしゃぎ、はるかかなたまで行ってしまいなかなか帰って来ません。こんなところで行方不明?・・・心配になって「オーイオーイ帰っておいで」と叫びながら呼び戻しに出かけるしまつ。
2m×3mの床面のスペースの6人用テントに初顔合わせのメンバーが5人で入って、スッタモンダのテント生活、お酒を飲んで、水を作って、身長180cm氏の入れてくれた紅茶で至福のひとときを過ごし(ありがとうございました)。それから、各自持って来たインスタントラーメンとか味付けアルファー米が主体の慣れないテント内炊事をどうにかすませ、海外トレッキングツアー話好き氏のしつこい話を「ハー」とか「ヘー」とかいいながらテキトーに聴きながし、貧乏旅行経験豊富氏の話に聞き耳を立て、おとなしいポン友氏もそれなりに話し出したりするうちに9時30分を過ぎたのでテントのはじに寝る者から寝場所確保して10時に消灯しました。寝たり起きたり、気温は0度くらいでスリーシーズンシラフでテントのはじに寝ていてもぜんぜん寒くありません。
6日(日) 5時起床6時30分出発、スノーシューを履いて足のふくらはぎまでもぐるラッセル、湿った雪で重たいです。身長180cm氏と海外トレッキングツアーの話好き氏のラッセル能力は抜群、他のメンバーもがんばってぐんぐん高度はかせいで、頂上直下の雪壁のトラバースの所に13時30分着、雪の状態が悪く雪崩の危険あり、登頂するにはあと最低3時間はかかる、メンバーの半分はアイゼンを履いたこともない雪山初心者・・・ということでそこから引き返すことに決定!
急斜面は登りのトレースーをさけてフカフカ雪の部分を大股で駆け下る感じ、スノーシューの下りは爽快そのもの。緩い斜面の所まで降りてからは踵をフリーにしてトレースーの上を行きます(街でやるエキササイズウォーキングみたい)。7時間弱で登った所を2時間強で下り、テントを撤収して16時30分土樽駅で解散しました。
March 04, 2005 今日は雪
雪、予報通り降りましたね。
朝、窓を開けたら一面の銀世界かなと思ったのですが、積雪は、まだそれほどでもないようです。
交通機関の混乱もそれほどではなく良かった。良かった。
でも、道路が滑りやすいです。特に駅前などのタイル張りの歩道がとってもよく滑る。横断歩道の白い部分も滑りますね。
「転びそうだな」って慎重に歩いているときは、大丈夫なんですが、なんでもない所に滑りやすい箇所があったりすると、油断しているので足をとられて、「おっとっと」っていうことがあります。そういえば、山でも下山して緊張が解け、気が緩んでいる時にも、よくやってしまいます。
林道の舗装道路を歩いていると、側溝の蓋に足をとられてズルッ!
駐車場の凍結した所でズルッ!
のような具合です。
いままでの緊張が解けた瞬間は、何ともいえない良さがあるのですが、それで、怪我しては元も子もないですね。緊張が解けた快感を味わいつつ、気を引き締めなければ。。。
皆さん、今日の通勤はお気をつけて!(文:I)
March 03, 2005 タカマタギ山
下りの上越本線、沼田、後閑、水上、湯檜曽を過ぎて新清水トンネルに入り土合、そして、清水トンネルを抜けて土樽に到着します。土樽駅、今は無人駅です。駅前には店一つ無く、土樽スキー場とその下に土樽山荘があるのみです。
清水トンネル掘削の基地であった土樽エリアはトンネルが出来たら元の深い山の中に戻る予定でした。東京出身?の谷川岳のヒゲのじいさんこと高波吾作氏が土樽エリアをさかんに開拓し宣伝してスキー場と山小屋まで作り、土樽駅の誘致に成功しました。それはもうかなり昔・・・?の戦前(太平洋戦争前)のことでしたす。土樽スキー場は今も高波吾作さんの3男の高波静雄さんによって維持されています(山小屋:土樽山荘は北極倶楽部の伊藤宗佐衛門さんに営業権を売却)。土樽エリア松川地区には高波静雄さん経営のタカナミヒュッテがあって、我がTimtamのスタッフN氏や講師のW氏そして代表M氏などが頻繁に利用させてもらっています(民宿なのに山小屋料金で泊まれます)。
タカマタギ山に初めて雪山の講習会を設定したのは、小泉共継さん(ゼフィルス山の会代表)です。1980年代前半に上越・タカマタギ山と上信・高峰山の山スキー教室を「「山と渓谷」誌上で募集されていたのを記憶しています。同時期に我がTimTamのM講師も期せずして依頼され土樽スキー場周辺で山スキー教室を開きました。いきない朝日新聞の取材が入りアセリました。1980年代前半は山岳ガイドの組織もなく山登りを教える所があること自体がニュースになった時代でした。
世界でたぶん一番たくさん雪が降る土樽エリアです。TimTamとその前身の山塾サポートはそのエリア(足拍子山、荒沢山、日白山など)に足しげく通いました。タカマタギ山にはスキーで2回、ワカンで1回、スノーシューで1回、雪山技術講習会を開きました。それなりに深く大きくて未だ山頂までは到達できずです。今週末の雪山教室ではテント泊でタカマタギ山の山頂を目指します。超早朝発してぜひとも山頂をゲットしたいと考えています。
March 02, 2005 月曜日は眠い
今日は水曜日ですが月曜日の話をちょっと。
何で月曜日が特別か。それは山行の翌日だからです。
Timtamの講習は、ほとんどが日曜日の日帰りです。
朝早く起きて、日中は思い切り遊んで、帰宅はいつも暗くなってから。
だから、月曜日は眠い、眠い、眠い。
通勤電車で熟睡。昼休みも熟睡。帰宅の電車でも熟睡。家で寝るときも熟睡。。。
そして、週末に近付くごとに、体力を回復し、土曜日に近くの岩場や人口壁に行き、日曜日に講習に出かけていくのです。
さすがに一年近くこんな感じの繰り返しなので、筋肉痛は、ほとんど出なくなりました。
眠さもいつか克服する日が来るか?(文:I)
February 25, 2005 貴重な体験
こ前の北八ッ山行では、荷物の重さとラッセルとで、バテにバテてしまいました。
それじゃ、ここら辺でビバーグっていうことで、テント設営になったのですが
疲労のせいでしょうか、急に体温が下がった感じがして、普段、暑がりの私が何枚着ても暖かくなれません。まるで、熱が出て悪寒がする感じです。そんな状態なので、みんながテント場の整地作業をがんばっているのに、私はふらふら状態で、全くの役立たず。
でも、テントに入って火を焚いたら,すぐに元気になってしまいました。精神的なこともあると思いますけど、なんとなく不思議な経験でした。
「テントやツェルトで空間を作り、火を焚く。」これができる装備を持つというこは、本当に大切なことなんですね。ツェルトは必携で、非常時にその有無が生死を分けることがあるは、もちろん知っていたけど、それを少し実感できた貴重な体験でした。(文:I)
February 22, 2005 恵比寿の地
今日は明日の山の集い(机上講座)の準備で大忙しです。
山の集いの会場は恵比寿区民会館で夜の7時30分から開始です。たくさんの人に来てほしいと願っています。恵比寿区民会館にはこじんまりとした小集会室があってそこがレクチャーの会場です。古いけれど長く清潔に管理されていた感じがしてきっといいなと思ってもらえると思います。駅から歩いて五分ぐらいの渋谷区の施設の入った建物の二階です。
私(M)は今は郊外に住んでいますが、子供の頃は港区赤坂伝馬町(現在は元赤坂一丁目)という所で過ごして、なぜか渋谷区の小学校に通いました。渋谷駅近く恵比寿あたりは故郷感覚の地なのだろうと思います。街中に育ったから山や海のある自然豊かな所に遊びに行くのが好きになったみたいです。よく、そんなに山が好きなら山小屋の番人になればいいとか、山の麓に引っ越したらいいとか言われますが、街に暮らしてこそ、恵比寿発で山に行ってこそ「山はいいな」と感じるんだという気持ちが高まるんだと思います。我が国に訪れる海外からの観光客は台湾からの方が一番多くて、そのツアーの内容は北海道で雪に親しむというものだそうです。それに似た、無い物ねだりの感覚みたいです。
February 18, 2005 贅沢な遊び
テント泊は楽しいものですが、日常生活の様に快適とは言い難いです
そのため、山行を終えて家に帰ると、普段の生活が快適であることを改めて実感します。
蛇口をひねれば水は出るし、電気でいつでも明るいし、平らの所で眠れるし、などなど。
トイレに至っては、お湯でお尻を洗ってくれるのですから、もう感激。
でも、翌日になるとその感動もなくなってします。すぐに快適さに慣れてしまうんです。
不便さを楽しみ、日常の豊かさを改めて感じさせてくれるテント泊は、ある意味贅沢な遊びなのかも知れません。(文:I)
February 16, 2005 ATC
Timtamでは現在、岩登りのビレー器具にATCを推奨しています。
(理由は、ホームページの「山の道具」の欄を見てください。) そんな訳で私もATCを使用しています。
ところで、ずっと疑問だったのが、ATCって何の略語なんだろうということ。
手元にあるクライミングの本をパラパラめくって見ても、それらしい説明がありません。
別に、知ったところでクライミングが上達するわけでもないので、放っておいたのですが、これを機に調べてみました。
ATCのメーカ、Black Diamond社のホームページを見てみると、ATCの欄に
「Air Traffic Controller」と記載がありました。日本語に訳せば、航空管制官。
クライマーを飛行機に見立て、その飛行機(クライマー)の往来をコントロールするものといった感じでしょうか。
言われてみれば、その雰囲気はわかるけど、調べなかったら「ATC=航空管制官」とは、思いつかなかったろうな。たぶん。
(文:I)
February 13, 2005 北八ツテント泊
Timtam会員のIです。登山歴2年の初心者です。このブログに週数回、記事を書くことになりました。 Timtam講習会での記録や感想、登山に関して思うことなど記事に出来れば良いなと思っております。よろしくお願いします。
2/11~2/13にかけて北八ツに行ってきました。
冬山装備購入で、お金を使ってしまった私は、山小屋代を節約すべく、「今回の講習は、テント泊で参加させてください」とM講師に直談判。
あっさりOKが出て、さらに賛同者も集まり、結局M講師も巻き込んで、山小屋山行からテント泊山行となりました。
1日目、みんな体力ある人ばかりだからとM講師のサービスで、予定の稲子湯→しらびそ→ニュウ→白樺尾根を逆の白樺尾根から行くことに。
ところが、荷物は重いし、登りはは急だし、ラッセルはきついしで、もう私はバテバテ、結局ニュウまで辿り着けず途中でビバーグとなりました。
整地,テント設営,水作りなど、私も含めて雪山テント泊初めてのメンバーは、いろいろ教えてもらって、食事を済ませ10時間の眠りつきました。
2日目、ニュウに向けて出発。藪漕ぎとラッセルの末にニュウに到着。360度展望山頂からは、富士山も見えて感動。この後は、凍った白駒池の上をスノーシューで歩いたり、高見石に登ったり楽しいハイキング。と油断していたら中山までのつらい登りに遭遇。ラッセルはないのだけれども荷物は重いし、またもやバテ気味。油断は禁物でした。
中山を過ぎれば後は、ほぼ下りの登山道。まじめに歩くM講師とT氏に遠慮しつつ(?)、尻セードなどで遊んでいるうちに今日のテントサイトしらびそ小屋に到着。山小屋で調達した、ビールと、にごり酒で乾杯し眠りにつきました。
3日目、雪で覆われた北八ツの森を堪能して午前9時前には、稲子湯到着。そのまま解散し、日があるうちに家につきました。(Nさん運転お疲れ様でした)
今回の講習は、三日とも快晴に恵まれて、さらに盛りだくさん経験も得られ、充実した物となりました。
February 08, 2005 北八ヶ岳テント山行
今週末の北八ヶ岳・稲子湯~ニュー~白駒池にテント泊隊が出ます。参加するTimTamの若手バリバリ4人衆(Nくん,Hくん,Iくん,Tくん)の申し出によるものです。
雪上テント泊はちょっと荷の重いのをがまんすればいいことずくめです。
*ちょっと平らな所があればどこでも泊まれる。
*水汲みに行かなくてよい。
*トイレ(その時除雪をする)以外は外に出ない。
*山小屋より自由があるし雪の近くに在ることが出来る。
*夏と違ってドロが上がらない。
*サイドに寝なければ両隣の人の体温に暖められ暖かく寝られる。
*雪の上に直接寝ているという体験の素敵さがGoo!
*サイドで寝て、寒くて寝れなくても横になってさえいれば翌日ばっちり元気!
テント泊に慣れない人は腰がいたくなりつらいのです。そうならないためには、あぐらをかいて座った時にちょっとだけ腰が伸びてるように力をいれているとか、しょっちゅう姿勢を変えるとか、うだうだ起きていないで早く寝てしまうとかしないとなりません。
テント泊でも自宅にいるのと変わらない程度にリラックスして過ごせるようにいずれなります。ハテ、そんなにたくさんテント泊するようになっちゃうのかな、40歳代半ばまでの年齢制限あり?
February 05, 2005 既存の概念にとらわれたくない。
1/29~1/30に日光・切込湖周辺、2/5に上信・湯の丸山にスノーシューハイキングに行ってきました。スノーシュー人口は確実に増加しているみたいです。いろいろな種類のスノーシューを履いている人とすれ違いました。
残念だったのはせっかく山岳用スノーシューのTSL225やTSL127などを履いているのに急斜面で靴の踵を固定するフックを止めず斜登行をくりかえしている人に出会うばかりだったことです。
スノーシューと言えばヒールフリー(踵が上がる)で歩くという既存の概念が定着していますが、山岳用のスノーシューは踵が止まりキックステップが出来るので40度もの急斜面を登れるのです。でもその山岳スノーシューが踵固定の機能を使ってもらえないままうもれてしまうのではないかと危惧しています。
既存の概念による理解を否定するのは難しいです。「私立大学付属高校出身だからお金持ちなんでしょ」とか、「学校の先生には春休みがあっていいですね」とか、「そんなに山が好きなら山小屋の小屋番になったらいいんじゃない」とか、「アーやっぱりB型だ!」とか・・・?僕も始めはスノーシューは急斜面の雪山には向かないと思っていました。既存の概念にとらわれていたことに反省しきりです。
人や道具や物などに対する既存の概念に対して、意識して対応することにより誤解を避けるように努力しようと思います。
February 04, 2005 トップページのメニューに今日のTimtamを入れてスタート
トップページの事務局よりのお知らせをTimtam掲示板に重ねるように記載して合流させます。それで空いたコンテンツスペースに新しく「今日のTimtam」を加えます。それは「ブログ」の機能を備えた新しいコンテンツです。
ブログとは「ウエブサイト&ロゴ」の略です。ウェブサイトの意味は言うまでもありません。それで、ロゴは日常という意味があるそうです。「ブログ」とは「日常的に更新するサイト」という意味です。その意味に似合うように毎日更新出来らいいなと思っています。